命令教室

西羽咲 花月

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3日目

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私達がやるはずだったプリントは残り半分ほどの量になっていた。


「本当は今日も勉強してるはずだったんだよね」


炎から離れた場所に座って香は煙を見上げている。


「そうだね……」


合宿に来るのは正直面倒だと感じていたけれど、こんなことになるくらいなら、普通に勉強していた方がよかった。
少なくても、1日に1人ずつ誰かがいなくなってしまうなんて、こんな経験はせずにすんだだろうから。


「まだ紙は沢山あるから持って来ておこうか」


真夏の今、太陽が高くなればなるほど火を焚くのは大変な作業になる。
そうなる前にやれるだけのことはやっておきたい。


「私も手伝うよ」


そう言って立ち上がったとき、バタバタバタバタと、今朝聞いたばかりのあの音が聞こえてきたのだ。
ハッと息を飲んで空を見上げる。

眩しい太陽の中に小さな飛行物体があるのが見えた。


「ヘリだ!!」


修が叫ぶ。
香が勢いよく立ち上がってヘリへ向けて両手を振り始めた。


「助けて! 助けて!」


大きく両手を振ってその場でジャンプをする。
ヘリの中から私達はどんな風に見えているだろう?
もしかしたら、豆つぶくらいにしか見えていないのかもしれない。
人に見えているのかどうかも怪しい。

それでもいい。
少しでも異変を感じ取ってくれればそれでいいんだから。


「おーい! ここにいるんだ!」

「助けて! お願い!」


ふたりの声がヘリのプロペラ音によってかき消される。
小さく見えていたヘリはどんどんこちらへ近づいてきているのだ。
これなら気がついてもらえるかもしれない!


「助けて! ここにいるの!」


目一杯声を張り上げ、火のついたプリントを掲げる。


ヘリはバタバタと騒音を撒き散らしながら施設の真上辺りを通り過ぎていった。


「私達のこと見えてたかな?」


ヘリが通り過ぎてしまってから、香が呟く。


「きっと見えてたよ! 煙だって、SOSだって準備してたんだから!」


私は力強く答えた。
これで助けがくるはずだ。
このときは、そう思って疑わなかったんだ……。


☆☆☆

「どうして誰も来てくれないの……」
私はどん底へ突き落とされた気分で呟いた。
ヘリが上空を通り過ぎていってから1時間は経過しているはずだ。
だけど未だに誰かが来てくれる気配はない。
空は青く澄み渡っていて、雲が徐々に少なくなっている。


「大丈夫。きっと、もうすぐだから」


そう言う修の顔には疲労が滲んできている。
さすがにここまで誰も助けに来ないのはおかしいと、感じ始めているはずだ。
あれだけ至近距離で飛行したのに、まさか気がついていないなんてこともないと思う。


「……もしかして、見えてなかったのかも」


座り込んでいる香が呟く。


「え?」


私は驚いて聞き返した。


「ほら、この施設ってなにかおかしいじゃん? だから、ヘリから私たちの姿は見えていなかったのかも」

「そんな……そんなことあるはずないよ」


否定しながらも、もしそうだったらという予感が拭えない。
これだけ待っても助けが来ないということは、それなりに理由があるはずだからだ。

もしヘリから私達の姿が見えていなかったとしたら?
煙や、SOSすら見えて居なかったとしたら……?
ここでいつまでも助け絵を待つこと事態が無謀なことなのかもしれない。


修はさっきから同じセリフを繰り返している。
もう限界だ。
ずっとここにいるわけにもいかないし、一度室内へ戻って休まないといけない。

今の時刻もわからないし、そろそろ朝食の準備だって必要だ。
ここを離れる理由をあれこれ探して自分に言い聞かせるけれど、ほんの小さな期待が胸につっかえてなかなか動くことができない。

もし、私達がここを離れたあとで助けがきたら?
その時室内にいて、気がつくことができなかったら?
そんな想像をしてしまう。

自分の中でどうすればいいのか決着がつかずに動けないままでいたとき、ドアが押し開かれる音がして振り向いた。


「みんな、ここにいたんだ」


そこに立っていたのは彩だ。
足を怪我している彩がどうしてわざわざ屋上に?
そう思ったが、その顔色の悪さを見るとなにがあったのか安易に想像できてしまった。


「また、ホワイトボードに指示が出たの」


その言葉に呼吸が止まる。
ついさっきまで助かるかも知れないと期待していただけに、絶望感ははてしなかった。
その場に崩れ落ちてしまいそうになるのをなんとかこらえて、私は香と修へ視線を向けた。
早く教室へ行ってみんなと合流しないと、それこそ犯人扱いされてしまうかもしれない。


「……行こう」


私は力なくふたりをうながしたのだった。

☆☆☆

教室へ入ると他の子たちが全員集まっていた。
みんなホワイトボードの前で棒立ちになったり、座り込んだりしている。
私たちが教室へ入っても誰も反応を示さないくらいに疲れ切っていた。


ホワイトボードに近づいて今日書かれていることを確認すると「グラウンド100周の日だってさ」と、純子が呟いた。
その声は自虐的な笑いを含んでいる。


「100周って、走るってこと?」

「普通に考えたらそうだよね。だけどそうは書かれてないからわからない」


誰にともなく聞いた質問に純子が早口で答えた。
この炎天下の中で100周もしたら倒れてしまう。
下手をすれば死んでしまうかもしれない。
昨日よりもさらに過酷な命令に目の前が真っ暗になってしまいそうになる。


「走れとも書いてないし、休むなとも書いてない。たぶん、自分たちのペースで大丈夫なんだと思う」


願うような声色で言ったのは彩だ。
彩は足を怪我しているから走るのは到底無理そうだ。
彩の隣にいる花もふっくらとした体型で運動は大の苦手だったし、ふたりにとってはこの試練はかなり厳しいものになる。


「でも問題は、フラウンドに出られるかどうかだよな」


冷静に言ったのは正志だ。


「そうだよね。私達施設から一歩も外に出られなかったんだし」
屋上のフェンスに近づいただけでもなにかの力によって弾き戻されてしまった。
それなのにグラウンド100周なんてできるはずもない。


「それで、犯人は誰だったんだ?」


いきなり話題を変えたのは修だった。
修の視線は充へ向いている。
壁際に座り込んでうつむいていた充がゆっくりと顔をあげる。
その目はまだ充血していて、眠れていないことがわかった。
充の足元にはバッドが転がっているけれど、使ったのかどうかはわからない。


「いや……」


充は力なく左右に首を振った。


「ずっと教室にいたけど、誰も入ってこなかった。気がついたら、文字が書かれてた」


その言葉に未来が頭を抱えて声にならない悲鳴を上げる。
本当はずっと前から非現実的な現象が起こっていることには気がついていた。
けれど、実際に犯人がどこにもいないとわかってしまって、更に追い打ちがかけられたのだ。


「もしかしたら充が犯人だったりしてね?」


攻めるような声で言ったのは純子だ。


「なんだと!?」


充がバッドを握りしめて勢いよく立ち上がる。


「だって、ずっと教室にいたのは充だけでしょう!?」

「俺は犯人を探すために教室に残ったんだ!」

「そんなこと言って、自分が犯人だったってケースもあるじゃん!」


罵倒し合うふたりの間に修が無理やり割って入った。


「今喧嘩してる場合じゃないだろ!」


修の怒鳴り声にふたりは肩で呼吸をしながらも黙り込む。
お互いに視線を合わせないようにそっぽを向いてる姿は、今までの関係が嘘みたいだ。


「お前はどうなんだよ」


充が修へ視線を向ける。


「ヘリがどうこう言ってたよな? 助けは来るんだろうな!?」


矛先を向けられた修がたじろぐ。
ヘリはたしかに飛んでいた。
この施設の上空を過ぎ去っていった。
でも……。


「わからない。助けは、来ないかも知れない」


修が苦しげな声で呟く。
充がハッと息を吐き出した。


「なんだよそれ。助けが来てくれるっていうから、お前を通したんだろうが!」

「ヘリはいたんだよ! だけど、私達に気がついてなかったかも」


咄嗟に助け舟を出す。
今度は充が私に視線を移動させた。
その目は獲物を狩る野生動物のようで、寒気が走った。


「なんだそれ。助けてもらうために屋上に出たんだろ!? なんで助けが来ねぇんだよ!」

「怒鳴らないでよ! 私達だって頑張ったんだから」


充の攻撃的な態度に思わず涙が滲んでくる。
外へ出たい。
助かりたい。
それはみんな同じはずなのに、どうしてこんなにから回って攻撃しあってしまうんだろう。

もっと、協力できるはずなのに。
うまくいかなくて歯がゆくて、唇を噛みしめる。


「ここに来てからずっとおかしなことが続いてるんだよ。ヘリが私達を認識しなくても不思議じゃないかも」


冷静に言ったのは未来だ。
その声に少しだけ心が落ち着く。


「施設の外にいる人間には認識してもらえないってか? ふざけんなよ」


充はまだ納得していない様子だけれど、バッドを投げ出して攻撃的な態度はやめた。
これで少しはまともに会話ができそうだ。


「とにかく、今日の命令に従わないといけなさそうだよな」


正志がホワイトボードを指差す。
このまま助けが来ないということは、命令に従わないとまた誰かが消えてしまうということだ。
私はゴクリと唾を飲み込んだのだった。


☆☆☆

それから私達は玄関前まで移動してきていた。
まずは外に出ることができるかどうかが問題だった。
修が一歩前に出て、手をのばす。

その手の平が玄関ドアよりも先へ出るのを確認して、また一歩全身した。
恐る恐る。
だけど確実に前へ前へと進んでいく。


「嘘……」


修の体が完全に外へ出た瞬間、声が漏れていた。
外に出られる!!
そう確認した瞬間、私達は同時に駆け出していた。
上履きのままで外へ走り出す。


「誰か助けて! 誰かー!!!」


森にこだまする声で香が叫ぶ。


「俺たちここにいるぞ! 助けてくれ!」

「誰かー!!」


それぞれが力の限り絶叫を上げる。
その声は山に反響して、そして消えていくばかりだ。


「近くには誰もいないのかもしれない。このまま下山しよう」


なんの反応もないことを確認して修が動き出す。


私はその後に続いて歩き出した。
広いグラウンドを歩いていると風が吹き抜けていって、少しの開放感を覚えることができた。

これで私達は脱出できる……!
高いフェンスで覆われたグラウンド。
その入口へと足を進めていく。
しかし修は入り口の手前で立ち止まった。


「どうしたの?」

「念の為に確認しておかないと」


そう言うと落ちていた木切れを手に取り、入り口へ向かって投げた。
木切れはパンッと音を立ててなにかに弾き返され、修の足元に転がった。


「そんな……!」


ころころと転がって止まる木切れに泣きそうになる。
せっかくここまで来ることができたのに、ここから先へは行けないということだ。


「なんだよ、早く外に出ろよ!」


木切れが弾き返されたところを見ていなかったのか、充が勢いよく走ってきた。
その表情は外へ出られるものだと思い込んでしまっている。


「ダメ!」


咄嗟に声をかけたけれど充の勢いはとまらず、思いっきり弾き返されてしまった。
グラウンドに砂埃を上げながら倒れ込む。


「充!?」


未来が慌てて駆け寄ってくる。


「いってぇ……」


体のあちこちを擦りむいてしまって血が滲んでいる。
これからグラウンド100周しなければいけないのに!


「大丈夫?」

「くっそ。出れねぇなら先にそう言えよ!」


未来の心配を無視して唾を飛ばす充に修はなんとも言えない表情を浮かべた。


「……とにかく、グラウンド100周はするしかなさそうだな」


修はポツリと呟いたのだった。



☆☆☆

派手に飛ばされた充だったけれどケガは大したことがなさそうで、今はみんなと同じようにグラウンドの中央に集まっていた。
血もすっかり止まったみたいだ。


「100周なんて無理だよ、できないよ」


震える声で呟いているのは花と彩だ。
ふたりはこの9人の中でも1位2位を争うくらい運動が苦手だ。
特に彩は今足を怪我しているから、歩くスピードだって遅いくらいだ。

そんな中でグラウンド100周なんて、本当ならさせるべきじゃない。
だけど命令に従わなければ消えてしまうかもしれないんだ。
誰も彩に『休んでいていいよ』と、声をかけることなんてできなかった。


「グラウンドを走るペースはみんなバラバラだと思うから。自分で何周目かちゃんとカウントしておこう」


全員に声をかけたのは修だ。
太陽が登りきってしまう前に初めてしまいたいと思っているみたいで、さっきから仕切りに空を気にしている。
今日も晴天で、雲ひとつない青空が広がっている。
こんな状況じゃなければ気持ちのいい1日になりそうだと、期待していただろう。


「やっぱり走らないといけないのかな」


不安な声を出したのは彩だ。
私は彩の背中に手を伸ばして優しくさすった。


「ホワイトボードには歩くなとは書かれてなかったから、大丈夫だと思う」


本当のところはどうなのかわからないけれど、今はそう言って彩のやる気を引き出すしかない。
昨日、潤のことを本気でイジメることができなかったことを思い出すと、走ることが正解だとも思うけれど、それは言わなかった。


「そうだよね、大丈夫だよね?」


彩がすがりつくように繰り返し聞いてくるから、私は何度も「大丈夫だよ」と、繰り返した。
花と彩には頑張ってもらわないと、今日もまだ誰かが消えることになる。
それだけは避けたい。

絶対に。
それから私達の過酷な時間が始まった。
山を切り裂いて作っているグラウンドは学校のグラウンドよりも少し広くて、一周するだけでも時間がかかる。
体感的には1周するのに1分。

このペースで100周するってことは、100分走り続けることになる。
ずっと同じペースで走れるわけじゃないから、3時間くらいはみておいた方がよさそうだ。


3時間走る。
体力が続くだろうか?
途端に不安が胸に膨らんでいく。

彩には歩いてもいいよと声をかけたけれど、自分だって最後の方には走れなくなっている可能性が高い。
不安が募ると自然と走るペースが早くなってきてしまう。
こんなこと早く終わりたい。
少しでも早く部屋に戻りたい。
そんな気持ちに後押しされて足が前へ前へと進んでいく。


「大丈夫か?」


後ろから声をかけられたかと思うと、修が隣にやってきた。


「まだ、大丈夫だよ」

「そうじゃなくて、いきなりペースが早くなったから気になって」

ふたりで並んで走りながらそんな会話をする。


「ちょっと……不安になっちゃって」

「不安か。そうだよな。グラウンド100周って簡単なことじゃないもんな」


修はまっすぐ前を睨みつけて走っている。



グラウンドはみんなが走ったことで絵砂埃が上がり、曇って見えた。


「うん……」

「でも今回はみんなが一緒だから」

「え?」

「昨日の命令みたいに、誰かを陥れるような命令でもないし。励まし合って走ることができるから」

「うん。そうだよね」


私は大きく頷いた。
こうして走っていても隣に仲間がいると思うと気持ちが違う。
私は知らない間にペースを落としていた。
修が私のペースメーカーになってくれたみたいだ。
自然とこんなことができてしまう修に胸の奥が熱くなる。


「ありがとう。頑張れそうだから、大丈夫だよ」


私はそう言って微笑んだのだった。


☆☆☆

走り始めてから10分が経過したとき、私の後方で誰かがこける音がして思わず立ち止まっていた。
振り向いて確認すると彩が起き上がろうとしているところだった。


「彩、大丈夫」


後ろから追いついてきて花が彩に手を貸している。


「ごめんね、大丈夫だから」


そういいながらも彩の額には汗が滲んでいてかなりキツそうだ。
怪我が痛み始めているのかもしれない。
彩が立ち上がったのを見届けてから私は再び走り出した。
一旦足を止めてしまったから、走り出す足がとてつもなく重たい。

まるで両足に鉛をくくりつけられているような気分だ。
自分は自分のペースで走らなきゃ。
じゃなきゃ走れなくなっちゃう。
心の中でそう呟いて前方だけを見て足を前に進める。
私の前には修がいて、一定のペースで走ってくれているから本当に助かる。

香が今どこにいるのか気になったけれど、見える範囲にはいなかった。
きっと、後ろからついてきているんだろう。
確認したかったけれど、私にはもう後ろを振り返る余裕はなかったのだった。


☆☆☆

走り始めてから40分くらいが経過していた。
太陽は徐々に登り始めていて、私達の体を熱で蝕んでいく。
シャツには汗がベッタリと張り付いていて、額から流れ出る汗は止まることを知らなかった。

できれば休憩して水分補給をしたいけれど、それが許されるかどうかわからないからみんな無言で走り続ける。
最初はあちこちで会話が聞こえてきていたけれど、今はもうみんな黙りこくってただ足を前へ運ぶ。
ただその作業を繰り返すばかりだ。

短くて早い呼吸を繰り返しながら走っていると修が彩と花のふたりを追い越した。
ふたりはこれで一周遅れだ。
だけどまだ走っている。

懸命に足を動かして砂を蹴っている。
頑張れ。
頑張れ!
私は心の中でふたりへ向けてエールを送りながら、追い越したのだった。


☆☆☆

もうどれくらい走っているだろうか。
確かこれで70週目だから、もう1時間以上は走っていることになる。
あと30周。

あと30周で終わることができる。
今すぐにでも倒れ込んでしまいそうになるのをなんとか堪えて足を運ぶ。

修の姿は相変わらず私の前に見えているけれど、そのペースは遅くなっていることがわかった。
いくら運動神経がいい修でも、ここまで長時間走った経験はないだろう。
さっきから時折体が右へ左へと蛇行するようになっていた。
私も、足がふらついてこけてしまいそうになることが何度もあった。

でも、ここでこけたら終わりだ。
もう1度立ち上がって走り出すことなんて、絶対に不可能だろう。

私と修は前方に彩と花の姿をとられて追い抜いた。
ふたりと追い抜くのもこれで何度目かになる。

ふたりはすでに走るのをやめて、肩を寄せ合うようにして歩いている。

彩は怪我をした方の足を引きずり始めていて、それでも諦めずに前へ進んでいる姿に勇気が湧いてくる。
あと30周だ。
大丈夫。

きっと最後まで走ることができる。
私はまたしっかりと目を開いて前方を睨みつけるのだった。


☆☆☆

1度、香の声が聞こえてきた時があった。
後方で「キャッ」と短く悲鳴がして、コケるような音が聞こえてきた。

その音を聞いたときには立ち止まってしまいそうになったけれど、修の背中だけを見つめてどうにか走り続けた。
残り10周まで来て立ち止まるわけにはいかない。

今他のことに気を取られて立ち止まってしまえば、そのから先がすべて水の泡になってしまうかもしれないからだ。
もはや自分が何時間走っているのかわからなくなっていた。

靴ずれが起きてくるぶしから血が出たときは痛みを感じていたけれど、今ではそれも気にならなくなっている。
体のあちこちが痛くて苦しくて、すでに悲鳴を上げている状態だ。
靴ずれの痛みなんて、すぐに忘れてしまった。


☆☆☆

「あと1周だ!」


走りながら視界がぼやけて、頭がぼーっとしてきたとき、前を走っていた修が叫んだ。
その声に意識がハッキリと覚醒する。
修が走りながらこちらを振り向いている。


「あと……1周……」


呟く声はガラガラに枯れていて、自分のものではなくなっていた。
だけどあと1周。
あと1週ですべてが終わる。
そう思うと涙が滲んできて、前が見えにくくなってしまった。

これじゃ走れない。
私は慌てて手の甲で涙をぬぐって最後の力を振り絞って走る。

校舎前にはすでに走り終えた充と正志が座り込んで肩で大きく呼吸を繰り返している。
走る前に怪我をしたのに、それを物ともせずに走り抜いた充はさすがだ。
私も早くその場所まで行きたくて、必死にくらいつく。


「あと半周!」


修の声に元気が湧いてくる。

あと半周で終わる。
それなら絶対に達成できるはずだ!

前へ前へ。
前へ前へ。
とにかくそれしか考えない。

グランドの砂埃だってもうとっくの前から気にならなくなっている。
埃っぽい空気に何度もくしゃみが出たことが、遠い昔のことみたいだ。


「もう、少し!」


スタートラインが視界に入る。
あそこまで走れば終わることができる!
気持ちが前のめりになって私を追い越していこうとする。
それに引きずられるように足が出る。


それはもう走っているのか歩いているのかわからないようなペースだったけれど、確実に前に進む。
白線が目前まで近づいてきたとき、一瞬足の力が緩んでしまった。

そのまま足が絡んで体が前のめりになる。
こける!
そう思って目を閉じたとき、誰かが両手を差し出して私の体を支えてくれていた。
そっと目を開いてみると、私は修の腕の中にいた。


「ゴール」


汗を流しながら笑顔で言う修に、私は自分が立っている場所を確認した。
白線は……私の体の後方にあった。


☆☆☆

まだ走っている子たちの邪魔にならない場所へ移動して、私と修は同時に倒れ込んだ。
土がひやりと冷たくて心地いい。


「やったな」


修が笑顔を向けてくる。


「うん……修のおかげ」


息を切らしながらどうにか返事をする。
大きく息を吸い込んでもまるで酸素が足りていない。
口の中はカラカラだし、倒れ込んでしまったから上体を起こすことだって難しくなってしまった。
それでも私の胸の中は達成感で包まれていた。

まさか自分にこんなことができるなんて思ってもいなかった。
これが通常の授業であれば、とっくに音を上げていたと思う。


「歩が頑張ったんだよ」


修にそう言われて頬がカッと熱くなるのを感じる。
歩と呼ばれたのは初めての経験だったけれど、すごく自然な感じだった。
もう少しこうしてふたりで横になっていたかったけれど、充と正志のふたりが近づいてきた。


「ほら、水」


ペットボトルを差し出されてありがたく受け取る。
冷たく冷えたペットボトルに触れただけで気持ちがほぐれてきた。
一口水を飲むと、砂漠の中のオアシスにたどり着いたような気分になって、もう止まらなかった。

500ミリのペットボトル半分くらいを一気に飲み干してしまった。
ペットボトルから口を離して再び大きく深呼吸を繰りかえすと、ようやく肺に空気が入ってくる感覚がした。
生き返った……。
素直にそう感じられた。


「俺たち教室に戻るけど、どうする?」


教室の中からでもグラウンドの様子はわかるし、これからまだ気温が高くなってくるからそれを考慮しているんだろう。
正志の言葉に修は頷いた。


「俺たちも教室に戻るよ。もう少し、休憩してから」


修はそう言うと、ふたりに気づかれないように私の手をそっと握りしめたのだった。



☆☆☆

修がペースメーカーになってくれなければ私は100周走り切ることはできなかったかもしれない。
本当に、修には感謝してもしきれない気分だ。


「みんなはもう少しかかりそうだな」


グランドではまだ5人の女子生徒たちが走っている。
香もその中の1人だった。
いつの間に追い越してしまったのか覚えていないけれど、きっともう少しで走り終わるはずだ。


「頑張れ香!」


校舎へ入る前にそう声をかけたけれど、その声が届いたかどうかはわからない。
必死で前だけを見て走っている。
その姿を見るときっと大丈夫だという気持ちになれた。

修と手をつないだまま教室へ入ると、充と視線がぶつかった。
咄嗟に修と手を離してしまう。

悪いことはしていないけれど、なんだかイタズラを見つかった子供のような気持ちになってしまった。
ふたりはすでに着替えとシャワーを済ませているみたいだ。


「お前らも着替えれば?」


窓辺に座ってグラウンドを見ていた正志が言う。


「うん。でも、ちゃんと見届けてからにするよ」


まだ頑張っている子たちがいるから、ここからでも応援したかった。
修も窓を開けてグランドへ向けて声をかけている。


「頑張れ! もう少しだ!」


その声に背中を押されるようにしてみんなが走る。
荒い呼吸がここまで聞こえてきそうだ。


「頑張れ! 頑張れ!」


両手でスピーカーを作って声を張り上げる。
さっきまでガラガラに乾燥していた喉は、どうにか回復していた。
体はずっしりと重たくて、今にも崩れおちてしまいそうだ。

窓の前を彩と花の二人組が走っていく。
すでに歩くスピードよりも遅いくらいだけれど、それでもまだ諦めていない。


「あのふたりはあと何周くらいなんだろう?」

「たぶん、まだ20周はあると思う」


修の言葉に私の胸はギュッと苦しくなる。


あと20周以上を、あの様子で走るなんて。
とても無理に思えるけれどそれは口には出さなかった。

できると信じてあげなきゃいけない。
彩と花のふたりに気を取られている間に他の3人が次々とゴールしていく。

香がゴールの白線を踏みしめてその場で泣き崩れてしまった。


「やった! 香がゴールした!」


その姿に感極まって教室を駆け出していた。
体は重くてもう少しも動けないと思っていたのに、グラウンドに出て香へと駆け寄る。


「香、香頑張ったね!」


そう声をかけて握りしめてきた冷たいペットボトルの水を差し出す。
香は返事をする前にそれを一気に飲み干していた。


「歩……私走れたよ!」


ボロボロと涙をこぼして抱きついてくる香を優しく抱きしめる。
その呼吸はまだ荒くて、それなのに涙だこぼれて余計に会話が成り立たない。
それでもよかった。
とにかく香は最後まで走り切ることができたんだから。



☆☆☆

香を抱えるようにして歩いて教室へ戻ってきた。
修たちが拍手で香を出迎えてくれる。

香はそのまま倒れるように床に崩れ落ちてしまったけれど、その表情は満足そうだ。
それから未来と純子のふたりも教室に戻ってきて、残るは彩と花のふたりだけになっていた。


「随分と暑くなってきたな」


窓から空を見上げて修が呟く。
太陽はとっくに頭上まで登ってきていて、どんどん気温を上昇させている。
長時間グラウンドにいるふたりの汗はここから見ても尋常ではなかった。


「水分補給ってすることはできないのかな?」


このまま走り続けていればいずれ倒れてしまう。
そうなる前に休憩を挟むことができればいいけれど。


「わからない。ホワイトボードに詳細は書かれてないもんな」


修が眉根を寄せて言った。
ホワイトボードは私達に命令するばかりで、その詳細がどうであるかも教えてくれることはない。
私達の分は随分と悪いものだった。

結局、休憩に入るように声をかけることもできないまま、時間だけが過ぎていく。
走り終わった生徒たちもみんなでふたりを応援する。
けれど彩と花の歩調はどんどん遅くなっていくばかりだ。


最初は彩のことを気遣っていた花だったけれど、ここにきて肥満体が仇になってきている。
今は彩よりも花の方がずっと苦しそうだ。
あえぐように上を向いて走る花の様子は明らかに危険信号だった。


「花! ちゃんと前を見て走らないと!」


声をかけても反応がない。
ふらふらとよろめきながら前へ進む花は、そのまま前倒しになって倒れてしまった。


「花!?」


窓から身を乗り出して声をかける。
花はきつく目を閉じて少しも動かない。


「行ってみよう」


修がそういったときだった。


「もう、遅いかもしれない」


正志の小さな声が聞こえてきて私達は動きを止めた。


「遅いってなにが?」


キョトンとして聞き返すと、正志が教室前方を指差した。
そこにはホワイトボードがある。
そこに書かれている文字に気がついて私は目を大きく見開いた。


今朝見たのとは違う文字が書かれている。
それは……。


『グラウンド100周 失敗』

「え、なんで……」


思わず声が漏れていた。
昨日までは命令が書かれて夕方になるまでは『失敗』と書かれることはなかったはずだ。
なのにどうして今日はこんなに早く判断されているんだろう。
時計へ視線を向けてみると、時刻はまだ昼を過ぎたところだ。
どう考えても早すぎる。


「……走ってないからかもしれない」


未来がポツリと呟いた。


「ふたりとも、さっきからずっと歩いてたよね。それがダメだったのかも」

「でも、それならもっと早い段階で失敗って書かれてないとおかしくない?」


私は未来の言葉に反論するように言った。
彩と花のふたりは私達が走っているときから、歩き始めていた。
それははっきりと覚えている。


「他の人達が走ってたから、失敗にはならなかったのかも。だけどみんなクリアしてふたりだけになっちゃったから……」


未来はそこまで言って言葉を切った。
ただの憶測でしかないけれど、そうなのかもしれない。
さっきまでは他の生徒たちが走っていたから、命令をちゃんと聞いていると認識されていたのかも。
だけどふたりだけになると、命令に背いていることになる。


「今度は誰が消えるんだ?」


充の声にゾワリと全身に鳥肌が立った。
そうだ。
この文字が書かれたということは、また誰かが消えるということだ。


「嫌だ! 私は消えたくない!」


香が頭を抱えてうずくまる。
『誕生日を祝う日』では先生が。
そして『イジメの日』では潤が消えた。

そこになにかの法則があるのかもしれないけれど、考えている時間はきっとない。
どうすることもできないの……?
頭の中は真っ白でなにも考えることができなくなってしまう。
教室で棒立ちになっていたとき、突然純子が「キャア!」と悲鳴を上げた。


純子は窓の外を指差している。
すぐに窓に駆け寄ってグラウンドを確認したけれど、そこにはなにもなかった。
そして、誰もいない。


「嘘、彩と花は!? どこに行ったの!?」


さっきまでグラウンドにいたふたりがいなくなっている。
足を怪我していた彩と、倒れてしまった花がこんなに早く移動するなんてことはありえない。
だとすれば……。


「今度はふたりが同時に消された……?」


自分で呟いて喉の奥から悲鳴が漏れ出した。


「ふたり同時ってなに!? そんなことあるの!?」


香がパニックになって叫ぶ。
私はぶんぶんと左右に首を振った。


「そんなのわかんないよ! でも、いなくなったじゃん!」


命令に背いたふたりが同時にいなくなった。
ということは、これから先も同じように複数人が同時に帰されることがあるかもしれないと言うことだ。


恐怖で立っていられなくなったとき、修が駆け寄ってきた。


「落ち着いて」


私の体を抱えるようにしてゆっくりと座らせる。
私はパニックで浅くなった呼吸をどうにか整えた。


「ふたり同時に消えるなんて、そんなの聞いてない!」

「みんなだって同じだ。とにかく俺たちは助かったんだから、しっかりしないと」


修が励ましてくれているのは理解できるけれど、納得はできなかった。
しっかりしないといけない。
でも、しっかりしたところでここから脱出することはできない。
そんな言葉が頭の中でグルグルと駆け巡っていたのだった。



合宿参加者

山本歩 山口香 村上純子 橋本未来 古田充 小高正志 安田潤(死亡) 東花(死亡) 町田彩(死亡) 上野修

担任教師

西牧高之(死亡)


残り7名
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