仮面

西羽咲 花月

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ライター

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家までの道のりは足が重かった。
一度帰宅してしまえばもう好きに外出することはできない。
近所のコンビニ、ううん、すぐ近くにある自販機まで行くのにも父親の了承を取らなくてはならないのだ。
そしてたいていその了承が降りることはなかった。
ジュースなんて飲まなくていい。
お菓子なんて食べなくていい。
そんなものは用意してあるだろう。
どうしてそれじゃダメなんだ。
そんなダメだしが直接頭の中に聞こえてきた気がしてクルミは歩道脇にしゃがみこんでしまった。
しゃがみこんだ道路には汚い100ライターが落ちている。

それを見たクルミは一瞬顔をしかめたが、すぐにまた悲しげな表情に戻った。
自分はこのライター1個自由に買うことができないんだ。
そんな人生になんの価値があるというんだろう。
経営学を叩き込まれて知識ばかりが増えていっても、それは本当に自分がやりたいことではないのに。
クルミは目の前に落ちているライターに手を伸ばした。
普段なら踏んづけて歩くようなそのゴミを大切そうにポケットにしまう。
たとえばこのライターで家に火をつけることができれば、自分の人生を位置からやり直すことができるんじゃないか。
考えながらフラリと立ち上がる。
クルミの脳内に家が燃えているイメージが浮かんできた。
ゴウゴウと炎の音を立てて燃え盛る屋敷。
オレンジ色の熱から必死で逃げまどう両親たち。
その髪が、皮膚が、炎によってチリヂリに溶け出していく。
人の燃える強烈な臭いが鼻腔を刺激して、吐き気がこみ上げてくる。
そこまで想像したクルミは少しだけ気持ちが落ち着いて、ゆっくりと帰路を歩き出したのだった。

☆☆☆

「お父さん、私、なにかスポーツをしてみたいの」
それはクルミにとって勇気のいる一言だった。
夕飯を食べていた父親は料理から視線を外さずに「授業でしているだろう」と、返事をした。
「そうじゃなくて、部活動とかで。テニスとかいいなって思っているんだけれど」
おずおずと話すクルミに対し、父親は表情も変えない。
母親へ視線を向けると、すぐにそらされてしまった。
「そんなことよりも勉強だ。運動は勉強の気分転換にやればいい」
「でも、それじゃ部活動には参加できないじゃない」
そういってみても父親はもう話は終わりだとばかりに会話を止めてしまった。
クルミの胸にはわだかまりだけが残る。
「勉強だって体力を使うことだから、同じことよ」
母親は今の会話にさして興味なさそうな声でそう言ったのだった。

食事が終わると少しの休憩時間が挟まれる。
平日、家の中で唯一誰にも監視されない時間だ。
だけどこの時間が終わればまた勉強が始まる。
勉強が始まればクルミのとなりには有名大学の家庭教師が張り付き、家の中ですら自由にる歩くことができなくなってしまうのだ。
クルミはこの貴重な数十分を使うため、ポケットの中にあのライターを隠し持っていた。
道路に捨てられていて、汚い100円ライター。
コンビニに行けば誰だって手に入れることのできる、安っぽい商品。
だけどクルミはこれすら自分の意思で購入することはできない。
どれだけブランド品を買い与えられても、それは父親や母親が選んで買ってきたものなのだ。
クルミの意思はその中に反映されていない。
クルミはポケットの中に手を突っ込んでライターの感触を確かめながらトイレに向かった。
この家のトイレは無駄に豪華で広い。
子供の頃はこれが当たり前だと思っていたが、学校に行くようになり、個室の存在を知ってからは家のトイレなのに落ちつかない気分になっていた。
クルミは3畳ほどあるトイレの真ん中にトイレットペーパーを丸めて置いた。
くしゃくしゃのトイレットペーパーがトイレの床にある様子はどこか滑稽で少し笑ってしまう。
けれどすぐに顔を引き締めてライターを取り出した。

これを拾ったときにイメージしたことを、今からやるのだ。
自分の人生を変えるために、この家をすべて燃やし尽くしてしまえ。
そうすれば自分は自由になれる。
両親が死んで施設に入ることになったとしても、少なくてもコンビニくらいは自分の意思でいけるようになるのだ。
クルミは舌なめずりをして拾ったライターを見つめた。
普段は踏みつけて歩くそれが、今はクルミにとって唯一の救世主だった。
火をつけようとして、ふと、ライターを持つのは自分の人生で初めてだと思い至った。
ライターだけではない。
他にも普通の高校生が当たり前に触れたことがありそうなものを、クルミはまだこの手に触れたことすらないのだ。
そう思うと悲しさと同時に怒りが沸いてくるのを感じた。
自分をこんな風にしたのは誰のせいだと、両親を責めるような気持ちが膨らんでいく。
その怒りに任せてクルミはライターをつけた。
カシュッ!
かすかな音と、不発だったときの香りがトイレの中に広がっていく。
もう一度。
カシュッカシュッ。
何度やってみてもライターに火はつかず、かすかな閃光が飛ぶばかりだ。
次第にクルミの目に涙のまくが浮かんできた。
カシュッカシュッ。
つかないライターの音が、いつまでもトイレの中から聞こえてきていたのだった。

☆☆☆

なにも変わらない翌日がやってきてしまった。
お手伝いさんに起こされたクルミはすでに準備されている制服に着替え、髪の毛を整えてキッチンへ向かった。
父親の朝は早くて、その姿はすでにない。
しかし、父親が食卓にいないだけでクルミの気持ちは随分と楽になる。
普段の食事では呼吸もできないくらいに重苦しさを感じるときがあり、そういうときは決まって父親の仕事がうまくいっていないときだった。
そういうときにクルミが気分を変えようとして話かけると、『食事は黙ってしろ』と、一括されてしまう。
助けを求めるように母親へ視線を向けて見ても、母親はまるでクルミに関心を示さなかった。
母親の関心があるのは父親のお金と宝石ばかりだ。
「昨日みたいなことはもう言わないで」
朝食を食べ始めたとき、母親がそう声をかけてきた。
母親からクルミに話かけてくることは珍しいので、クルミは一瞬動きをとめて目を丸くして母親を見つめた。
「ほら、部活とかなんとか。クルミがそういうことをいうと、あの人すぐに不機嫌になるんだから」
母親は面倒くさいとでもいいたげに言葉を続ける。
「ごめんなさい」
自分が悪いことをしたとは思っていないが、クルミはつい謝ってしまった。
母親はその言葉を聞くと満足そうに微笑んで、再び食事に集中したのだった。

学校はどうして6時間で終わってしまうんだろう。
もっと、8時間でも9時間でもすればいいのに。
あっという間に授業が終わってしまっても、クルミはなかなか席を立つことができなかった。
家に帰るとまた勉強が待っている。
勉強が嫌なわけではないけれど、子供に関心を見せない両親と顔を合わせるのは嫌だった。
家に帰るとまるで自分は両親のロボットになってしまったような感じがするのだ。
自分は少しも自分の意思では動けない。
それはとても息苦しいことだった。
すぐに帰る気になれなかったクルミはひとりで校舎内を歩き始めた。
すでに廊下にいる生徒の数は少なくなっていて、部活動を開始する声がグラウンドから聞こえてきている。
みんな自分の意思で動いている。
真っ直ぐ帰るのも、部活に参加するのも、アルバイトに行くのも、きっと自分で決めたんだ。
どれだけお金がある世界よりも、クルミにとって自由のある世界のほうがずっと魅力的だった。
「あ、ここって……」
ぼんやりと歩いていると、いつの間にか屋上へ続く踊り場へ来ていた。
灰色の重たくて冷たそうなドアが聳え立っている。

こんなことで時間を使っていたらまた起こられてしまう。
早く帰らなきゃ。
気持ちは焦るものの、足はなかなか階段を下りようとしない。
視線は灰色のドアに釘付けになり、噂で聞いた仮面のことを思い出していた。
どんな犯罪でもプロ級になれるという仮面。
もしそんな仮面が本当にあったら、自分はどんな犯罪に手を染めるだろう?
考えて、昨日できなかったことを思い出す。
トイレに準備したトイレットペーパーはあの後水に流してしまった。
「放火の才能。なんてね」
クルミはクスッと笑い、ドアに手をかける。
鍵がかかっているものと思っていたそのドアはいとも簡単に開いてしまった。
少し拍子抜けしながら屋上へと出てみると、刺すような日差しに目を細めた。
8月に入るともっともっと暑くなるのだろう。
クルミは夏休みとなると毎日勉強に明け暮れなければならないが、クラスメートたちは海だ山だと遊びにいき、よく日焼けをして新学期を迎えるに違いない。
羨ましさに下唇をかみ締めたとき、光を反射しているものが落ちていることに気がついた。
クルミはまるで引き寄せられるようにそちらへ足を向ける。

「なにこれ」
クルミは躊躇もなく、真っ白な仮面を手に取っていた。
仮面は太陽光を浴びて少し暑いくらい熱をこめている。
「仮面?」
角度を変えて確認し、自分が拾ったものが仮面であるとわかるとクルミは後方を振り向いた。
人の気配はない。
誰かが自分をからかって遊んでいるのではないかと思ったが、そうではないようだ。
クルミはその仮面を手に屋上を出た。
室内で確認してみると、その仮面はなんの装飾もなく真っ白だった。
裏側も同じように真っ白で、なんだか安っぽく見える。
「ふーん。これが噂の仮面ねぇ」
全然信じていないような口調でそう呟きつつ、仮面を握り締めて学校を出たのだった。


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