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美保が次に目を覚ました時、見慣れた部屋の慣れたベッドの上だった。
スマホのアラームがピピピッと面白くもない電子音を鳴らしている。
右手を伸ばして枕元のスマホを手に取り、無意識にアラームを止めた。
ここからあと5分眠るのがいつもの美保だった。
この5分間のうたた寝が最高に気持ちいいのだから。
ほどなくうつらうつたしはじめたとき、不意に脳裏に死神の顔が蘇ってきた。
病的に白い肌。
整った顔立ち。
心残りがないと言ったときの困り顔。
思い出してプッと笑う。
死神でもあんな顔するんだ。
「変な夢見たせいで今日は二度寝できないかも」
そうつぶやいて目を開ける。
そこにはあいかわらずの見慣れた天井が広がっていて大きくあくをする。
そして昨日が金曜日だったことを思い出した。
つまり今日は土曜日。
「会社休みじゃん」
普段は休みの前日にアラームを消しておくのだけれど、時々こうして忘れてしまう。
でも土曜日で間違いないはずだ。
それなら心置きなく眠れそう。
そう考えて頭まで布団をかぶった、そのときだった。
「今日は会社へ行け」
そんな声が聞こえてきて美保の意識は一気に覚醒した。
今の声、なに?
ここは美保のアパートで、ついでに言うと女性専用アパートで、当然美保は男なんて連れ込んでいないわけで……。
じゃあ、今の男の声は誰のもの?
布団の中でサーッと血の気が引いていく。
このまま貧血になって気絶してしまうんじゃないかと不安になったとき、強引に掛け布団がめくられていた。
突然布団がなくなった驚きと、目の前に出現した死神に驚いて美保は固まってしまう。
「せっかく時間を戻したんだ。早く会社へ行け」
え、あれ。
死神?
ってことはあれは夢じゃなくて現実だった?
混乱する頭で死神をじーっと見つめると、怪訝そうな顔をされてしまった。
「で、でも今日は土曜日だし」
「そう思って会社には出勤するように細工しておいた」
そう言って死神が大鎌を見せてきた。
そこに写っていたのは会社へ向かっている同僚たちの姿だった。
『今週休みなしとかほんと疲れる』
『その代わりボーナスはずんでもらおうぜ』
なんて音声まで聞こえてきて美保は勢いよく起き上がった。
「せっかく時間を戻したのに無駄に使ったら意味がないだろ?」
「ってことは、今日も明日も?」
「仕事だ」
そんなぁ!!
美保は頭を抱えて叫びたくなるのをグッと我慢したのだった。
☆☆☆
死神がどんな力を使ったのかわからないけれど、定時退社休日はちゃんと休みが取れるホワイト企業が、今週の土日は出勤になってしまった。
しかも一週間前に戻っているから、土日出勤で同じ仕事をするということだ。
なんだか損をした気分になっているのは自分だけだろうか。
モヤモヤとした気分のまま着替えをして駅へ向かう。
土曜日ということで電車が混み合っていないのがせめてもの救いだ。
普段と違ってゆったりと椅子に座って揺られながら会社へ向かう。
中には美保と同じように休日出勤の会社員たちもいるようで、みんな疲れた顔をして車窓から景色を見つめていた。
毎週休日出勤をしているとああなってくるのかな。
なんて恐ろしいことを考えている間にあっという間に目的の駅に到着してしまった。
渋々下車して会社へ向かっていると、あの交差点が見えていた。
自分が死んだ交差点を直視することができず、美保は早足で通り過ぎた。
少し行けば歩道橋があるから、そこを渡ればいい。
そう、元々そうしていれば交通事故に遭って死ぬようなこともなかったのだ。
ぼーっとしているくせに横断歩道を歩くから。
なんて自虐的な思考を繰り広げていると、歩道橋の階段で躓いてこけそうになってしまった。
どうにか出勤してきた美保を出迎えてくれたのは隣の席の平田一美だった。
一美も美保と同じ大学出身で、入社してからもずっと同じ部署で仕事をしている。
一美はオシャレで垢抜けているから大学時代にはあまり一緒にいた経験が無いけれど、社会人になってこうして仕事をしはじめてからはよく会話するようになっていた。
「美保おはよ。休日出勤なんて珍しいよねぇ」
デスクの上に手鏡を広げてリップを直しながら言う。
「本当だね。明日も出勤なんだっけ?」
一応質問するよ「そうだよ」と、肯定されてためいきが出た。
ごめん。
それもこれも私のせいです。
という言葉を飲み込んで周囲を見回す。
みんないつも通りに仕事をしているように見える。
私と同じように一週間前から戻ってきた人はいなさそうだ。
それからは美保も普段どおりに仕事を開始した。
1度やっている仕事だからどんどん進む。
なにも問題なく進む。
そしてあっという間に昼休憩の時間になって、はたとパソコンから顔を上げた。
仕事に熱中していたせいで忘れていたけれど、これって普通に仕事してるだけじゃダメなんだよね?
憧れの裕之に告白しなきゃダメなんだよね?
と、思っても誰にも相談はできない。
とりあえず普段と違う行動をとるべく、美保は社員食堂へ向かった。
途中で立ち寄ったコンビニでおにぎりとお茶を買っている美保は普段は自分のデスクでご飯を食べる。
だけどそれでは裕之に会うことがないと気がついたのだ。
せっかく死神が用意してくれた時間なのだから、ちょっとは自分から行動しなきゃという気持ちで食堂のドアを開けた。
そこにはすでに数人の社員たちがいて、談笑しながらご飯を食べている。
美保は一番日当たりのいい席に座ってコンビニの袋からおにぎりを取り出した。
今日買ってきたのはシャケとこんぶのおにぎりだ。
口いっぱいに頬張るとのりの旨味が広がる。
ううん。
最近のコンビニおにぎりってのりにしっかり味がついてておいしいんだよねぇ。
特にA社のおにぎりが最高!
なんて思いながら食べているとどんどん社員たちが集まってきて、どんどん居場所がなくなってきた。
さ、そろそろ部署に戻ろうかな。
4人席しかない食堂で1人で座っている美保は、どう考えても自分が邪魔をしている気分になってそそくさと立ち上がる。
一応少駆動内をグルリと見回してみて裕之がいないかどうかの確認はしておく。
残念だけど今日はここにいないみたいだ。
仕事が忙しい人だし、もしかしたら部署で食べているのかもしれない。
それか、上司に誘われて外に食べて行っているのかも。
食堂を出るときにゴミを捨ててペットボトルに残ったお茶を手に持ったときだった。
聞き慣れた声が聞こえてきて視線を向けると、そこに裕之の姿があった。
裕之は仲間数人と一緒に談笑しながら食堂へ入ってくると、そのままカウンターへ向かって注文をしはじめた。
いた……!!
お目当の人を見つけたことで美保の体温が急上昇していく。
やっぱり食堂を使ってたんだ!
予想が当たっていたこと、普段はしない行動を起こせたことで胸の中がいっぱいになる。
よかった。
これで一歩前進できたかな!?
☆☆☆
「で?」
会社からアパートへ戻ってくると死神が出迎えてくれたので、美保は今日の成果をゆうゆうとして話して聞かせた。
「高野さんを見ることができたの!」
目を輝かせて自信満々に言う美保を目の前にして死神はなぜか呆れ顔だ。
どこか怒っているようにも見える。
「それだけ?」
「それだけってことはないでしょう? 同じ会社にいたって、会えない日もあるんだから」
美保がプリプリして言い返すと、盛大なため息をつかれてしまった。
なにかそんなに変なことを言っているだろうかと首をかしげていると、死神の目がつり上がった。
「そんなんで告白できる日が来るのか!?」
「そ、それは……」
わからない。
そもそも好きとかもよくわからない。
ただ、憧れていることは確かかもしれない。
死神に怒られてシュンッと落ち込んでいると盛大なため息をつかれてしまった。
あぁ、私は死んでまで誰かに迷惑をかけている。
そう思うと本当に死にたくなってきてしまって「願いとかないので、もう連れて行ってください」と、涙目になって訴えかけた。
死神はギロリと美保を睨みつけたかと思うと「もう時間を戻して小細工までした。このタイミングでお前を連れて行くわけにもいかなくなったんだ」
「ご、ごめんなさい」
もうあやまることしかできない。
そもそも自分はそんなに悪いことをしただろうかと思うけれど、怒っている人を見ると咄嗟に謝ってしまうのは美保の癖だ。
「仕方ない。明日も頑張ってもらうしかないな」
「はぁ……」
曖昧に頷いたのは明日は日曜日なのに出勤になってしまったからだ。
「なんだ、どうしてお前に元気がないんだ。さっきまで憧れの人を見ることができたと騒いでいたくせに」
それはそれで嬉しかったけれど、その喜びをかき消したのは死神だ。
でも、もちろん口が裂けてもそんなことは言えない。
「明日が出勤になってもきっとほとんどなにも変わらないと思います……」
しぶしぶそう答えるとまた睨まられた。
どうやら死神は美保の性格をあまり好きではないみたいだ。
美保のほうもすぐに怒ったり睨んでくる相手は苦手だ。
「お前はもっと自分のために頑張ることができないのか」
「頑張るって言われても……」
恋愛に関しては初心者すぎてなにをどう頑張ればいいかわからない。
映画やドラマの世界であればなんとなく先が読めていい展開になることはわかるけれど、いざ自分が主人公になると思ってみても、とても主人公になれるとは思えない。
「わかった。それなら俺が助言してやろう」
「助言、ですか?」
死神からの助言なんてそんな恐ろしいものいらない。
が、いらないとも言えずに黙り込む。
「お前、相談相手はいるか?」
「相談相手?」
以外な質問にまばたきを繰り返す。
「恋愛相談できる相手だよ。そいつに相談して助言してもらえ」
死神が助言してくれるのではなかったのかと思ったが、そこは突っ込まないでおいた。
恋愛上手な子からの助言なら、たしかに役立つかもしれない。
「それはまぁ……ひとりくらいは」
「ひとりかよ!」
激しく突っ込まれたが、死神はすぐに気を取り直して「まぁひとりいれば十分か」と、言い直した。
なんだか友人が少ないと言われた気がしなくもないけれど、事実だから仕方ない。
「そいつに恋愛について助言してもらえ。それを実行しろ」
「はぁ……」
それを実行しろと簡単に言われても、実行することが一番難しいのに。
それでも文句を言うことをできずに美保は頷くだけだったのだった。
☆☆☆
美保の中で恋愛の相談相手と言えば隣の席の一美だった。
一美は学生時代から美人で有名で、ミスなんちゃらという学校イベントに選ばれたこともある。
そんな一美には色恋沙汰の話が絶えず、経験も豊富そうなことは知っていた。
「おはよう一美」
翌日の日曜日、休日連続出勤を余儀なくされた一美はひどく不機嫌そうで、でも声をかけないわけにもいかなくて美保は小声でそう言った。
「あぁ、おはよう」
ムスッとした表情でパソコン画面を睨みつけているが、画面はまだ立ち上がってきていない。
そもそも電源ボタンを押していないみたいだ。
「一美、電源入ってないよ」
「あ、そう」
それでも電源を入れようとしない一美は本当にご立腹みたいだ。
なんだかごめんなさい。
全部私のせいで。
そんな気持ちで自分のパソコンを立ち上げる。
せめて一美に迷惑にならないよう、自分の仕事はちゃんとしよう。
「あのさ、一美って今日予定があったの?」
「もちろんよ。日曜日はデートに決まってるでしょう?」
躊躇なく答える一美はさすがだと思う。
美保の日曜日は大抵恋愛映画を見てダラダラ過ごしているから、デートと聞いて心臓がドクンッと跳ねた。
「そ、そっかぁ。彼氏いい人なの?」
そう言えば一美に彼氏とか恋愛とかの話を聞いたことがないと思い出す。
入社してから会話するようになったと言っても、ほとんどが仕事に関することばかりだ。
そんな美保から彼氏についての質問をされたので、一美も驚いた顔をしている。
「いい人よ。カッコイイし」
一美の頬が緩むのを見て、本当に好きなんだなぁと思う。
自分もそんな風に誰かに恋をしてみたかった。
いや、一応は裕之に恋しているのかもしれないけれど。
「美保は? 彼氏いるの?」
その質問に美保はうつむいて左右に首を振った。
「そっかぁ。美保、可愛いのにね」
それがお世辞とは思わずに美保はパッと顔を上げた。
かわいいなんて言われたのは何年ぶりだろう。
小学校の頃、親戚の人に言われたのが最後かもしれない。
思わず頬を染めて喜んでしまった美保を見て一美がプッと吹き出して笑うのをこらえている。
「で? なんで急にそんな話しをしてきたの?」
色恋沙汰の話をしたことなんてない美保が自分から仕事以外の話題をふっかけてきたことで、すぐになにかあったのだと感づかれてしまった。
「実は……」
と、言いかけて美保は口を閉じる。
恋愛経験ゼロの美保は人に恋愛相談した経験もゼロだったことに気がついたのだ。
これから一美に自分の好き……かもしれない人について説明するのだと思うと、急に緊張してきてしまった。
またうつむいてモジモジしている美保を見て一美は面白いオモチャを見つけた子供みたいな心境になっていた。
美保の方からあんな話題を出してきたということは、たぶん気になる異性でもできたんだろう。
その相談をしたいけれど恥ずかしくてできない。
そんなところだろう。
「美保、顔が真っ赤よ? どうしたの?」
「えっと、あの……」
まだモジモジしている美保に一美は微笑みかける。
美保が誰のことを好きになったのか、気になり始めていた。
「もしかして、好きな人でもできた?」
そう尋ねると美保は耳まで真っ赤にして驚いた表情を浮かべた。
なんでわかるの!?
と、顔に書いてある。
今の流れで言うと誰でも感づくところだと思うけれど、美保は本気で驚いているようだ。
「な、なんでわかるの?」
「女の勘ってやつ?」
と、言ってみると、美保は関心したように「おぉー」と声を上げた。
本気にしているのがどうも面白くして仕方ない。
美保はおとなしすぎてあまり合わないだろうと思っていたけれど、こうして会話を続けてみるとちょっと面白いかもしれない。
「あのね、実は気になる人がいて、でもどうすればいいのかわからなくて」
小さな声で説明する美保に一美はふんふんと頷く。
大方予想通りの悩みだったみたいだ。
「それで、私にどうしてほしいの?」
「一美は恋愛慣れてそうだからアドバイスがほしくて」
「アドバイスねぇ」
と、いわれても相手が誰なのかわからないからどうしようもない。
社内恋愛なのかそうじゃないのかだけで対応の仕方は違ってくるものだ。
「その相手って誰なの?」
聞くと美保は耳まで真っ赤になったままでまたうつむいてしまった。
まわりのことを気にしているようだから、相手は社内の人間かもしれない。
そこまで考えた時、一美はハッと感づくものがあってマジマジと美保を見つめた。
この会社には人気男性社員が1人だけいる。
かっこよくてスタイルもよくて、一美や美保と動機だけれどひとりだけずば抜けて昇進している人……。
まさかという気持ちで「もしかして高野さん?」と、小声で聞いてみる。
すると美保は勢いよく顔を上げて今にも泣き出しそうな顔で何度も頷いてきたのだ。
美保が高野さんを!
その衝撃に驚きを隠せず、一美はしばらく呆然としてしまう。
でもまぁ、高野を見ればどんな女子社員だって一発で落ちてしまうかもしれない。
美保も例外ではなかったというわけか。
おとなしい美保まで高野ファンになるとは思っていなかったから、ちょっと驚いてしまった。
高野、罪な奴め。
「ど、どうしてわかったの?」
美保は今にも泣き出してしまいそうな顔で聞く。
「女の勘よ」
2度めの女の勘を前にして美保は心底尊敬しているような表情を浮かべたのだった。
☆☆☆
幸い、相談相手の一美は裕之と接点があり、よく会話をするのだだそうだ。
「これから会いに行く?」
ろくに仕事もしない間からそんな風に質問されて美保はブンブンと左右に首を振った。
まずは仕事が先だ。
それを一美に伝えると真面目過ぎてつまらないと顔をしかめられてしまった。
だけどここは会社。
いくらやらなくていい休日出勤だとしても、ここまで来たのだから仕事しないとなんだか落ち着かない気持ちになってしまうのだ。
それから午前中はずっと仕事をしっぱなしだった。
隣の席の一美は最初からやる気がなくてほとんどの時間をスマホを診て過ごしていたけれど、昼休憩になったとたん立ち上がった。
「よし、じゃあ社食に行くよ」
当然のように誘われた美保は目を白黒させている。
入社してから今の今まで同期と一緒に社食を食べたことはない。
いつもひとりか、お弁当を持参してきているからだ。
今日は幸いお弁当を持ってきていなかったので、一美の誘いに乗ることができた。
「高野はいつも社食で食べてるから、今日もきっといるよ」
そうだったんだ。
いつもひとりでご飯を食べている美保には気が付かないことだった。
壁に向かって食べていて、周りの光景はあまり見ていない。
社食へ到着するとすでに社員たちでごった返していた。
大きな会社だけあって社食も広いのだけれど、その半部はすでに埋まっていそうだ。
「私A定食にするけど、美保は?」
「私も同じものを……」
こうして人を合わせるのはなんとなくの癖だった。
同じものを頼んだ方が同じタイミングで料理が運ばれてくるというのを、子供の頃家族で行ったファミレスで教えてもらった。
「美保はもう少し個性を出してもいいと思うよ?」
一美にそう指摘されたのはA定食が運ばれてきてからだった。
白米とおみそしるとつけものとサラダと焼き魚。
なんだかホッとする味だ。
お味噌汁を飲んでほんわりした気持ちになっている美保へ向けて「ねぇ、聞いてる?」と、一美。
美保は慌てて「き、聞いてるよ」と返事をした。
社食は賑わっていて正直一美の声も聞き取りにくいくらいだ。
少し大きな声で会話しなきゃいけないから、恋愛相談はここではできなさそうだと諦めていたところだった。
「美保は可愛いのに地味すぎてパッとしないんだよねぇ」
「あ、ありがとう」
「いや、あんまり褒めてないし」
可愛いと言われたことでどうしても舞い上がってしまう。
1日に2度も可愛いと言われたことなんてほとんどない。
一美っていい人なんだなぁ。
「メークとヘアスタイルで印象変わるはずだよ?」
「そ、そうなんだ」
そう言われても美保にはまだピンとこない。
だって可愛いなんて言葉が自分のために存在しているとは思っていないから。
ずずずっとお味噌汁を飲み干してホッとため息を吐くと一美には呆れたため息を吐き出されてしまった。
それから定食を食べ進めていると足音が近づいてきて隣に誰かが座っていた。
誰だろうと顔をあげた瞬間……美保の思考がストップしていた。
「ここ、いい?」
と、美保の右側に座ったのはなんと裕之だったのだ。
遠くから見るだけで満足して、なんとなく好きなのかなぁと気になっていた人が今隣にいる!
その瞬間美保の心臓がドクンッと跳ねた。
続けてドクドクドクと通常の倍の早さで血液を贈り始める。
おかげでちょっと呼吸が苦しいくらいだ。
「どうぞどうぞ」
と答えたのは一美で、美保へ向けてウインクしてみせる。
いやいや、いきなりこの状況は恥ずかしすぎる!
今まで普通に食べていたA定食が途端に喉を通らなくなってしまう。
緊張で喉が狭まっているのが自分でもわかった。
「A定食おいしいですよね」
一美は裕之も同じA定食を運んできたのを見てそう声をかけた。
だけど肝心の美保はそんなことには気が付かなかったし、反応もできなかった。
「うん。焼き魚が好きなんだよね」
派手な見た目に反して日本食が大好きなんだと裕之は笑う。
一美はギャップがいいですねぇ、と何を言っても褒める。
美保はそんなふたりの会話のピンポンを視線で追いかけて頷くだけ。
それでも心の中は満足していた。
裕之と一緒に昼食を食べることができるなんて、思ってもいない大進歩だ!
「じゃ、私達先に失礼します」
先に食べ終えた一美と美保が立ち上がると、裕之は笑顔を返してくれた。
あぁ、まさに天使の笑顔!
舞い上がるような気持ちで社食を出た美保は大きく息を吐き出した。
満足感のあるため息だ。
今でもまだ心臓はドキドキしているし、普段よりも随分体温が高くなっている。
「会話ができてよかったね」
「うん! 一美のおかげだよ、ありがとう」
「なに言ってるの。さっきのは偶然高野が座ってきたからだよ」
と、一美は苦笑いを浮かべている。
そうだとしても、隣に裕之が座っても美保ならきっとなにも話せずに終わっている。
一美がいてくれたからこそ、裕之に嫌な顔をさせることもなく済んだんだ。
一美に相談して正解だった。
美保は心からそう思ったのだった。
スマホのアラームがピピピッと面白くもない電子音を鳴らしている。
右手を伸ばして枕元のスマホを手に取り、無意識にアラームを止めた。
ここからあと5分眠るのがいつもの美保だった。
この5分間のうたた寝が最高に気持ちいいのだから。
ほどなくうつらうつたしはじめたとき、不意に脳裏に死神の顔が蘇ってきた。
病的に白い肌。
整った顔立ち。
心残りがないと言ったときの困り顔。
思い出してプッと笑う。
死神でもあんな顔するんだ。
「変な夢見たせいで今日は二度寝できないかも」
そうつぶやいて目を開ける。
そこにはあいかわらずの見慣れた天井が広がっていて大きくあくをする。
そして昨日が金曜日だったことを思い出した。
つまり今日は土曜日。
「会社休みじゃん」
普段は休みの前日にアラームを消しておくのだけれど、時々こうして忘れてしまう。
でも土曜日で間違いないはずだ。
それなら心置きなく眠れそう。
そう考えて頭まで布団をかぶった、そのときだった。
「今日は会社へ行け」
そんな声が聞こえてきて美保の意識は一気に覚醒した。
今の声、なに?
ここは美保のアパートで、ついでに言うと女性専用アパートで、当然美保は男なんて連れ込んでいないわけで……。
じゃあ、今の男の声は誰のもの?
布団の中でサーッと血の気が引いていく。
このまま貧血になって気絶してしまうんじゃないかと不安になったとき、強引に掛け布団がめくられていた。
突然布団がなくなった驚きと、目の前に出現した死神に驚いて美保は固まってしまう。
「せっかく時間を戻したんだ。早く会社へ行け」
え、あれ。
死神?
ってことはあれは夢じゃなくて現実だった?
混乱する頭で死神をじーっと見つめると、怪訝そうな顔をされてしまった。
「で、でも今日は土曜日だし」
「そう思って会社には出勤するように細工しておいた」
そう言って死神が大鎌を見せてきた。
そこに写っていたのは会社へ向かっている同僚たちの姿だった。
『今週休みなしとかほんと疲れる』
『その代わりボーナスはずんでもらおうぜ』
なんて音声まで聞こえてきて美保は勢いよく起き上がった。
「せっかく時間を戻したのに無駄に使ったら意味がないだろ?」
「ってことは、今日も明日も?」
「仕事だ」
そんなぁ!!
美保は頭を抱えて叫びたくなるのをグッと我慢したのだった。
☆☆☆
死神がどんな力を使ったのかわからないけれど、定時退社休日はちゃんと休みが取れるホワイト企業が、今週の土日は出勤になってしまった。
しかも一週間前に戻っているから、土日出勤で同じ仕事をするということだ。
なんだか損をした気分になっているのは自分だけだろうか。
モヤモヤとした気分のまま着替えをして駅へ向かう。
土曜日ということで電車が混み合っていないのがせめてもの救いだ。
普段と違ってゆったりと椅子に座って揺られながら会社へ向かう。
中には美保と同じように休日出勤の会社員たちもいるようで、みんな疲れた顔をして車窓から景色を見つめていた。
毎週休日出勤をしているとああなってくるのかな。
なんて恐ろしいことを考えている間にあっという間に目的の駅に到着してしまった。
渋々下車して会社へ向かっていると、あの交差点が見えていた。
自分が死んだ交差点を直視することができず、美保は早足で通り過ぎた。
少し行けば歩道橋があるから、そこを渡ればいい。
そう、元々そうしていれば交通事故に遭って死ぬようなこともなかったのだ。
ぼーっとしているくせに横断歩道を歩くから。
なんて自虐的な思考を繰り広げていると、歩道橋の階段で躓いてこけそうになってしまった。
どうにか出勤してきた美保を出迎えてくれたのは隣の席の平田一美だった。
一美も美保と同じ大学出身で、入社してからもずっと同じ部署で仕事をしている。
一美はオシャレで垢抜けているから大学時代にはあまり一緒にいた経験が無いけれど、社会人になってこうして仕事をしはじめてからはよく会話するようになっていた。
「美保おはよ。休日出勤なんて珍しいよねぇ」
デスクの上に手鏡を広げてリップを直しながら言う。
「本当だね。明日も出勤なんだっけ?」
一応質問するよ「そうだよ」と、肯定されてためいきが出た。
ごめん。
それもこれも私のせいです。
という言葉を飲み込んで周囲を見回す。
みんないつも通りに仕事をしているように見える。
私と同じように一週間前から戻ってきた人はいなさそうだ。
それからは美保も普段どおりに仕事を開始した。
1度やっている仕事だからどんどん進む。
なにも問題なく進む。
そしてあっという間に昼休憩の時間になって、はたとパソコンから顔を上げた。
仕事に熱中していたせいで忘れていたけれど、これって普通に仕事してるだけじゃダメなんだよね?
憧れの裕之に告白しなきゃダメなんだよね?
と、思っても誰にも相談はできない。
とりあえず普段と違う行動をとるべく、美保は社員食堂へ向かった。
途中で立ち寄ったコンビニでおにぎりとお茶を買っている美保は普段は自分のデスクでご飯を食べる。
だけどそれでは裕之に会うことがないと気がついたのだ。
せっかく死神が用意してくれた時間なのだから、ちょっとは自分から行動しなきゃという気持ちで食堂のドアを開けた。
そこにはすでに数人の社員たちがいて、談笑しながらご飯を食べている。
美保は一番日当たりのいい席に座ってコンビニの袋からおにぎりを取り出した。
今日買ってきたのはシャケとこんぶのおにぎりだ。
口いっぱいに頬張るとのりの旨味が広がる。
ううん。
最近のコンビニおにぎりってのりにしっかり味がついてておいしいんだよねぇ。
特にA社のおにぎりが最高!
なんて思いながら食べているとどんどん社員たちが集まってきて、どんどん居場所がなくなってきた。
さ、そろそろ部署に戻ろうかな。
4人席しかない食堂で1人で座っている美保は、どう考えても自分が邪魔をしている気分になってそそくさと立ち上がる。
一応少駆動内をグルリと見回してみて裕之がいないかどうかの確認はしておく。
残念だけど今日はここにいないみたいだ。
仕事が忙しい人だし、もしかしたら部署で食べているのかもしれない。
それか、上司に誘われて外に食べて行っているのかも。
食堂を出るときにゴミを捨ててペットボトルに残ったお茶を手に持ったときだった。
聞き慣れた声が聞こえてきて視線を向けると、そこに裕之の姿があった。
裕之は仲間数人と一緒に談笑しながら食堂へ入ってくると、そのままカウンターへ向かって注文をしはじめた。
いた……!!
お目当の人を見つけたことで美保の体温が急上昇していく。
やっぱり食堂を使ってたんだ!
予想が当たっていたこと、普段はしない行動を起こせたことで胸の中がいっぱいになる。
よかった。
これで一歩前進できたかな!?
☆☆☆
「で?」
会社からアパートへ戻ってくると死神が出迎えてくれたので、美保は今日の成果をゆうゆうとして話して聞かせた。
「高野さんを見ることができたの!」
目を輝かせて自信満々に言う美保を目の前にして死神はなぜか呆れ顔だ。
どこか怒っているようにも見える。
「それだけ?」
「それだけってことはないでしょう? 同じ会社にいたって、会えない日もあるんだから」
美保がプリプリして言い返すと、盛大なため息をつかれてしまった。
なにかそんなに変なことを言っているだろうかと首をかしげていると、死神の目がつり上がった。
「そんなんで告白できる日が来るのか!?」
「そ、それは……」
わからない。
そもそも好きとかもよくわからない。
ただ、憧れていることは確かかもしれない。
死神に怒られてシュンッと落ち込んでいると盛大なため息をつかれてしまった。
あぁ、私は死んでまで誰かに迷惑をかけている。
そう思うと本当に死にたくなってきてしまって「願いとかないので、もう連れて行ってください」と、涙目になって訴えかけた。
死神はギロリと美保を睨みつけたかと思うと「もう時間を戻して小細工までした。このタイミングでお前を連れて行くわけにもいかなくなったんだ」
「ご、ごめんなさい」
もうあやまることしかできない。
そもそも自分はそんなに悪いことをしただろうかと思うけれど、怒っている人を見ると咄嗟に謝ってしまうのは美保の癖だ。
「仕方ない。明日も頑張ってもらうしかないな」
「はぁ……」
曖昧に頷いたのは明日は日曜日なのに出勤になってしまったからだ。
「なんだ、どうしてお前に元気がないんだ。さっきまで憧れの人を見ることができたと騒いでいたくせに」
それはそれで嬉しかったけれど、その喜びをかき消したのは死神だ。
でも、もちろん口が裂けてもそんなことは言えない。
「明日が出勤になってもきっとほとんどなにも変わらないと思います……」
しぶしぶそう答えるとまた睨まられた。
どうやら死神は美保の性格をあまり好きではないみたいだ。
美保のほうもすぐに怒ったり睨んでくる相手は苦手だ。
「お前はもっと自分のために頑張ることができないのか」
「頑張るって言われても……」
恋愛に関しては初心者すぎてなにをどう頑張ればいいかわからない。
映画やドラマの世界であればなんとなく先が読めていい展開になることはわかるけれど、いざ自分が主人公になると思ってみても、とても主人公になれるとは思えない。
「わかった。それなら俺が助言してやろう」
「助言、ですか?」
死神からの助言なんてそんな恐ろしいものいらない。
が、いらないとも言えずに黙り込む。
「お前、相談相手はいるか?」
「相談相手?」
以外な質問にまばたきを繰り返す。
「恋愛相談できる相手だよ。そいつに相談して助言してもらえ」
死神が助言してくれるのではなかったのかと思ったが、そこは突っ込まないでおいた。
恋愛上手な子からの助言なら、たしかに役立つかもしれない。
「それはまぁ……ひとりくらいは」
「ひとりかよ!」
激しく突っ込まれたが、死神はすぐに気を取り直して「まぁひとりいれば十分か」と、言い直した。
なんだか友人が少ないと言われた気がしなくもないけれど、事実だから仕方ない。
「そいつに恋愛について助言してもらえ。それを実行しろ」
「はぁ……」
それを実行しろと簡単に言われても、実行することが一番難しいのに。
それでも文句を言うことをできずに美保は頷くだけだったのだった。
☆☆☆
美保の中で恋愛の相談相手と言えば隣の席の一美だった。
一美は学生時代から美人で有名で、ミスなんちゃらという学校イベントに選ばれたこともある。
そんな一美には色恋沙汰の話が絶えず、経験も豊富そうなことは知っていた。
「おはよう一美」
翌日の日曜日、休日連続出勤を余儀なくされた一美はひどく不機嫌そうで、でも声をかけないわけにもいかなくて美保は小声でそう言った。
「あぁ、おはよう」
ムスッとした表情でパソコン画面を睨みつけているが、画面はまだ立ち上がってきていない。
そもそも電源ボタンを押していないみたいだ。
「一美、電源入ってないよ」
「あ、そう」
それでも電源を入れようとしない一美は本当にご立腹みたいだ。
なんだかごめんなさい。
全部私のせいで。
そんな気持ちで自分のパソコンを立ち上げる。
せめて一美に迷惑にならないよう、自分の仕事はちゃんとしよう。
「あのさ、一美って今日予定があったの?」
「もちろんよ。日曜日はデートに決まってるでしょう?」
躊躇なく答える一美はさすがだと思う。
美保の日曜日は大抵恋愛映画を見てダラダラ過ごしているから、デートと聞いて心臓がドクンッと跳ねた。
「そ、そっかぁ。彼氏いい人なの?」
そう言えば一美に彼氏とか恋愛とかの話を聞いたことがないと思い出す。
入社してから会話するようになったと言っても、ほとんどが仕事に関することばかりだ。
そんな美保から彼氏についての質問をされたので、一美も驚いた顔をしている。
「いい人よ。カッコイイし」
一美の頬が緩むのを見て、本当に好きなんだなぁと思う。
自分もそんな風に誰かに恋をしてみたかった。
いや、一応は裕之に恋しているのかもしれないけれど。
「美保は? 彼氏いるの?」
その質問に美保はうつむいて左右に首を振った。
「そっかぁ。美保、可愛いのにね」
それがお世辞とは思わずに美保はパッと顔を上げた。
かわいいなんて言われたのは何年ぶりだろう。
小学校の頃、親戚の人に言われたのが最後かもしれない。
思わず頬を染めて喜んでしまった美保を見て一美がプッと吹き出して笑うのをこらえている。
「で? なんで急にそんな話しをしてきたの?」
色恋沙汰の話をしたことなんてない美保が自分から仕事以外の話題をふっかけてきたことで、すぐになにかあったのだと感づかれてしまった。
「実は……」
と、言いかけて美保は口を閉じる。
恋愛経験ゼロの美保は人に恋愛相談した経験もゼロだったことに気がついたのだ。
これから一美に自分の好き……かもしれない人について説明するのだと思うと、急に緊張してきてしまった。
またうつむいてモジモジしている美保を見て一美は面白いオモチャを見つけた子供みたいな心境になっていた。
美保の方からあんな話題を出してきたということは、たぶん気になる異性でもできたんだろう。
その相談をしたいけれど恥ずかしくてできない。
そんなところだろう。
「美保、顔が真っ赤よ? どうしたの?」
「えっと、あの……」
まだモジモジしている美保に一美は微笑みかける。
美保が誰のことを好きになったのか、気になり始めていた。
「もしかして、好きな人でもできた?」
そう尋ねると美保は耳まで真っ赤にして驚いた表情を浮かべた。
なんでわかるの!?
と、顔に書いてある。
今の流れで言うと誰でも感づくところだと思うけれど、美保は本気で驚いているようだ。
「な、なんでわかるの?」
「女の勘ってやつ?」
と、言ってみると、美保は関心したように「おぉー」と声を上げた。
本気にしているのがどうも面白くして仕方ない。
美保はおとなしすぎてあまり合わないだろうと思っていたけれど、こうして会話を続けてみるとちょっと面白いかもしれない。
「あのね、実は気になる人がいて、でもどうすればいいのかわからなくて」
小さな声で説明する美保に一美はふんふんと頷く。
大方予想通りの悩みだったみたいだ。
「それで、私にどうしてほしいの?」
「一美は恋愛慣れてそうだからアドバイスがほしくて」
「アドバイスねぇ」
と、いわれても相手が誰なのかわからないからどうしようもない。
社内恋愛なのかそうじゃないのかだけで対応の仕方は違ってくるものだ。
「その相手って誰なの?」
聞くと美保は耳まで真っ赤になったままでまたうつむいてしまった。
まわりのことを気にしているようだから、相手は社内の人間かもしれない。
そこまで考えた時、一美はハッと感づくものがあってマジマジと美保を見つめた。
この会社には人気男性社員が1人だけいる。
かっこよくてスタイルもよくて、一美や美保と動機だけれどひとりだけずば抜けて昇進している人……。
まさかという気持ちで「もしかして高野さん?」と、小声で聞いてみる。
すると美保は勢いよく顔を上げて今にも泣き出しそうな顔で何度も頷いてきたのだ。
美保が高野さんを!
その衝撃に驚きを隠せず、一美はしばらく呆然としてしまう。
でもまぁ、高野を見ればどんな女子社員だって一発で落ちてしまうかもしれない。
美保も例外ではなかったというわけか。
おとなしい美保まで高野ファンになるとは思っていなかったから、ちょっと驚いてしまった。
高野、罪な奴め。
「ど、どうしてわかったの?」
美保は今にも泣き出してしまいそうな顔で聞く。
「女の勘よ」
2度めの女の勘を前にして美保は心底尊敬しているような表情を浮かべたのだった。
☆☆☆
幸い、相談相手の一美は裕之と接点があり、よく会話をするのだだそうだ。
「これから会いに行く?」
ろくに仕事もしない間からそんな風に質問されて美保はブンブンと左右に首を振った。
まずは仕事が先だ。
それを一美に伝えると真面目過ぎてつまらないと顔をしかめられてしまった。
だけどここは会社。
いくらやらなくていい休日出勤だとしても、ここまで来たのだから仕事しないとなんだか落ち着かない気持ちになってしまうのだ。
それから午前中はずっと仕事をしっぱなしだった。
隣の席の一美は最初からやる気がなくてほとんどの時間をスマホを診て過ごしていたけれど、昼休憩になったとたん立ち上がった。
「よし、じゃあ社食に行くよ」
当然のように誘われた美保は目を白黒させている。
入社してから今の今まで同期と一緒に社食を食べたことはない。
いつもひとりか、お弁当を持参してきているからだ。
今日は幸いお弁当を持ってきていなかったので、一美の誘いに乗ることができた。
「高野はいつも社食で食べてるから、今日もきっといるよ」
そうだったんだ。
いつもひとりでご飯を食べている美保には気が付かないことだった。
壁に向かって食べていて、周りの光景はあまり見ていない。
社食へ到着するとすでに社員たちでごった返していた。
大きな会社だけあって社食も広いのだけれど、その半部はすでに埋まっていそうだ。
「私A定食にするけど、美保は?」
「私も同じものを……」
こうして人を合わせるのはなんとなくの癖だった。
同じものを頼んだ方が同じタイミングで料理が運ばれてくるというのを、子供の頃家族で行ったファミレスで教えてもらった。
「美保はもう少し個性を出してもいいと思うよ?」
一美にそう指摘されたのはA定食が運ばれてきてからだった。
白米とおみそしるとつけものとサラダと焼き魚。
なんだかホッとする味だ。
お味噌汁を飲んでほんわりした気持ちになっている美保へ向けて「ねぇ、聞いてる?」と、一美。
美保は慌てて「き、聞いてるよ」と返事をした。
社食は賑わっていて正直一美の声も聞き取りにくいくらいだ。
少し大きな声で会話しなきゃいけないから、恋愛相談はここではできなさそうだと諦めていたところだった。
「美保は可愛いのに地味すぎてパッとしないんだよねぇ」
「あ、ありがとう」
「いや、あんまり褒めてないし」
可愛いと言われたことでどうしても舞い上がってしまう。
1日に2度も可愛いと言われたことなんてほとんどない。
一美っていい人なんだなぁ。
「メークとヘアスタイルで印象変わるはずだよ?」
「そ、そうなんだ」
そう言われても美保にはまだピンとこない。
だって可愛いなんて言葉が自分のために存在しているとは思っていないから。
ずずずっとお味噌汁を飲み干してホッとため息を吐くと一美には呆れたため息を吐き出されてしまった。
それから定食を食べ進めていると足音が近づいてきて隣に誰かが座っていた。
誰だろうと顔をあげた瞬間……美保の思考がストップしていた。
「ここ、いい?」
と、美保の右側に座ったのはなんと裕之だったのだ。
遠くから見るだけで満足して、なんとなく好きなのかなぁと気になっていた人が今隣にいる!
その瞬間美保の心臓がドクンッと跳ねた。
続けてドクドクドクと通常の倍の早さで血液を贈り始める。
おかげでちょっと呼吸が苦しいくらいだ。
「どうぞどうぞ」
と答えたのは一美で、美保へ向けてウインクしてみせる。
いやいや、いきなりこの状況は恥ずかしすぎる!
今まで普通に食べていたA定食が途端に喉を通らなくなってしまう。
緊張で喉が狭まっているのが自分でもわかった。
「A定食おいしいですよね」
一美は裕之も同じA定食を運んできたのを見てそう声をかけた。
だけど肝心の美保はそんなことには気が付かなかったし、反応もできなかった。
「うん。焼き魚が好きなんだよね」
派手な見た目に反して日本食が大好きなんだと裕之は笑う。
一美はギャップがいいですねぇ、と何を言っても褒める。
美保はそんなふたりの会話のピンポンを視線で追いかけて頷くだけ。
それでも心の中は満足していた。
裕之と一緒に昼食を食べることができるなんて、思ってもいない大進歩だ!
「じゃ、私達先に失礼します」
先に食べ終えた一美と美保が立ち上がると、裕之は笑顔を返してくれた。
あぁ、まさに天使の笑顔!
舞い上がるような気持ちで社食を出た美保は大きく息を吐き出した。
満足感のあるため息だ。
今でもまだ心臓はドキドキしているし、普段よりも随分体温が高くなっている。
「会話ができてよかったね」
「うん! 一美のおかげだよ、ありがとう」
「なに言ってるの。さっきのは偶然高野が座ってきたからだよ」
と、一美は苦笑いを浮かべている。
そうだとしても、隣に裕之が座っても美保ならきっとなにも話せずに終わっている。
一美がいてくれたからこそ、裕之に嫌な顔をさせることもなく済んだんだ。
一美に相談して正解だった。
美保は心からそう思ったのだった。
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