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運命に花束を②
運命と娘②
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「それで、向こうの様子はどうだった?」
薄暗い部屋の中、男は机に向かったまま顔も上げずにそう言った。まだ、来訪も告げてはいないというのに誰が来たのかまで分かってしまうのか、とルークは少しだけ戦慄した。
この男、ブラック国王陛下の下で働き始めてすでに数年が経過しているが、それでも付き合いが長くなればなるほど『ボス』という人間の奥深さに慄く事が増えている。
一見何も考えずに適当な指示を飛ばしているようにしか見えない彼が、頭の中で緻密な計算をした上で最終的には大きな目標を達してしまう様を何度も見かけて、この人は立つべくしてこの場に立っているのだと思わずにはいられないのだ。
「作業自体は順調です。滞りも問題もなく進行中です」
「そうか、では騎士団長の報告通りだな」
「ただ、任務以外の所で何か少し厄介な事が起こっているようで、少し経過を観察しています」
「厄介な事?」
「はい、町中の至る所で妙な噂が流れています。特別悪意のある内容ではないので放っておいてもいいのかもしれませんが、気になるのはその内容で、あの二人の在る事無い事取り混ぜて色々な話が飛び交っているので少し気にかかります」
「害はないのか?」
「そういう悪意を感じるような噂話は今の所ありませんね。デマは幾つも混じっていますけど」
「ふむ……」
ブラックは唸るようにして、顎に手を当て考え込む。
「少し様子を見るか。あいつ等に何かあったら、それは俺の責任だ。何か問題が起こりそうならすぐに連絡を寄越せ。他に報告がないようなら今日はもう休め」
「はっ!」
言葉と共に気配は消える。ブラックはひとつ溜息を零した。
「面倒くさい事にならなければいいが……」
正式な報告としては一切上がってきてはいなかったが、グノーの寄宿舎での様子や出来事は黒の騎士団の方から報告が上がってきている。ナダールをなかば強制的に騎士団長に担ぎ上げて、無理強いをしている自覚のあるブラックは、それでも気に病んでいたのだ。
グノーの事情も過去も全部知っている上に、グノーとは十年を超える付き合いになる旧知の仲、それにも関わらず、すぐ傍にいて彼の異変に気付いてやる事ができなかった。
自分が彼の異変にもっと早くから気付いてさえいれば、ナダールが今こんな大変な思いをしながら仕事をこなすような状況になる事はなかったはずだ。
そもそも誤算はグノーがここイリヤに残った所から始まっていた。
彼が旦那にベタ惚れなのは分かっていたので、当然彼も一緒に付いていくものと疑いもせずにルーンへの赴任を言い渡したのに、彼は何故か子供と共にこの地へ残ったのだ。
それはとても予想外ではあったが、まぁそれも自分達で決めた事だ、と思っていたのだが、まさかこんな事になるとは予想もしていなかった。
だが、そんな困難が幾つも立て続けに起こっているにも関わらず、ナダールは何も言わず、仕事に滞りを見せる事もなくただ淡々と任務を遂行していく。しかもその仕事ぶりが予想を遥かに超えて出来過ぎるほどに進んでいくので、逆に何か無理をしているのではないかと危惧していたのだ。
何もかもきっちりとこなそうと無理をして仲間内で軋轢を生んでやしないかと案じていた所に、グノーが襲われたという報告が黒の騎士団から入り、やはりか……とは思ったもののナダールからは何の報告も上がってはこなかった。
ただ『少し騎士団内でホームシックにかかっている者がいる、何人か帰らせるが彼等を咎めないでくれ』とそれだけの報告がきた。
もう無理だ、この仕事を辞退させて欲しい職も辞したい、とそんな事を言いだしても不思議ではない事態であっただろうに、彼はそんな事は一言も言わず、恐らく乱暴を働いたであろう者達を『咎めるな』とさえ言って寄越したのだ。
それは黒の騎士団がその場にいて、報告がブラックに上がっている事を分かった上でのその言葉に驚きを隠せない。
グノーを蔑ろにして自分の体裁を整える為にあえて言わない、権力におもねりこちらの顔色を伺っている、そう思ってしまいそうな態度でもあるが、彼がそんな人間ではない事はここまでの付き合いで理解している。
彼は無限大に度量が広い、すべての困難を抱えてそれでも前を向くそんな姿勢にブラックは感銘を受けると同時に、こいつを手離したら国家の損失だと思うに至った。
「少し様子見に行くかな……」
凝り固まった肩を回して、一人呟く。
そんな呟きを聞いている者は誰もいなかった。
「あれ? 今日は誰もいないのですね」
いつもと同じく陽が暮れた頃に、ナダールは家路に着いた。
「お前があんな事言うから。せっかくの常連客、逃したらどうすんだよ」
グノーは広い店内で手持ち無沙汰にそう言った。
「今日はメリッサさんがいたから、食材余らせる事もなかったけどさ……」とぶつぶつ呟きながらも、やはりその顔は不満顔だ。
「あはは、残ったものはすべて私が食べますので大丈夫ですよ。ところで、コリーさんの娘さんはどうでしたか?」
「元気のいい人だったよ。覚えも早いし、性格もさっぱりしてるから話しやすい」
話を聞いてみれば年齢はグノーと同じで、そろそろ嫁き遅れを心配する気持ちもなんとなく分かってしまった。
「ところで、アジェから町で変な噂が流れてるって聞いてたんだけど、今日メリッサさんからもその話聞いてさ、詳しい内容教えてもらったんだけど、お前聞いてる?」
「なんだか色々な話が流れているみたいですね。私はあまり人と関わらないので、その内容までは聞いてはいないですけど、どんな話なんです?」
「……俺がメリアの姫で、お前と駆け落ちしてきたって話……」
「は?」と鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした後「それはいい」とナダールは腹を抱えて笑い出した。
「笑い事じゃねぇだろう、俺がメリアの王族関係者だって知ってる奴がいるかもしれないんだぞ」
「でもあなたは姫ではないですし、駆け落ちはなかなかいい表現だと私は思いますよ。なんだか素敵な恋物語でも生まれそうだ」
「だから、その噂話が全部そういう恋物語なんだってば……」と渋い顔でグノーは唸った。
「あはは、そんな感じなんですね。これは可笑しい」
「もう! 笑い事じゃないっっ!」
「大丈夫です、心配するような事は何もありません。私、その恋物語の出所知っていますからね」
「え? そうなのか?」
「はい」とナダールは笑いすぎて零れた涙を拭う。
「その噂、恐らく出所はコリーさんです。私があなたを寄宿舎に連れ込んだことで、私が『女好きらしい』と悪評が立っていたらしくてですね、それを打ち消す為に私は『少しばかり度の過ぎた愛妻家』だと噂を流したと言っていたので、たぶんそれだと思います」
「なんでそんな事を?」
「実験をしているのだそうですよ。噂話がどのくらいの速さで広がるのか観察しているらしいです。何を思ってそんな事を始めたのかよく分からないのですが、本人は凄く楽しそうでしたね」
ナダールのその言葉に、グノーはなんだよそれ……と思いつつも、少し心が軽くなる。
「なんだぁ……心配して損した。じゃあ誰かを探してるらしい黒マントの男もきっとその実験の一環なんだな」
「黒マントの男?」
「そう、フード被った黒マントの男が人を探してるって噂があるらしくて、こっちの噂と相まって、俺の事探しに来た奴かも……なんてびびっちまった」
黒マントの男……そんな話しはコリーから聞いていないぞ? とナダールは首を傾げる。
「どうかしたか?」
首を傾げ、少しだけ考え込む素振りを見せたナダールにグノーは少し心配そうな表情を見せた。
「いえ、なんでもありませんよ」
ナダールは首をふる。考えすぎだ、噂は噂であてにはならない。それもきっとコリーの実験の産物に過ぎないと考えたナダールはにっこり笑みを零す。
「それにしても、私も聞いてみたいですね、あなたと私の恋物語。後でじっくり聞かせて下さい」
グノーは何故かその言葉に頬を染め、視線を泳がせた。
「聞かない方が身の為だぞ、どこの激甘恋愛小説だよってくらいの話に俺は途中から思考が付いていかなかった……」
「そんなに……?」
一体どれほどに盛られた物語がそこに展開されているのか興味もあるが、グノーのその何とも言えない微妙な態度に少しの不安も覚える。
「自分の事なので、やはり一応聞いてはおきたいのですけど……」
「うぅ……あんまり話したくねぇんだけどなぁ……」
そう言ってグノーが語ってくれた恋物語はそれはもう激甘な少女小説のような物語で、しかも自分と思われる白馬の王子様が眩しすぎて、ナダールはどうにも複雑な表情を隠せなくなっていた。
「コリーさん、あなた小説家に向いているのではないですか?」
翌朝、ナダールは挨拶もそこそこにコリーに苦笑いでそう言った。何故そんな表情になってしまうのかと言えば、そうでもしていないと思い出して笑い転げてしまいそうだったからだ。
「なんのお話ですか?」
「私とグノーの壮大なラブロマンス、作り上げたのあなたでしょう?」
「あぁ、ついにあなたの耳にも入りましたか」
コリーは少し楽しげに「さすがに女・子供受けのいい話しは広がるのも速いですね」と笑みを見せた。
「別にどんな話でも構いはしませんが、さすがにそれはないっ! と突っ込み所が多過ぎて聞いていて笑いが止まりませんでしたよ」
「おかしいですねぇ、そんなに笑える話ではなかったはずなのですが……どちらかといえば泣ける悲恋を目指したはずなのに、私もまだまだですねぇ」
確かにその話は傍から聞けば泣ける悲恋だったかもしれない、だがその話の主人公が自分となれば別問題だ。
ちょっとそこ、なんでそんな事してるんだ? と思わず突っ込まずにはいられない展開の連続に、本気で途中から笑い死ぬかと思うほどに笑い転げてしまった。
別の意味では泣ける話として成立したが、当事者としてはどうにも滑稽な話にしか感じられなかったのも仕方がないというものだ。
「そもそも私がランティスの貴族の御曹司だって言われた辺りからすでに誇大妄想ですからね、グノーの前に現れた登場の仕方も白馬の王子様過ぎて……くっ、思い出しても笑ってしまう……」
「まぁ、あなたがここカルネ領の領主の奥方様の甥にあたるのは事実ですからね、それくらい盛っても大丈夫かな……と」
コリーは悪い笑みでほくそ笑む。
「あはは、それはそうかもしれませんけど、ちょっと色々盛り過ぎです。あ~可笑しい。でも、さすがにこれ以上噂が一人歩きすると、私もグノーも居心地が悪くなるので、この辺までにしておいてくださいね」
「えぇ、目的はほぼ達しましたので、もうこれ以上の噂は流しませんよ」
「……目的?」
何やら意味不明な言葉に首を傾げると「おっと……」とコリーは瞬間慌てたのだが「何でもないですよ」と作り物めいた笑みを見せる。
「あなた、実はこの噂話で何か企んでたりしてないでしょうねぇ?」
「ふふ、あなたが気にかけるような事ではありませんよ。これも私の実験の一環で、いやなにご迷惑はおかけしません」
「本当ですか?」
ナダールは胡乱な瞳をコリーへと向ける。
「当然です。あなたに迷惑がかかるという事は、必然的に私も巻き込まれるという事です。そんな失敗はいたしませんよ」
「そうですか……何をしているのか聞くのは?」
「実験がすべて終わりましたら、お知らせいたします」
こうなったらコリーはてこでも口を割らないとナダールはなんとなく悟る。
「実験、上手くいくといいですね」
「手筈は万全です」
一体何の手筈が整っているのか皆目見当も付かないが、まずはとりあえず「頑張ってください」と声援だけ送っておく。
「ところでお店の定休日、正式に決まりましたか?」
「あぁ、決まりましたよ。週半ば毎週水曜日、来週は23日です。そんなに確認するほど、お風呂入りたいですか?」
「当たり前です。行ってやっていなかった時の絶望感たるや、考えたくもありませんね」
そこまで……? とナダールは心の中で苦笑する。
「それと、娘はどんな感じだったか奥さんから聞いていますか?」
「えぇ、元気な娘さんで気が合いそうだと言っていましたよ」
ナダールのその言葉に少しだけコリーの片眉が上がる。
「……くれぐれも手は出さないように伝えてくださいね」
「そこは安心だと思ってうちに預けたんじゃないんですか?」
娘を過剰に案じる父親に、どうにも苦笑いしか出てこない。
「それでもよく考えたらあの人だって男性じゃないですか。容姿が女性っぽいのでうっかりしていましたけど、あまり仲良くなり過ぎるのも……」
「あなた、私以上の心配性ですね。大丈夫ですよ、あの人女性の友達多いので、普通にそんな感じでしたよ。心配するような事は起こりません」
「そもそも女性には興味がない方なのですか?」
「どうなんでしょう? はっきり聞いた事はありませんけど、そもそもあの人、色事は好きではありませんからね。自他共に認める『運命』である私ですら散々拒否され罵られ、ようやくここまできたくらいですから」
「それで一体どうやって結婚にまで漕ぎつけたんです?」
「……なかば無理矢理? 嫌ならはっきり嫌だという人なので、私は特別だったと惚気させていただきましょうかね」
ふむ、とコリーの片眉がまた少し上がる。
「それはただ単に押しの強い人間に弱かった……とかそういう話ではなく? メリアの、元とはいえ王子に対して無理強いなんて国際問題ですよ。とんでもない人ですね」
「無理強いなんてしていませんよ、全てひとつひとつに許可は取っています。結婚だってちゃんと嬉しいって言ってくれましたよ!」
なんとはなしに焦るナダールに「それならいいですけど」とコリーは納得したのかしていないのかよく分からない真顔で頷いた。
「でも、それなら娘に男だとバレないようにお願いします。娘はとても面食いな上に押しが強いです。万が一あるといけません。奥さん普通に美形ですからね」
「え……ちょっとそういうの止めてくださいよ、それでなくてもあの人変なのに好かれやすいのに」
瞬間、コリーの表情が冷え切ったのをナダールは見逃さなかった。
「……うちの娘が変だと、おっしゃりたい?」
あぁぁぁ、口が滑った!
けれど、グノーが色々な人に好かれて、妙な執着を持たれるのは日常茶飯事なので否定もしづらい。
「いえ、そうではなく! あの人、人に好意を持たれる事に慣れていないので、そういうの本当に困ります」
「あなたががっちり捕まえておけば問題ないはずでしょう?」
「娘さんがグノーに迫る事は私ではどうにもできないじゃないですかっ!」
「そこは男性だとバレなければ大丈夫です。娘にレズっ気はありません」
「私達、そもそもあの人の性別偽って生活していないのですよ、皆が勝手に勘違いしていくだけで、長く付き合えば絶対に気付きます。気付いた方には都度説明をして今まで理解を得ているので、そのスタンスを変えるのはちょっと……」
「グノーにも自分を偽らせるような生活はさせたくありません」とコリーに告げると、彼はまた「ふむ」とひとつ頷いた。
「それは困りましたねぇ、まぁさすがに押しが強いとは言っても不倫を迫るような娘ではありません。せいぜい娘の前ではいちゃついておいてください」
それはグノーが激しく嫌がりそうだ……とも思うのだが、まさかそんな事にはなるまいと思いつつも、過去のあれやこれやを思い出すにつけ少し不安になるナダールだった。
薄暗い部屋の中、男は机に向かったまま顔も上げずにそう言った。まだ、来訪も告げてはいないというのに誰が来たのかまで分かってしまうのか、とルークは少しだけ戦慄した。
この男、ブラック国王陛下の下で働き始めてすでに数年が経過しているが、それでも付き合いが長くなればなるほど『ボス』という人間の奥深さに慄く事が増えている。
一見何も考えずに適当な指示を飛ばしているようにしか見えない彼が、頭の中で緻密な計算をした上で最終的には大きな目標を達してしまう様を何度も見かけて、この人は立つべくしてこの場に立っているのだと思わずにはいられないのだ。
「作業自体は順調です。滞りも問題もなく進行中です」
「そうか、では騎士団長の報告通りだな」
「ただ、任務以外の所で何か少し厄介な事が起こっているようで、少し経過を観察しています」
「厄介な事?」
「はい、町中の至る所で妙な噂が流れています。特別悪意のある内容ではないので放っておいてもいいのかもしれませんが、気になるのはその内容で、あの二人の在る事無い事取り混ぜて色々な話が飛び交っているので少し気にかかります」
「害はないのか?」
「そういう悪意を感じるような噂話は今の所ありませんね。デマは幾つも混じっていますけど」
「ふむ……」
ブラックは唸るようにして、顎に手を当て考え込む。
「少し様子を見るか。あいつ等に何かあったら、それは俺の責任だ。何か問題が起こりそうならすぐに連絡を寄越せ。他に報告がないようなら今日はもう休め」
「はっ!」
言葉と共に気配は消える。ブラックはひとつ溜息を零した。
「面倒くさい事にならなければいいが……」
正式な報告としては一切上がってきてはいなかったが、グノーの寄宿舎での様子や出来事は黒の騎士団の方から報告が上がってきている。ナダールをなかば強制的に騎士団長に担ぎ上げて、無理強いをしている自覚のあるブラックは、それでも気に病んでいたのだ。
グノーの事情も過去も全部知っている上に、グノーとは十年を超える付き合いになる旧知の仲、それにも関わらず、すぐ傍にいて彼の異変に気付いてやる事ができなかった。
自分が彼の異変にもっと早くから気付いてさえいれば、ナダールが今こんな大変な思いをしながら仕事をこなすような状況になる事はなかったはずだ。
そもそも誤算はグノーがここイリヤに残った所から始まっていた。
彼が旦那にベタ惚れなのは分かっていたので、当然彼も一緒に付いていくものと疑いもせずにルーンへの赴任を言い渡したのに、彼は何故か子供と共にこの地へ残ったのだ。
それはとても予想外ではあったが、まぁそれも自分達で決めた事だ、と思っていたのだが、まさかこんな事になるとは予想もしていなかった。
だが、そんな困難が幾つも立て続けに起こっているにも関わらず、ナダールは何も言わず、仕事に滞りを見せる事もなくただ淡々と任務を遂行していく。しかもその仕事ぶりが予想を遥かに超えて出来過ぎるほどに進んでいくので、逆に何か無理をしているのではないかと危惧していたのだ。
何もかもきっちりとこなそうと無理をして仲間内で軋轢を生んでやしないかと案じていた所に、グノーが襲われたという報告が黒の騎士団から入り、やはりか……とは思ったもののナダールからは何の報告も上がってはこなかった。
ただ『少し騎士団内でホームシックにかかっている者がいる、何人か帰らせるが彼等を咎めないでくれ』とそれだけの報告がきた。
もう無理だ、この仕事を辞退させて欲しい職も辞したい、とそんな事を言いだしても不思議ではない事態であっただろうに、彼はそんな事は一言も言わず、恐らく乱暴を働いたであろう者達を『咎めるな』とさえ言って寄越したのだ。
それは黒の騎士団がその場にいて、報告がブラックに上がっている事を分かった上でのその言葉に驚きを隠せない。
グノーを蔑ろにして自分の体裁を整える為にあえて言わない、権力におもねりこちらの顔色を伺っている、そう思ってしまいそうな態度でもあるが、彼がそんな人間ではない事はここまでの付き合いで理解している。
彼は無限大に度量が広い、すべての困難を抱えてそれでも前を向くそんな姿勢にブラックは感銘を受けると同時に、こいつを手離したら国家の損失だと思うに至った。
「少し様子見に行くかな……」
凝り固まった肩を回して、一人呟く。
そんな呟きを聞いている者は誰もいなかった。
「あれ? 今日は誰もいないのですね」
いつもと同じく陽が暮れた頃に、ナダールは家路に着いた。
「お前があんな事言うから。せっかくの常連客、逃したらどうすんだよ」
グノーは広い店内で手持ち無沙汰にそう言った。
「今日はメリッサさんがいたから、食材余らせる事もなかったけどさ……」とぶつぶつ呟きながらも、やはりその顔は不満顔だ。
「あはは、残ったものはすべて私が食べますので大丈夫ですよ。ところで、コリーさんの娘さんはどうでしたか?」
「元気のいい人だったよ。覚えも早いし、性格もさっぱりしてるから話しやすい」
話を聞いてみれば年齢はグノーと同じで、そろそろ嫁き遅れを心配する気持ちもなんとなく分かってしまった。
「ところで、アジェから町で変な噂が流れてるって聞いてたんだけど、今日メリッサさんからもその話聞いてさ、詳しい内容教えてもらったんだけど、お前聞いてる?」
「なんだか色々な話が流れているみたいですね。私はあまり人と関わらないので、その内容までは聞いてはいないですけど、どんな話なんです?」
「……俺がメリアの姫で、お前と駆け落ちしてきたって話……」
「は?」と鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした後「それはいい」とナダールは腹を抱えて笑い出した。
「笑い事じゃねぇだろう、俺がメリアの王族関係者だって知ってる奴がいるかもしれないんだぞ」
「でもあなたは姫ではないですし、駆け落ちはなかなかいい表現だと私は思いますよ。なんだか素敵な恋物語でも生まれそうだ」
「だから、その噂話が全部そういう恋物語なんだってば……」と渋い顔でグノーは唸った。
「あはは、そんな感じなんですね。これは可笑しい」
「もう! 笑い事じゃないっっ!」
「大丈夫です、心配するような事は何もありません。私、その恋物語の出所知っていますからね」
「え? そうなのか?」
「はい」とナダールは笑いすぎて零れた涙を拭う。
「その噂、恐らく出所はコリーさんです。私があなたを寄宿舎に連れ込んだことで、私が『女好きらしい』と悪評が立っていたらしくてですね、それを打ち消す為に私は『少しばかり度の過ぎた愛妻家』だと噂を流したと言っていたので、たぶんそれだと思います」
「なんでそんな事を?」
「実験をしているのだそうですよ。噂話がどのくらいの速さで広がるのか観察しているらしいです。何を思ってそんな事を始めたのかよく分からないのですが、本人は凄く楽しそうでしたね」
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「なんだぁ……心配して損した。じゃあ誰かを探してるらしい黒マントの男もきっとその実験の一環なんだな」
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「そう、フード被った黒マントの男が人を探してるって噂があるらしくて、こっちの噂と相まって、俺の事探しに来た奴かも……なんてびびっちまった」
黒マントの男……そんな話しはコリーから聞いていないぞ? とナダールは首を傾げる。
「どうかしたか?」
首を傾げ、少しだけ考え込む素振りを見せたナダールにグノーは少し心配そうな表情を見せた。
「いえ、なんでもありませんよ」
ナダールは首をふる。考えすぎだ、噂は噂であてにはならない。それもきっとコリーの実験の産物に過ぎないと考えたナダールはにっこり笑みを零す。
「それにしても、私も聞いてみたいですね、あなたと私の恋物語。後でじっくり聞かせて下さい」
グノーは何故かその言葉に頬を染め、視線を泳がせた。
「聞かない方が身の為だぞ、どこの激甘恋愛小説だよってくらいの話に俺は途中から思考が付いていかなかった……」
「そんなに……?」
一体どれほどに盛られた物語がそこに展開されているのか興味もあるが、グノーのその何とも言えない微妙な態度に少しの不安も覚える。
「自分の事なので、やはり一応聞いてはおきたいのですけど……」
「うぅ……あんまり話したくねぇんだけどなぁ……」
そう言ってグノーが語ってくれた恋物語はそれはもう激甘な少女小説のような物語で、しかも自分と思われる白馬の王子様が眩しすぎて、ナダールはどうにも複雑な表情を隠せなくなっていた。
「コリーさん、あなた小説家に向いているのではないですか?」
翌朝、ナダールは挨拶もそこそこにコリーに苦笑いでそう言った。何故そんな表情になってしまうのかと言えば、そうでもしていないと思い出して笑い転げてしまいそうだったからだ。
「なんのお話ですか?」
「私とグノーの壮大なラブロマンス、作り上げたのあなたでしょう?」
「あぁ、ついにあなたの耳にも入りましたか」
コリーは少し楽しげに「さすがに女・子供受けのいい話しは広がるのも速いですね」と笑みを見せた。
「別にどんな話でも構いはしませんが、さすがにそれはないっ! と突っ込み所が多過ぎて聞いていて笑いが止まりませんでしたよ」
「おかしいですねぇ、そんなに笑える話ではなかったはずなのですが……どちらかといえば泣ける悲恋を目指したはずなのに、私もまだまだですねぇ」
確かにその話は傍から聞けば泣ける悲恋だったかもしれない、だがその話の主人公が自分となれば別問題だ。
ちょっとそこ、なんでそんな事してるんだ? と思わず突っ込まずにはいられない展開の連続に、本気で途中から笑い死ぬかと思うほどに笑い転げてしまった。
別の意味では泣ける話として成立したが、当事者としてはどうにも滑稽な話にしか感じられなかったのも仕方がないというものだ。
「そもそも私がランティスの貴族の御曹司だって言われた辺りからすでに誇大妄想ですからね、グノーの前に現れた登場の仕方も白馬の王子様過ぎて……くっ、思い出しても笑ってしまう……」
「まぁ、あなたがここカルネ領の領主の奥方様の甥にあたるのは事実ですからね、それくらい盛っても大丈夫かな……と」
コリーは悪い笑みでほくそ笑む。
「あはは、それはそうかもしれませんけど、ちょっと色々盛り過ぎです。あ~可笑しい。でも、さすがにこれ以上噂が一人歩きすると、私もグノーも居心地が悪くなるので、この辺までにしておいてくださいね」
「えぇ、目的はほぼ達しましたので、もうこれ以上の噂は流しませんよ」
「……目的?」
何やら意味不明な言葉に首を傾げると「おっと……」とコリーは瞬間慌てたのだが「何でもないですよ」と作り物めいた笑みを見せる。
「あなた、実はこの噂話で何か企んでたりしてないでしょうねぇ?」
「ふふ、あなたが気にかけるような事ではありませんよ。これも私の実験の一環で、いやなにご迷惑はおかけしません」
「本当ですか?」
ナダールは胡乱な瞳をコリーへと向ける。
「当然です。あなたに迷惑がかかるという事は、必然的に私も巻き込まれるという事です。そんな失敗はいたしませんよ」
「そうですか……何をしているのか聞くのは?」
「実験がすべて終わりましたら、お知らせいたします」
こうなったらコリーはてこでも口を割らないとナダールはなんとなく悟る。
「実験、上手くいくといいですね」
「手筈は万全です」
一体何の手筈が整っているのか皆目見当も付かないが、まずはとりあえず「頑張ってください」と声援だけ送っておく。
「ところでお店の定休日、正式に決まりましたか?」
「あぁ、決まりましたよ。週半ば毎週水曜日、来週は23日です。そんなに確認するほど、お風呂入りたいですか?」
「当たり前です。行ってやっていなかった時の絶望感たるや、考えたくもありませんね」
そこまで……? とナダールは心の中で苦笑する。
「それと、娘はどんな感じだったか奥さんから聞いていますか?」
「えぇ、元気な娘さんで気が合いそうだと言っていましたよ」
ナダールのその言葉に少しだけコリーの片眉が上がる。
「……くれぐれも手は出さないように伝えてくださいね」
「そこは安心だと思ってうちに預けたんじゃないんですか?」
娘を過剰に案じる父親に、どうにも苦笑いしか出てこない。
「それでもよく考えたらあの人だって男性じゃないですか。容姿が女性っぽいのでうっかりしていましたけど、あまり仲良くなり過ぎるのも……」
「あなた、私以上の心配性ですね。大丈夫ですよ、あの人女性の友達多いので、普通にそんな感じでしたよ。心配するような事は起こりません」
「そもそも女性には興味がない方なのですか?」
「どうなんでしょう? はっきり聞いた事はありませんけど、そもそもあの人、色事は好きではありませんからね。自他共に認める『運命』である私ですら散々拒否され罵られ、ようやくここまできたくらいですから」
「それで一体どうやって結婚にまで漕ぎつけたんです?」
「……なかば無理矢理? 嫌ならはっきり嫌だという人なので、私は特別だったと惚気させていただきましょうかね」
ふむ、とコリーの片眉がまた少し上がる。
「それはただ単に押しの強い人間に弱かった……とかそういう話ではなく? メリアの、元とはいえ王子に対して無理強いなんて国際問題ですよ。とんでもない人ですね」
「無理強いなんてしていませんよ、全てひとつひとつに許可は取っています。結婚だってちゃんと嬉しいって言ってくれましたよ!」
なんとはなしに焦るナダールに「それならいいですけど」とコリーは納得したのかしていないのかよく分からない真顔で頷いた。
「でも、それなら娘に男だとバレないようにお願いします。娘はとても面食いな上に押しが強いです。万が一あるといけません。奥さん普通に美形ですからね」
「え……ちょっとそういうの止めてくださいよ、それでなくてもあの人変なのに好かれやすいのに」
瞬間、コリーの表情が冷え切ったのをナダールは見逃さなかった。
「……うちの娘が変だと、おっしゃりたい?」
あぁぁぁ、口が滑った!
けれど、グノーが色々な人に好かれて、妙な執着を持たれるのは日常茶飯事なので否定もしづらい。
「いえ、そうではなく! あの人、人に好意を持たれる事に慣れていないので、そういうの本当に困ります」
「あなたががっちり捕まえておけば問題ないはずでしょう?」
「娘さんがグノーに迫る事は私ではどうにもできないじゃないですかっ!」
「そこは男性だとバレなければ大丈夫です。娘にレズっ気はありません」
「私達、そもそもあの人の性別偽って生活していないのですよ、皆が勝手に勘違いしていくだけで、長く付き合えば絶対に気付きます。気付いた方には都度説明をして今まで理解を得ているので、そのスタンスを変えるのはちょっと……」
「グノーにも自分を偽らせるような生活はさせたくありません」とコリーに告げると、彼はまた「ふむ」とひとつ頷いた。
「それは困りましたねぇ、まぁさすがに押しが強いとは言っても不倫を迫るような娘ではありません。せいぜい娘の前ではいちゃついておいてください」
それはグノーが激しく嫌がりそうだ……とも思うのだが、まさかそんな事にはなるまいと思いつつも、過去のあれやこれやを思い出すにつけ少し不安になるナダールだった。
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