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運命に花束を②
運命の単身赴任①
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目を覚ますとそこは見知らぬ場所だった。ここは一体何処だっただろうか?
辺りを見回すと部屋の扉が細く開いており、そこから小さな女の子がこちらを遠慮がちに覗いていた。
この子は一体誰だっただろうか? 見た事があるような気もするし、全く知らないような気もする。
女の子はとても遠慮がちにこちらを覗き込んでいて、思わず「おいで」と声をかけてしまった。
女の子はぱっと明るい笑顔を見せて駆け寄ってくる。
「ママ、大丈夫?」
女の子はそう言って俺の顔を見上げるのだが、意味が分からず首を傾げた。
「ここ、何処かな?」
「ムソンのおばちゃんの家」
ムソン……その村の名には聞き覚えがある。
あぁ、そうだ……確かに俺はそこに暮らしていた。でもなんだろう、何かが酷く欠落している気がする。
「ナダールは?」
そう、彼ならきっとすべて知っているはず。自分は彼と一緒にこの村に暮らしていたのだから。何故彼はここにいないのだろう?
「おばちゃん」と女の子は言ったが、それは一体誰の事?
頭が痛い……
この感覚には覚えがある、自分は何度か記憶の混乱を起しておかしくなってしまった過去がある。その時の感覚にこの痛みはとても似ているのだけれど、また自分はおかしくなってしまっているのだろうか?
だが、意識はとてもはっきりしている気がする。自分が誰で、ここがどこなのかも分かっている、なのにどうにもすっきりしない。
「パパなら下でおばちゃんとお話ししてるよ」
「パパ?」
またしても意味不明な言葉に首を傾げる。一体この子は何を言っているのだろうか?
女の子は俺の反応に戸惑ったような不安そうな表情を見せた。
「ママ、大丈夫?」
女の子はまた先程と同じ質問を繰り返す。
どうやら彼女は俺の事を『ママ』だと思っているようだ。だが、それは非常に不可解な話で、男である自分が『ママ』と呼ばれる事が不思議で仕方がない。
「俺はママじゃないよ……君は、誰?」
途端に女の子は顔を歪め大きな声で泣き出した。
「えっ、なんで? ごめん、泣くな」
「ママはルイの事嫌いになったの? ルイが我がまま言ったから、ルイの事忘れちゃったの?」
泣きながら女の子はそんな事を言うのだが、本当に全く意味が分からなくて戸惑った。ただ、また自分はどこかおかしくなってしまっているのだと、それだけははっきり分かった。
「ルイ……ちゃん? ごめん、泣かないで。俺、時々頭おかしくなる時があってさ、また何か忘れてるのかな?」
おろおろと、その泣き続ける女の子を慰めようと手を伸ばそうと思ったのだが、どうにも体が思うように動かない。
その自分の腕を見ると、なんだかずいぶん痩せてしまっているような気がする。
ナダールとの生活でだいぶ太ったと思っていたのだが、その腕は彼と出会う前の自分を見るようで、何が起こっているのかまるで分からなかった。
「ルイ!」
ナダールの声がして、その小さな女の子の体はひょいと持ち上げられた。
「この部屋に入ってはいけないと言ったでしょう」
「だって、だって、ママがおいでって……」
なおも泣きじゃくるその子を抱いて、ナダールは困ったなという表情を浮かべてこちらを見やった。
「ごめん、泣かした。なんだろう、俺、またおかしくなってるよな? よく分からないんだけど、俺もうちょっと頭の中整理するから、その子……頼む」
「すぐに戻ります」
俺の言葉に険しい顔でナダールは頷くと、子供を抱えて部屋を出て行った。
さて……と俺は頭の整理を始める。
自分の名前は分かる『グノー』だ。ここがムソンのどこかだという事も分かった。
自分は何故自宅ではなくこんな所で寝ていたのだろう……そこは謎。
今はいつだ? 記憶では秋口だったような気もするのだが、外には粉雪が舞っているので、これは要確認。
自分が記憶障害を起こすのは自分の身に何かが起こった時の場合が多い、それは大怪我だったり、心に重度の傷を負った時だ。けれど感覚的に自分の体に怪我はない。心の方はどうだろう? 今はとても落ち着いている気もするのだけれど、やはり自分は何かを忘れているのかもしれない。
あの子は誰だ? それは分からない……けれどナダールを『パパ』自分を『ママ』と呼んだのだから、何かしらそういう関係だったのだろう。だが、男である自分に産める訳はなく、詳細は不明。
「う~分かんねぇ……」
痛む頭を抱えて呻く。
いつも記憶障害の間は色々な事が大混乱で、今回もそうなのだろうと思うのだが、不思議と落ち着いている自分がいる。
「原因が分からないとどうしようもないか……」
諦めたように溜息が零れる。
それでも今回の記憶の混乱はある程度の記憶を保っている、生活に困る気もしないし何がおかしいのかすら分からない。ただ、分からないのが先程の女の子。
「ルイ……ルイ……」
全く聞き覚えのないような、それでいて生活の一部のように馴染んでいるような不思議な感覚。
「ルイ……」
「思い出しましたか?」
呟きに応えるように、ナダールが部屋へと戻って来た。
「すまん、全く思い出せん」
その即答にナダールは落胆の色を見せる。
「ここが何処だか分かりますか?」
「ムソン……のどこか?」
「そうです、ここはカズイの家ですよ」
「なんで家じゃねぇの?」
「今は別の人が住んでいますから」
「なんで?」
「引っ越したのも覚えてはいないですかね?」
「引越し? 何処へ?」
「イリヤですよ」
まるで記憶にないようで、何か心に引っかかる物があるような気もする。そもそもナダールの事自体は分かるのだが、それ以外の情報が非常に曖昧だ。ナダールと俺はどう知り合って、何故ここムソンに暮らしていたのだったか?
とても幸せに楽しく暮らしていた幸福な感情だけは残っているのだが、はっきりとした記憶を思い出そうとすればするほど、記憶には霞がかかったように遠のいていく。
「むぅ……」と考え込む俺に「無理に思い出そうとしなくていいですよ」とナダールは優しく髪を撫でてくれたのだが、それで、俺はふと気付く。
「あれ? 俺、前髪短くね?」
「だいぶ前に切ったのですけど、覚えていませんか?」
「ん~? なんで切ったんだったけ? 覚えてないや」
自分の前髪は常に自分の顔が見えないように隠していた。俺は自分の顔がとても嫌いで、しげしげと見たくはなかったからだ。でも、それは何故だったか? と思うと、それも記憶は曖昧で、ふと窓ガラスに映った自分の顔を見やる。
そこには蒼白い顔をした女が一人映っていて、瞬間背筋が凍り、訳も分からず弾かれたように悲鳴を上げた。
『お前なんか産まなければよかった! お前なんか知らない!』
頭に響いたのは母の怒声と、蔑むような瞳。
「あ゛ぁ……いや、いやだ!! 見るな! 消えろ! 消えてくれ!!! いや! いやぁぁあぁぁぁぁ…………!!!!」
「グノー!?」
咄嗟にナダールに抱きすくめられたのだが、俺はそのまま意識を手放した。
ナダールの元にグノーが倒れたという知らせが届いたのは数日前の事だった。
ここムソンからファルス王国首都イリヤに引っ越したのは数ヶ月前、何故か出世街道まっしぐらに騎士団長に任命されてしまったナダールは多忙を極めていた。そんな時、ファルスの国王陛下であるブラックからカルネ領ルーンに赴き「少し土地をならしてきてくれ」と軽いノリで非常に大掛かりな土地の開墾を命じられてしまった。
それはどう頑張っても数日で終わるような仕事ではなく、長ければ年単位で行わなければならないような大仕事で、それならばまた家族で引越しだな……などと呑気に話していた所「ルイは、お引越しは嫌!」と娘に泣いて猛反発をされてしまった。
生まれ育ったムソンを離れる際、仲の良かった子達とも泣く泣く別れて、ようやくイリヤで遊び友達が出来始めたそんな時期で「せっかくお友達できたのに!」と大泣きをされてしまったのだ。
ナダールがそんな娘の猛反発にほとほと困り果てていた時に、グノーはそれを見かねて言ったのだ。
『だったら俺、子供達とここに残るよ。どのみち仕事が終わればまたここに帰って来るんだろ、何度もこんな風に泣かせるのは可哀想だ』
「子供達と一緒に待ってるから、早く終わらせて帰って来い」と笑顔でそう言った彼の言葉に、それならばと単身での赴任を決意したのは3ヶ月前の事になる。
それでもグノーの発情期の周期で休みを取って帰ってくるつもりでいたし、早々に仕事など終わらせて家族の元に帰る気でいたのだが、なかなかそうは問屋が卸さず仕事は難航し、赴任後、最初のグノーの発情期には自宅に帰る事ができなかった。
正直グノーを置いていく事に不安はあった。
彼の精神は元々繊細で不安定だ、自分と出会ってからはずいぶんと落ち着いているようにも見えるが昔は不眠症で悩んでいたというのも聞いているし、拒食気味だったのも知っている。
子供を産んで家族が増えて、そんな素振りも見せなくなって久しいが、彼の性質は変わっていない。彼の心はいつでもどこか怯えている。
けれど、急に詰め込まれた仕事と重責に自分はそんな事を棚に上げてしまったのだ。
彼はここイリヤに越してきてからも周りとは上手く付き合っているように見えたし、子供達との関係も良好だ、少しくらいなら大丈夫……その油断が引き金になったのだと、気付いた時にはもう何もかもが手遅れだった。
その一報はナダールが赴任先に赴いて3ヶ月目に届いた。
それでもグノーとはマメに連絡を取り合っていて、手紙でのやり取りは毎日のように繰り返しており、その手紙には何の変化も見られなかったので、その報にナダールは驚きが隠せなかった。
同時に、友人でもあるカズイやカズサ、自分と陛下の連絡係であるルークやサクヤからの連絡も週に一度くらいのペースで届いていて、安心しきっていたのだ。
「倒れた!? グノーがですか?!」
それは突然だった、その日もグノーからの手紙は届いており、その内容はいつもと変わりのない他愛のない内容で、少し調子が悪いという文章に、無理をしてはいけないと書き綴ったばかりの時分で、どうにも動揺が隠しきれない。
すぐに仕事を放り投げてイリヤへと戻り、そこで見たのは昔のように痩せ細り、憔悴しきった彼の姿と、泣きじゃくる子供達の姿だった。
「なん……で?」
どうしてこんな事になっているのか、まるで分からない。
幸い倒れたのが自宅ではなく、たまたま王子達と遊ぶ約束をしていた子供達を連れて赴いていた城の中だったおかげで、すぐに医者が呼ばれ命に別状はなかったのだが、そのやつれ方にブラック国王陛下も眉を顰めていた。
その姿は出会った頃の彼を彷彿とさせる姿で、ブラックは「気付いてやれなくて申し訳なかった」と私に頭を下げた。
目を覚ましたグノーはそのやつれた姿以外には特に変わった様子もなく、ナダールがその顔を覗きこむと、いつものように綺麗な笑顔を見せた。
「おかえり、帰ってたんだな。でも俺、なんでこんな所で寝てるんだっけ?」
そう言う彼の表情はいつもと変わらず、意識も記憶もはっきりしているように見える。
過去の記憶障害の時には激しい子供返りや、いつまでも眠ってしまう眠り病のような症状、突発的な精神の錯乱などがあり、それを思えば彼のその様子は今までより程度は軽いように思われた。
「あなたは倒れたんですよ。またこんなに痩せて、ちゃんとご飯食べてましたか?」
「食べてた……たぶん」
そう言って笑う姿も言葉も過去に何度も同じような事があったので「また何かに集中しすぎて忘れてたんでしょう?」と彼のその細い体を抱き上げ、膝に乗せる。
そのまま抱きしめると、くすぐったそうにするのだが、やはりその体は数年前の彼のように細く軽くなってしまっていて、思わず溜息が零れた。
「ごめん、俺、また何か迷惑かけた?」
「迷惑ではないですが、心配しましたよ。なんでこんなになるまで何も言わなかったんですか」
「心配かけたくなかったから……大丈夫だと思ったし」
「全く大丈夫じゃないですよ、夜もちゃんと寝てましたか?」
「どう、だったかな……」
気まずそうに瞳を逸らす彼のその言葉が嘘だという事は丸分かりで、また寝られなくなっていた事は簡単に想像できた。
「こんなんじゃ、うかうか仕事にも出られませんよ」
「ごめん……」
「責めている訳ではありませんよ。ルイもユリも心配していますから、早く元通りに体重戻しましょうね」
その言葉に何故か彼がきょとんとした瞳をこちらに向ける。
「ん? どうかしましたか?」
「いや……えっと、ルイとユリって……誰?」
「えっ?」
ルイとユリウス、それは2人の可愛い我が子だ。そんな2人を「誰?」と首を傾げるグノーに冷水を浴びせかけられたような気持ちがした。
「2人の事が、分かりませんか?」
「えっと……ちょっと待って。ルイ、ルイ……ユリ……ユリウス! あぁ! 俺何やってんだろう、うわっ、2人共大丈夫? 心配かけちまってるよな、泣いてない? 大丈夫?」
「今はレネーシャ様が見ていてくださっているので大丈夫ですよ」
「そっか……俺、駄目だな。本当、自分で自分が嫌になる」
「そんなに落ち込まないで、今日はもうゆっくりお休みなさい」
「お前は?」
途端に不安を隠せないような顔をする彼の頭を撫でて、笑みを見せる。
「一週間ほど休みを貰いましたので、しばらくはこちらに居ますよ。私が居ないと寝られないですか?」
「そんな事ねぇし」とグノーは顔を赤らめ、そっぽを向いた。
「そこは寝られなくて困るって言ってくれてもいいんですよ?」
笑ってそう言うと「お前はまたそういう事ばっかり言う!」と怒られた。それは本当に普段通りの彼の姿で、正直ほっとした。
この分なら大丈夫……その時はそう思ったのだ。
辺りを見回すと部屋の扉が細く開いており、そこから小さな女の子がこちらを遠慮がちに覗いていた。
この子は一体誰だっただろうか? 見た事があるような気もするし、全く知らないような気もする。
女の子はとても遠慮がちにこちらを覗き込んでいて、思わず「おいで」と声をかけてしまった。
女の子はぱっと明るい笑顔を見せて駆け寄ってくる。
「ママ、大丈夫?」
女の子はそう言って俺の顔を見上げるのだが、意味が分からず首を傾げた。
「ここ、何処かな?」
「ムソンのおばちゃんの家」
ムソン……その村の名には聞き覚えがある。
あぁ、そうだ……確かに俺はそこに暮らしていた。でもなんだろう、何かが酷く欠落している気がする。
「ナダールは?」
そう、彼ならきっとすべて知っているはず。自分は彼と一緒にこの村に暮らしていたのだから。何故彼はここにいないのだろう?
「おばちゃん」と女の子は言ったが、それは一体誰の事?
頭が痛い……
この感覚には覚えがある、自分は何度か記憶の混乱を起しておかしくなってしまった過去がある。その時の感覚にこの痛みはとても似ているのだけれど、また自分はおかしくなってしまっているのだろうか?
だが、意識はとてもはっきりしている気がする。自分が誰で、ここがどこなのかも分かっている、なのにどうにもすっきりしない。
「パパなら下でおばちゃんとお話ししてるよ」
「パパ?」
またしても意味不明な言葉に首を傾げる。一体この子は何を言っているのだろうか?
女の子は俺の反応に戸惑ったような不安そうな表情を見せた。
「ママ、大丈夫?」
女の子はまた先程と同じ質問を繰り返す。
どうやら彼女は俺の事を『ママ』だと思っているようだ。だが、それは非常に不可解な話で、男である自分が『ママ』と呼ばれる事が不思議で仕方がない。
「俺はママじゃないよ……君は、誰?」
途端に女の子は顔を歪め大きな声で泣き出した。
「えっ、なんで? ごめん、泣くな」
「ママはルイの事嫌いになったの? ルイが我がまま言ったから、ルイの事忘れちゃったの?」
泣きながら女の子はそんな事を言うのだが、本当に全く意味が分からなくて戸惑った。ただ、また自分はどこかおかしくなってしまっているのだと、それだけははっきり分かった。
「ルイ……ちゃん? ごめん、泣かないで。俺、時々頭おかしくなる時があってさ、また何か忘れてるのかな?」
おろおろと、その泣き続ける女の子を慰めようと手を伸ばそうと思ったのだが、どうにも体が思うように動かない。
その自分の腕を見ると、なんだかずいぶん痩せてしまっているような気がする。
ナダールとの生活でだいぶ太ったと思っていたのだが、その腕は彼と出会う前の自分を見るようで、何が起こっているのかまるで分からなかった。
「ルイ!」
ナダールの声がして、その小さな女の子の体はひょいと持ち上げられた。
「この部屋に入ってはいけないと言ったでしょう」
「だって、だって、ママがおいでって……」
なおも泣きじゃくるその子を抱いて、ナダールは困ったなという表情を浮かべてこちらを見やった。
「ごめん、泣かした。なんだろう、俺、またおかしくなってるよな? よく分からないんだけど、俺もうちょっと頭の中整理するから、その子……頼む」
「すぐに戻ります」
俺の言葉に険しい顔でナダールは頷くと、子供を抱えて部屋を出て行った。
さて……と俺は頭の整理を始める。
自分の名前は分かる『グノー』だ。ここがムソンのどこかだという事も分かった。
自分は何故自宅ではなくこんな所で寝ていたのだろう……そこは謎。
今はいつだ? 記憶では秋口だったような気もするのだが、外には粉雪が舞っているので、これは要確認。
自分が記憶障害を起こすのは自分の身に何かが起こった時の場合が多い、それは大怪我だったり、心に重度の傷を負った時だ。けれど感覚的に自分の体に怪我はない。心の方はどうだろう? 今はとても落ち着いている気もするのだけれど、やはり自分は何かを忘れているのかもしれない。
あの子は誰だ? それは分からない……けれどナダールを『パパ』自分を『ママ』と呼んだのだから、何かしらそういう関係だったのだろう。だが、男である自分に産める訳はなく、詳細は不明。
「う~分かんねぇ……」
痛む頭を抱えて呻く。
いつも記憶障害の間は色々な事が大混乱で、今回もそうなのだろうと思うのだが、不思議と落ち着いている自分がいる。
「原因が分からないとどうしようもないか……」
諦めたように溜息が零れる。
それでも今回の記憶の混乱はある程度の記憶を保っている、生活に困る気もしないし何がおかしいのかすら分からない。ただ、分からないのが先程の女の子。
「ルイ……ルイ……」
全く聞き覚えのないような、それでいて生活の一部のように馴染んでいるような不思議な感覚。
「ルイ……」
「思い出しましたか?」
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「すまん、全く思い出せん」
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とても幸せに楽しく暮らしていた幸福な感情だけは残っているのだが、はっきりとした記憶を思い出そうとすればするほど、記憶には霞がかかったように遠のいていく。
「むぅ……」と考え込む俺に「無理に思い出そうとしなくていいですよ」とナダールは優しく髪を撫でてくれたのだが、それで、俺はふと気付く。
「あれ? 俺、前髪短くね?」
「だいぶ前に切ったのですけど、覚えていませんか?」
「ん~? なんで切ったんだったけ? 覚えてないや」
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そこには蒼白い顔をした女が一人映っていて、瞬間背筋が凍り、訳も分からず弾かれたように悲鳴を上げた。
『お前なんか産まなければよかった! お前なんか知らない!』
頭に響いたのは母の怒声と、蔑むような瞳。
「あ゛ぁ……いや、いやだ!! 見るな! 消えろ! 消えてくれ!!! いや! いやぁぁあぁぁぁぁ…………!!!!」
「グノー!?」
咄嗟にナダールに抱きすくめられたのだが、俺はそのまま意識を手放した。
ナダールの元にグノーが倒れたという知らせが届いたのは数日前の事だった。
ここムソンからファルス王国首都イリヤに引っ越したのは数ヶ月前、何故か出世街道まっしぐらに騎士団長に任命されてしまったナダールは多忙を極めていた。そんな時、ファルスの国王陛下であるブラックからカルネ領ルーンに赴き「少し土地をならしてきてくれ」と軽いノリで非常に大掛かりな土地の開墾を命じられてしまった。
それはどう頑張っても数日で終わるような仕事ではなく、長ければ年単位で行わなければならないような大仕事で、それならばまた家族で引越しだな……などと呑気に話していた所「ルイは、お引越しは嫌!」と娘に泣いて猛反発をされてしまった。
生まれ育ったムソンを離れる際、仲の良かった子達とも泣く泣く別れて、ようやくイリヤで遊び友達が出来始めたそんな時期で「せっかくお友達できたのに!」と大泣きをされてしまったのだ。
ナダールがそんな娘の猛反発にほとほと困り果てていた時に、グノーはそれを見かねて言ったのだ。
『だったら俺、子供達とここに残るよ。どのみち仕事が終わればまたここに帰って来るんだろ、何度もこんな風に泣かせるのは可哀想だ』
「子供達と一緒に待ってるから、早く終わらせて帰って来い」と笑顔でそう言った彼の言葉に、それならばと単身での赴任を決意したのは3ヶ月前の事になる。
それでもグノーの発情期の周期で休みを取って帰ってくるつもりでいたし、早々に仕事など終わらせて家族の元に帰る気でいたのだが、なかなかそうは問屋が卸さず仕事は難航し、赴任後、最初のグノーの発情期には自宅に帰る事ができなかった。
正直グノーを置いていく事に不安はあった。
彼の精神は元々繊細で不安定だ、自分と出会ってからはずいぶんと落ち着いているようにも見えるが昔は不眠症で悩んでいたというのも聞いているし、拒食気味だったのも知っている。
子供を産んで家族が増えて、そんな素振りも見せなくなって久しいが、彼の性質は変わっていない。彼の心はいつでもどこか怯えている。
けれど、急に詰め込まれた仕事と重責に自分はそんな事を棚に上げてしまったのだ。
彼はここイリヤに越してきてからも周りとは上手く付き合っているように見えたし、子供達との関係も良好だ、少しくらいなら大丈夫……その油断が引き金になったのだと、気付いた時にはもう何もかもが手遅れだった。
その一報はナダールが赴任先に赴いて3ヶ月目に届いた。
それでもグノーとはマメに連絡を取り合っていて、手紙でのやり取りは毎日のように繰り返しており、その手紙には何の変化も見られなかったので、その報にナダールは驚きが隠せなかった。
同時に、友人でもあるカズイやカズサ、自分と陛下の連絡係であるルークやサクヤからの連絡も週に一度くらいのペースで届いていて、安心しきっていたのだ。
「倒れた!? グノーがですか?!」
それは突然だった、その日もグノーからの手紙は届いており、その内容はいつもと変わりのない他愛のない内容で、少し調子が悪いという文章に、無理をしてはいけないと書き綴ったばかりの時分で、どうにも動揺が隠しきれない。
すぐに仕事を放り投げてイリヤへと戻り、そこで見たのは昔のように痩せ細り、憔悴しきった彼の姿と、泣きじゃくる子供達の姿だった。
「なん……で?」
どうしてこんな事になっているのか、まるで分からない。
幸い倒れたのが自宅ではなく、たまたま王子達と遊ぶ約束をしていた子供達を連れて赴いていた城の中だったおかげで、すぐに医者が呼ばれ命に別状はなかったのだが、そのやつれ方にブラック国王陛下も眉を顰めていた。
その姿は出会った頃の彼を彷彿とさせる姿で、ブラックは「気付いてやれなくて申し訳なかった」と私に頭を下げた。
目を覚ましたグノーはそのやつれた姿以外には特に変わった様子もなく、ナダールがその顔を覗きこむと、いつものように綺麗な笑顔を見せた。
「おかえり、帰ってたんだな。でも俺、なんでこんな所で寝てるんだっけ?」
そう言う彼の表情はいつもと変わらず、意識も記憶もはっきりしているように見える。
過去の記憶障害の時には激しい子供返りや、いつまでも眠ってしまう眠り病のような症状、突発的な精神の錯乱などがあり、それを思えば彼のその様子は今までより程度は軽いように思われた。
「あなたは倒れたんですよ。またこんなに痩せて、ちゃんとご飯食べてましたか?」
「食べてた……たぶん」
そう言って笑う姿も言葉も過去に何度も同じような事があったので「また何かに集中しすぎて忘れてたんでしょう?」と彼のその細い体を抱き上げ、膝に乗せる。
そのまま抱きしめると、くすぐったそうにするのだが、やはりその体は数年前の彼のように細く軽くなってしまっていて、思わず溜息が零れた。
「ごめん、俺、また何か迷惑かけた?」
「迷惑ではないですが、心配しましたよ。なんでこんなになるまで何も言わなかったんですか」
「心配かけたくなかったから……大丈夫だと思ったし」
「全く大丈夫じゃないですよ、夜もちゃんと寝てましたか?」
「どう、だったかな……」
気まずそうに瞳を逸らす彼のその言葉が嘘だという事は丸分かりで、また寝られなくなっていた事は簡単に想像できた。
「こんなんじゃ、うかうか仕事にも出られませんよ」
「ごめん……」
「責めている訳ではありませんよ。ルイもユリも心配していますから、早く元通りに体重戻しましょうね」
その言葉に何故か彼がきょとんとした瞳をこちらに向ける。
「ん? どうかしましたか?」
「いや……えっと、ルイとユリって……誰?」
「えっ?」
ルイとユリウス、それは2人の可愛い我が子だ。そんな2人を「誰?」と首を傾げるグノーに冷水を浴びせかけられたような気持ちがした。
「2人の事が、分かりませんか?」
「えっと……ちょっと待って。ルイ、ルイ……ユリ……ユリウス! あぁ! 俺何やってんだろう、うわっ、2人共大丈夫? 心配かけちまってるよな、泣いてない? 大丈夫?」
「今はレネーシャ様が見ていてくださっているので大丈夫ですよ」
「そっか……俺、駄目だな。本当、自分で自分が嫌になる」
「そんなに落ち込まないで、今日はもうゆっくりお休みなさい」
「お前は?」
途端に不安を隠せないような顔をする彼の頭を撫でて、笑みを見せる。
「一週間ほど休みを貰いましたので、しばらくはこちらに居ますよ。私が居ないと寝られないですか?」
「そんな事ねぇし」とグノーは顔を赤らめ、そっぽを向いた。
「そこは寝られなくて困るって言ってくれてもいいんですよ?」
笑ってそう言うと「お前はまたそういう事ばっかり言う!」と怒られた。それは本当に普段通りの彼の姿で、正直ほっとした。
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