自殺教室

西羽咲 花月

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交通事故

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6月2日。
この日奈穂はいつもどおり8時に家を出て歩いて安岡中学校へ向かっていた。

通学路を歩いていると同じ制服姿の男女が次々と通り越していく。
自転車に乗った女子生徒が「奈穂、そんなにのんびり歩いてたら遅刻するよ」と、声をかけていく。

だけど奈穂は朝の散歩気分で学校まで行くのが好きだった。
今年はまだ梅雨入りしていなくて、丁度いい気温が心地よかった。

もう少しすれば梅雨に入ってのんびり散歩なんてできないだろうし、梅雨が開ければ猛暑が始まる。
こうしてのんびり歩けるのはあと少しだった。

道の花々を見ながら学校へ向かっていると、本当に遅刻しそうになってしまって最後の方は小走りだった。
校門前で待機している先生に挨拶をして一気に校舎へ駆け込んだ。

校舎の中はムッとした空気が漂っていて、その中には香水の匂いや食べ物の匂いが混ざり合っている。
そんな中2階にある2年B組の教室へと急いだ。

教室に入ると窓が前回に開け放たれていて、ほぼ密室状態の廊下よりもずっと呼吸がしやすかった。

「奈穂、セーフ」


後ろの席の友人が笑いながら声をかけてくるので、奈穂は同じように笑っておいた。
明日からはもう少し早くこなきゃな。

そう思ってカバンを机の横にひっかけたタイミングで担任の男性教師が入ってきた。
その表情は普段よりも険しくて、自然と教室内に緊張感が走った。

なにかあったのだろうということは、その雰囲気ですぐに伝わってくる。
先生は朝の挨拶もそこそに、神妙な面持ちで教室内を見回した。


「もう連絡が言っている生徒もいると思うが、昨日の放課後天野が交通事故に遭った」


その説明に奈穂は目を見開いた。
今、初めて知った情報だった。

千秋と仲が良かった数人の生徒たちへ視線を向けると、彼女たちはうつむいたり目元にハンカチを当てたりしている。


「静かに」


突然の事故の報告にざわめく教室内を鎮めるために、先生が声を張る。
それで教室内はすぐに静かになった。


「天野は今入院中だ。みんなも、気をつけるように」


どこでどうやって事故に遭ったのか。
その詳細を聞きたかったけれど、ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴り始めた。

それでもこの日1日は千秋の事故のことでB組の話題はもちきちだった。


「事故に遭ったのは大きな交差点だったらしいよ」

「なぜか上履きで歩いてたんだって。事故の後に残されてたのを見た子がいるんだって」


そんな、本当か嘘かもわからない噂が飛び交っている。
奈穂も千秋と仲が良かった子たちに話を聞いてみたかったが、さすがに彼女たちはそんな雰囲気ではなかった。

千秋の事故を噂のタネにしてほしくないと、しかめっ面を浮かべている。
奈穂も、自分の友だちが事故に遭ってそれを噂にされたらとても嫌な気持ちになる。

だから、なにも聞くことはできなかったのだった。


☆☆☆

そして、現在。
日付が代わって6月3日になっていた。


「千秋って交通事故に遭ってまだ入院中のはずだよね?」


奈穂の言葉に珠美が頷いた。


「そうだよね。昨日のホームルームで聞いてびっくりした」

「今のこの状況は千秋が犯人ってことか?」


一浩の言葉に奈穂と珠美が視線を向ける。
いつの間にか一浩は立ち上がり、腕を組んで黒板を睨みつけていた。


「今、千秋は入院中って言ったでしょう? 入院中の人がどうやってこんなことをするの?」


奈穂は呆れ顔だ。
入院中じゃなくても、こんな手の込んだことが簡単にできるとは思えない。


「じゃあなんであいつの名前が黒板に書かれたんだよ」

「それは……」


わからない。
奈穂は途中で言葉を切って首を傾げた。
一浩からの射るような視線を感じてうつむく。


「例えばさ」


奈穂に助け舟を出すように口を挟んだのは豊だった。
全員の視線が豊へ向かう。


「千秋はすでに死んでいて、その復讐でここに閉じ込められたとか」


『復讐』という言葉に奈穂は眉間にシワを寄せる。
千秋から復讐される覚えはないし、そんなことをした覚えもない。


「復讐ってなに?」


珠美の声が震えている。
もしかしてなにか心辺りでもあるんだろうかと奈穂が顔を向けるが、珠美はただ今の状況を怖がっているだけみたいだ。


「なにが復讐だよ。バカなこと言うなよ!」


一浩が豊へ向けて怒鳴る。


「可能性を考えただけだろ? なんでそんなに怒るんだよ」

「そもそも千秋はまだ死んでない。復讐でこんなことできるわけねぇだろ!」


男子同士の激しい言い争いに耳を塞いでしまいそうになる。
奈穂は勇気を振り絞ったふたりの間に割って入った。


「今喧嘩をしている場合じゃないでしょ!?」


こんな狭い教室内で言い争いなんてされてはたまらない。
雰囲気が悪くなる一方で、助けが来るまでに疲弊してしまいそうだ。


「そ、そうだよ。みんなで考えなきゃ」


珠美が奈穂の後ろに回り込んで二人を説得する。
すると豊が大きく深呼吸をして心を落ち着けた。


「そうだな。こんなところで喧嘩したって外に出られるわけじゃない」


ようやく落ち着いてくれたようで、二人共距離を置いた。
奈穂はホッと胸をなでおろす。

でも……と、視線を黒板へ向けた。
黒板に千秋の名前が書かれたことは事実だ。

千秋が今回のことになにか関係しているからだろう。


「もしかして、どこかで見てるのかも」


ふと、奈穂はそう呟いていた。


「見てるって?」


珠美が首を傾げて聞いてくる。


奈穂は昔みたことのある監禁系のホラー映画の内容を思い出していた。

その映画の中では主人公たち数人が狭い部屋に閉じ込められて殺し合いをさせられるという内容だったのだが、殺し合いの内容はすべて犯人に見られていたのだ。

この教室のどこかにもカメラがあって、誰かが……いや、千秋が見ているのかもしれない。


「千秋は死んでないけど、なにか目的があってここに私達を監禁したのかもしれない」


奈穂がホラー映画の内容を全員に伝えると、重苦しい空気がのしかかってきた。
その映画で選ばれた人たちは無作為だった。

だから今回の私たちもクラスメートというだけで選ばれたのかも知れない。
そうだとすれば、すべて納得がいく。


「どこかにカメラがって千秋が見ているなら、声をかければ助けてくれるかもしれない」


珠美が期待に満ちた目を輝かせる。
奈穂は大きく頷いた。

そのとおりだ。
これは現実で起こっていることで、映画の中のお話とは違う。


千秋が見ているのだとすれば、その情に訴えかけることができるかもしれない。


「カメラはどこにあるんだろう?」

「わからないよ。だけどきっとあちこちにあって、私達の反応を見ているはず」


奈穂と珠美はカメラを探し始める。
けれどそれは簡単に見つけられるようなものではなかった。

超小型で高性能なカメラはいくらだって存在している。
教室の隠し場所は無限大だ。


「お願い千秋、こんなことやめて! 私達を解放して!」


奈穂は天井へ向けてそう声をかけた。
きっと、天井付近にもカメラは設置されていて、教室全体を写していると思ったからだ。


「そうだよ千秋。今なら誰にも言わずにいてあげるから!」


珠美も声を張り上げる。
少し待って反応を伺ってみるけれど、外からの異変は感じられなかった。

試しに豊がドアを開けてみようとするが、やはりびくともしない。


「千秋、聞いているんでしょう!?」


奈穂の声が虚しく響く。


「ダメ。全然反応がない」


奈穂と珠美でしばらく声をかけ続けてみたけれど、それは無駄に終わった。
そもそも、本当にカメラが設置されているかどうかもわからない。

ふたりは力なく椅子に座り込んで息を吐き出した。
窓の外はまだ真っ暗で、夜明けまでに時間がある。

ここに人が来るまでに何時間もある。


「無駄な体力は使わない方がいいかもしれないな」


そう言ったのは一浩だった。
一浩はさっきから床に這いつくばってなにかをしていた。

大きな音もしていたから、気にはなっていたのだ。
奈穂が近づいてみると、一浩は床板を一枚剥がしているのが見えた。

さっきのナイフを使って起用に剥がしたようで、そのため大きな音もしていたみたいだ。
しかし、剥がれた床板の下にはなにもなかった。

普通、そこには1階の教室の天井が存在しているはずなのに、真っ暗な闇が広がっている。


「なにこれ……」


奈穂は全身がゾクリと寒くなるのを覚えて自分の体を両手で抱きしめた。
剥がされた床の下はすべてを飲み込んでしまいそうな闇。

その中に手を突っ込めば、たちまち引きずり込まれてしまいそうだった。
こころなしか、冷たい空気が流れ出て来ているようにも感じられる。


「なんだよこれ。こんなのありえない!」

「嘘でしょ……」


異変に気がついた豊と珠美が近づいてきて、床下の闇を見て顔をしかめている。


「きっと、窓やドアが開いてもこれと同じことになってんだろうな」


一浩がナイフを放り投げて呟く。
もしそうだとすれば、ここは現実世界ではないのかもしれない。

こんな、吸い込まれてしまいそうな闇、現実世界には存在していない。
まるで、ブラックホールだ。


「そこをすぐに閉じよう」


誰から手を差し入れてしまう前にと、豊が剥がされた床板を元に戻す。
闇が見えなくなったことで奈穂はホッと息を吐き出した。

気がつけば一浩が放り投げたナイフは教卓の上に戻っていた。
いつ、誰が戻したかなんてわからない。

だけどもうこの空間が普通ではないことはわかってしまった。
つまり、なにがおきてもおかしくないということだ。

奈穂はゴクリと唾を飲み込む。
時計に視線を向けると、午前4時になっている。


ここに誰かがやってくるのを待つとしても、やけに時計の進みが遅い気がする。
目が覚めてからまだ1時間しか経っていないなんて、嘘だ。


「千秋について、考えてみようか」


そう言ったのは豊だった。
豊は自分の席に座り、疲れ切った表情を浮かべている。

奈穂と珠美も同じくらい疲れ切っていた。
みんながなんとなく自分の席に座ってから、豊はまた口を開いた。


「千秋が事故に遭ったのは6月2日の放課後。帰りの途中だったよな」


奈穂は頷く。
先生から聞いた話ではそうだったはずだ。


「車に轢かれたって言ってたよね」


珠美が声を震わせながらも参加する。
そう、それも聞いた。


「それじゃ、犯人を憎んでるってことじゃねぇのか?」


一浩の発言には全員が首を傾げた。


確かに事故に遭って一番に恨む相手は犯人、つまり今回では運転手ということになる。


「運転手は逃げていないし、ちゃんと警察を救急車を呼んだよね」


奈穂が、夕方のニュース番組で見た情報を口にした。
学校では情報収集ができなかったけれど、地方ニュースになっていたのだ。

そこで犯人についても説明されていた。
免許を取ったばかりの大学生で、前方不注意だったそうだ。


「そうだよね。もし千秋が犯人を憎んでいるなら、その犯人がここにいなきゃおかしいもん」


珠美が言う。
これが千秋の復讐劇だったとすれば、一番憎まれているのはその大学生だ。

免許すら持っていない自分たちは関係ない。


「じゃあ、これは千秋の復讐じゃないのかもしれないよね」


奈穂が他の可能性を考える。
けれど、千秋が関係していることで思い当たることはなにもなかった。

少なくても自分は千秋に復讐されるようなことはしてないはずだ。


「千秋、もし見てるなら答えて! 私達はどうしてここに連れてこられたの!?」


奈穂が誰もいない空間へ向けて声をかける。


しばらく待ってみるけれど、返答はない。
静かな教室内で、4人分の息遣いだけが聞こえてくる。

やっぱり、ダメか……。
これじゃいつまで経ってもなにもすればいいのかわからないままだ。

そう思って落胆しかけたときだった。
カッ。

小さな音が聞こえてきて4人はハッと息を飲んだ。
音が聞こえてきた黒板へ視線を向けると、折れたチョークが再び勝手に動き始めていたのだ。

珠美が青ざめて身を引く。
けれどその目は黒板に釘付けになって離れなかった。

チョークはカッカッと音を立てて一文字すつ言葉を書いていく。


「私への態度」


奈穂が書かれた文字を読み上げると、チョークはまた突然力をなくしたように落下した。
4人は絶句して黒板を見つめる。

天野千秋。
私への態度。

そう書かれていた文字がまるでの呪いのように4人の体に絡みついてきた。
でも、千秋はヒントをくれたのだ。

これを無駄にしてはいけない。
奈穂はどうにか恐怖心を押し殺してゴクリと唾を飲み込んだ。


「千秋への態度」


奈穂の声が震える。
全身に嫌な汗をかいて心臓が早鐘を打っている。

でも、ここで止まるわけにはいかなくて、全員の顔を見回した。
その中でただ1人、一浩が動揺を見せた。

顔を伏せて体を小さく震わせている。
この中では一番派手で負けん気の強い一浩では考えられない態度だった。


「一浩、どうしたの?」


奈穂が冷静な声で質問する。
しかし一浩は顔を上げずに「なんでも……」と、左右に首を振っただけだった。

だけどもうわかっていた。
この4人の中で一浩だけは千秋に復讐される存在だと、みんながわかっていた。

今更ごまかしたって遅い。


「一浩は千秋をイジメてた」


そう発言したのは珠美だった。
珠美はまだ青い顔をしているけれど、しっかりと一浩を見ていた。

その目は鋭く釣り上がり、まるで憎んでいるかのようだ。


「違う、俺は……!」


咄嗟に言い訳をしようとするけれど、続かない。
一浩が千秋をイジメていたことは事実だから、なにも言えないのだ。


「私も一浩が千秋をイジメているのは見たことがあるよ。だけどわからないことがあったの」


奈穂が一浩へ近づく。


「どうして千秋のことをイジメはじめたの?」


それは何度か目撃したイジメの中で最も疑問に感じていたことだった。
千秋は1年生の頃に学級委員を務めるような真面目な生徒で、クラス会や体育祭のときにクラスを束ねたりもしていた。

千秋の真面目すぎる面を疎ましく感じている生徒もいるようだったけれど、一浩が千秋をそんな風に疎ましく感じているようには見えなかった。

だから、一浩が千秋をイジメているのを目撃したときは、みんなが驚いたのだ。


「……確かに俺は、千秋をイジメてた」


☆☆☆

2年B組の教室内、朝のホームルームが始まるにはまだ早い時間でクラスメートたちは誰も登校してきていなかった。
そんな中、一浩が教室に一番乗りしていた。

朝の部活をしているわけでもなく、早朝から1人で勉強に励んでいるわけでもない。
そもそも一浩は勉強なんて大嫌いだった。

小学校の頃はある程度ついていけていた授業も、今はもう先生がなにを説明しているのかわからない。
それでも努力は裏切らないからと言われて頑張った時期もある。

そこで一旦成績が回復しても、サボるとすぐに元通りだ。
ずっと努力し続けることなんてできない。

息抜きの時間すら与えてくれない勉強を、どんどん嫌いになって行った。
今では成績は学年でも下から数えた方が早いし、先生からも両親からも何も期待されなくなっていた。

一浩にとってはそれが楽でもあり、少しばかり憂鬱なことでもあった。
そんな一浩が朝早くに来て一番に行ったのはカバンの中からマジックを取り出すことだった。

片手にマジックを握りしめて千秋の席へ向かう。


机はまっさらで少しの汚れもない。
几帳面で真面目な千秋のことだから、毎日掃除のときに丁寧に拭き上げているのが想像できた。

一浩はそのキレイな机にマジックでラクガキを始めた。
それも汚い、攻撃的な言葉を並べる。

とても言葉に出すことができないような言葉も、そこに書きつけた。
そして何食わぬ顔をして机に突っ伏して、千秋が来るのを待ったのだった。

登校してきた千秋の反応はそれほど大きなものじゃなかった。
自分の机を見た千秋はつらそうな表情を一瞬浮かべて、次には自分で雑巾を取りに行っていたのだ。

誰かに泣きついたり相談したりすることはなかった。
まるでこれは自分の仕事だと言わんばかりに無言で机を拭いていく。

その様子を見て一浩はますます腹が立った。
なんで泣かないんだ。

なんで誰かに相談しなんだ。


これで千秋が泣き崩れたりしていれば、まだ一浩の心はスカッとしていたはずだった。
でも千秋はそんなことはしなかった。

もしかしたら、誰かに相談することで今度はその相談相手がイジメられるかもしれないと、懸念していたのかもしれない。
そんな千秋にさらなるいらだちを覚えた一浩の行動はどんどんエスカレートしていく。

千秋がトイレに立ったすきに教室後方の千秋のロッカーを勝手に開けて体操着を切り裂いた。
体育館シューズは踏みつけてゴミ箱に捨てた。

その様子を何人かのクラスメートたちが見ていたけれど、誰もなにも言わなかった。
苛立っている一浩が怖かったし、なにより千秋に助けを求められていないことが大きかった。

千秋は強い人だという認識が、クラスメートたちの感情を麻痺させてしまっていた。


☆☆☆

「どうして千秋をイジメてたの?」


もう1度、奈穂が聞いた。
すると一浩は観念したように大きく息を吐き出して「あいつ、カンニングしてたんだ」と答えた。

その目はどこかを睨みつけている。
まるでそこに憎いものがいるかのように。


「カンニング?」


首を傾げたのは珠美だった。


「千秋はもともと成績がいいから、カンニングなんてしなくても-―」


そこまで言った珠美の言葉を一浩が「だから!」と、強い声で遮った。
今度は珠美を睨みつけている。


「あいつは元々カンニングをしてたんだ! それでいい成績を収めて学級委員までしてたんだ!」


一浩の言葉に珠美と奈穂は目を見交わせた。
ふたりとも驚きの表情を顔に貼り付けている。


「なにそれ、そんなわけないじゃん」


奈穂が左右に首を振って一浩の意見を否定する。


千秋がずっとカンニングをしていたなんてとても信じられないことだったからだ。
千秋が1人で放課後残って勉強している姿を見たことだってある。

勉強熱心で、だけど遊ぶときにはしっかり遊ぶ。
千秋はそんな子だ。

だから仲間も多かった。


「本当のことだ」


一浩がいい切ったとき、奈穂の脳裏に6月1日の映像が蘇ってきた。
それは千秋が事故に遭った日だ。

その日の放課後、一浩が千秋へ向けて『カンニングしてるんだろ!』と怒鳴っているのを聞いた気がする。
すでに放課後になっていたし、奈穂は廊下に出ていたからハッキリとふたりの姿を見たわけじゃない。

だけど、怒鳴り声はまちがいなく一浩のものだった。
それに続く相手の声も聞こえてきたけれど、小さくてよく聞き取れなかった。

あの時教室に戻って様子を確認していれば……。


そう思うけれど、もう遅い。
一浩が怒鳴っているだけでめんどうだと感じて、奈穂はそのまま家に帰ってしまったのだ。


「でも、千秋がカンニングしたからってどうしてイジメたの?」


まだ半信半疑のままだったけれど、これでは話が進まないので珠美がそう質問をした。


「俺は……俺だって、ずっと勉強を頑張ってきた。でも、少しサボったらすぐに追い越される。俺はたぶん、勉強に向いてないんだ。成績はいつも悪くて、親には説教されてばっかで。そんな中千秋はいつも学年上位ですげぇなって思ってた。尊敬してたんだ」


その言葉には偽りがないのだろう。
一浩は悔しそうに下唇を噛み締めた。


「それなのに、千秋の成績は全部カンニングして得たものだったんだ! 俺がどう頑張っても手に入れられなかったものを、あいつはカンニングで手に入れてたんだ! そんなの許せるか?」


奈穂は左右に首を振った。
きっと、許せない。

自分が一浩の立場であれば、千秋を恨んでしまうかもしれない。


「だけど私はやっぱり千秋がカンニングしてたなんて信じられない」


奈穂は小さく呟いた。
一体どうしてそんな風に思い込んでしまったんだろう。
それにもきっと理由があるはずだ。


「だから俺は悪くない! 全部千秋が悪いんだ!」


感情にまかせて一浩が怒鳴ったそのときだった。
カチッと小さな音がして奈穂は教室内を見回した。

さっきまでとなにも変わった様子は見られない。
でも確かに聞こえてきた音はなんだったのか……。

グルリと確認してみると、ある違和感に気がついた。
それは時計の針だった。

ここで目が覚めたとき、確かに時計は3時になっていた。
それから1時間以上が経過しているはずなのに……その時計の針がまた3時に戻っていたのだ。


「あれ、見て!」


奈穂が立ち上がって時計を指差す。
すぐに全員の視線が時計へ向かった。

異変に気がついたのは豊だった。


「時計の針が元に戻ってる!」


咄嗟に窓の外を確認してみると、少し白みかけてきていた空が真っ暗に染まっている。


「嘘でしょ、真夜中に戻ってる!」


珠美は窓へ駆け寄り、両手で窓をドンドンと叩く。
もちろんそれはびくともしなかった。
外の景色も変わらない。


「もしかしてこれも千秋の仕業か?」


豊が誰もいない空間へ向けて呟く。
もちろん答えは帰ってこなかった。
でも、その可能性は高かった。

千秋はここに4人を監禁して、千秋について語らせようとしているのだから。


「さっきの一浩の言葉、嘘が混ざってたんじゃない?」


奈穂が一浩へ視線を向けると、一浩がギョッとしたように目を見開いた。


「う、嘘なんてついてねぇよ!」


その言葉が放たれた瞬間、またカチッと音がした。


今度は全員が時計へ視線を向ける。
ほんの2分ほど進んでいた長針が、12のところまで戻っている。

ぴったり3時だ。
珠美が息を荒くしてその場に崩れ落ちる。


「大丈夫か!?」


豊がすぐに駆け寄ってその体を支えた。


「やっぱり、嘘をついたら時間が3時に戻るんだ!」


奈穂が一浩へ視線をやる。
一浩は唖然として近くの椅子に座り込んでしまった。


「さっき一浩は自分は悪くないって言ったよね? それが嘘だってことだと思う」

「そんな……俺は……」


一浩はそこまで言うと時計へ視線を向けて黙り込んでしまった。
ここで嘘をつけば、また時間は逆戻りする。

一生朝が来なくて、助けも来ないということを意味している。


「お願い一浩、自分の非を認めて! それで千秋は許してくれるかもしれないんだから!」


奈穂の叫びに一浩が反応する。
今にも泣き出してしまいそうな顔を上げた。


「俺は……確かに千秋をイジメてた。全部、俺が悪かったことだった」


小さな呟きはきちんと千秋に聞き届けられた。
時計の針は順調に進んでいる。

しかしホッとしたのも束の間、教卓の上にあるナイフがひとりでに一浩へ向けて飛んできたのだ。


「うわっ!」


一浩は咄嗟にナイフから避けて床に転がる。
ナイフは追いかけるようにして急に曲がり、一浩へと突撃する。


「一浩逃げて!」


奈穂が叫ぶ。
しかし一浩はナイフを目の前にして動けなくなていた。

ギラリと光る刃先がこちらを向いていて、今にも一浩の体に突き刺さってきそうだ。


「やめろぉ!」


一浩が叫んで両手で自分の顔をガードする。
そのときだった。

自在に飛んできたナイフが一浩の右手にスッポリを収まっていたのだ。


「え……?」


予想外の展開に奈穂が凍りつく。
豊と珠美もその場から動くことができなかった。


「な、なんだこれ!?」


ナイフが手に張り付いた一浩はパニックを起こして両手を振り回す。
それでもナイフは右手から離れずにべったり張り付いたままだ。


「な、ナイフが、どうして?」


奇妙な光景に奈穂の額から汗が流れ落ちる。
とにかく一浩と距離を置いておかないとこっちまで危害が加えられそうで怖い。

3人は一浩から距離を取った。


「誰か、これ、どうにかしてくれよ!」


左手でナイフを引っ張っても、右手を振り回してもナイフは離れない。
一浩の右手はナイフをしっかりと握りしめているけれど、それは一浩の意思ではなかった。

見えないなにものかによって強制的にやらされていることは、見ていてすぐにわかった。


「一浩落ち着け。右手をゆっくり開いてみろ」


豊が声をかける。
一浩は一度目を閉じて大きく深呼吸をすると、すぐに目を開けた。
そしてナイフを握りしめている右手を突き出して手を開こうとする。


けれど手は開かない。
血管が浮き出るほどに力が込められていて、一浩の表情がひきつる。


「ダメだ。どうしても離れない!」

「千秋、これはどういうこと!?」


空間へ向けて叫んだのは奈穂だった。
奈穂の顔色は悪いけれど、まだパニック状態には陥っていない。

そんな奈穂の言葉が聞こえたかのように、再びチョークが浮き上がったのだ。
全員の視線が黒板へ向かう。

今度はどんな言葉が紡がれるのか、みんな呼吸をするのも忘れて見つめていた。
カッカッとチョークが黒板に当たる音だけが聞こえてくる。

そして書かれた言葉は……「自分の罪を認めた後は、ちゃんと償って」と、書かれている。
奈穂、珠美、豊の視線が一浩へ向かう。


一浩は千秋をイジメていたことを認めた。
それを償えと言っている。

そして一浩の手には離れることのないナイフが握られている。


「償いって、もしかして……」


珠美がそう呟いて両手を口元に当てる。
珠美の体は小刻みに震えていて、目には涙が浮かんできていた。


「嘘だろ。このナイフで自殺しろってことかよ!?」


叫んだのは一浩本人だった。
ナイフを見つめて青ざめている。


「そんな、それはひどいよ千秋!」


奈穂がまた見えない相手へ向けて声をかける。
しかし、今度は返事はなかった。

チョークが動き出すことはない。

「自殺だなんて、冗談だろ?」


豊も顔をひきつらせている。
だけど黒板に書かれた文字では罪を償えを書いている。

そして一浩の手からナイフが離れないのだ。
この状況を見ると、それしか考えられなかった。


「みんな見て、時計の針が止まってる!」


珠美がなにげなく時計に視線を向けると、その長針、短信、秒針のすべてが止まっているのがわかった。
このままじゃいつまで経っても夜が明けない!


「俺が自殺しないと時間は進まないってことかよ……」


一浩が震える声で呟いた。


「そんな……。千秋聞こえてるんでしょう!? 今すぐこんなことはやめて!」


奈穂が懸命に声をかける。
けれどやっぱり千秋からの返事が来ることはなかった。

千秋はこれからの展開をどこかで見ているのかもしれないのに。


「このまま朝が来なかったら、俺たちここで死ぬのか?」


小さな声で呟いたのは豊だった。
豊の顔には疲れが滲んできていて、大きくため息を吐き出した。

一刻も早くこの不可解な教室から脱出したい。
それはここにいる全員の願いだった。

だけど出ることができない。
出口はどこにもない。

だから助けを待つしかないのに、今度は時間が止まってしまったのだ。
つい、死が脳裏にかすめても仕方ないことだった。


「死ぬなんて言わないで!」


珠美が青い顔をして叫び、「ごめん」と豊が小さな声で謝る。
するとそこで沈黙が落ちてきた。

みんななにも言わない。
どうにもできない八方塞がりな絶望感に支配される。


「俺が自殺すれば、時間が進むのか?」


沈黙を破ったのは一浩だった。
奈穂がハッと息を飲んで一浩へ視線を向ける。


一浩の手にはまだベッタリとナイフが張り付いていて離れそうにない。
その顔は青ざめて、ナイフをジッと見つめていた。


「一浩しっかりして。なにか方法を考えようよ」

「方法ってなんだよ!?」


奈穂の言葉に一浩が怒鳴る。
奈穂はビクリと体を震わせて黙り込んでしまった。


「方法はひとつしかねぇ。俺がこのナイフで死ぬことだけなんだろ!?」


その言葉は3人以外の誰かに向けられていた。
ここにいるはずの、見えない千秋へ向けて。


「くそっ! なんでこんなことになるんだよ!」


一浩がふらふらと教室後方へ向かう。
その後ろ姿を奈穂はなにも言えずに見つめた。


「ごめん、一浩」


そう言ったのは豊だった。
奈穂は驚いて豊へ視線を向ける。
豊の目はまっすぐに一浩へ向けられていた。


今の『ごめん』に込められている意味は、考えたくなかった。


「ごめんなさい……」


珠美も震える声で呟き、床に座り込む。


「待ってよみんな、なに言ってるの」


絶対に他になにか方法があるはずだ。
こんなひどいことをする必要はない。
そう思って一浩に近づこうとしたとき、一浩が振り向いた。

ナイフの先端は奈穂の方へ向いていて、奈穂はひるんで立ち止まる。


「俺に近づくな。あまり、見たくもないだろ?」


その言葉に返す言葉もなかった。
一浩はもう覚悟を決めているんだ。

そう理解すると、奈穂はもうこれ以上足をすすめることができなかった。
一浩がナイフを自分の首元へ持っていく。

奈穂は無意識の内に視線をそらせていた。


「俺が死んで時間が経過したら、ちゃんと死体を処理してくれよな」


一浩はそう声をかけると右手に力を込めた。
最初にチクリと痛みが首筋に走る。


「うわああああああ!!」


後は絶叫しながら恐怖をごまかしてどうにかするしかなかった。
千秋をイジメていたことが原因でこんなことになるなんて思わなかった。

イジメの原因は千秋のカンニングを知ったことだったけれど、それだけであそこまでする必要はなかったと、今では思っている。
カンニングしているのなら先生に相談をすればよかっただけのことだった。

そんなことにも気が付かなかったなんて……。
一浩の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。


「千秋……ごめんな……」


一浩はそう呟くと、その場に崩れ落ちたのだった。
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