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憧れのブリション

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 にょろにょろにょろ。
 イヴが退屈そうに、頬杖をつきながら、一本八十円くらいの安物のボールペンを走らせ、図形を描いていく。やがてそれが完成したのか、出来上がった図を「ん」と言って、雑にタケオに手渡す。


「おお、やっと出来たか。……ふむふむ、さすがはイヴ。なだらかな曲線から繰り出される、優雅で気品あるれるフォルム。こうして手に取って、目で見ているだけなのに、ニオイまで感じ取れるなんて……さすがは……て、コレ、巻きグソやないかい!」


 パシン!
 タケオが手に持っていた紙を地面に叩きつけた。そこに描かれていたのは、よく漫画でも出てくるような、う〇この絵だった。


「きちんと描いてくれよ! 〝ブリション〟まであともう一か月切ってるんだぞ?! あたし・・・はまだデザインとかよくわかってないし、イヴだけが頼りなんだぞ!?」


 昼休憩、教室内。
 タケオはこうして、イヴ以外の人間がいる所での一人称〝あたし〟は自然と言えるようになってきていたが、口調は完全に男のままだった。しかし、それでもクラスメイトをはじめ、教師共々、タケオの口調に違和感を感じる者はいなかった。


「いやいや、コレクション用の服を、構想も何もない状態から一か月で作り上げられるわけないじゃん。だからこれはおばあちゃんの嫌がらせ。本気で取り組む必要なんて~……ないっ! ということでイロハちゃん、焼きそばパン買ってきて?」

「嫌だよ! まずはさっさと終わらせようよ!」

「じゃあ、焼きそばパン買ってきたら描いてあげる」

「そう言って、もう一週間くらい経ってますけど?」

「今度こそは私を信じてみるつもりはない?」

「ないね。これー……ぽっちも、ない!」


 タケオはそう言うと、人差し指と親指で極々小さな隙間を作った。


「でも、腹が減っては戦が出来ないってコトワザもあるしさ~」

「じゃあせめて何か案だそうぜ。今回の巻きグソはじめ、いままでイヴの提案してきたデザインって全部下ネタ関連じゃん! この前のなんか洋式トイレだったし」

「だから、それくらいで良いんだって。アイデアやデザインは有限なの。こんなところでそれを使うくらいなら、適当にやったほうが百倍マシだね」

「だからって巻きグソはないだろ」

「いいじゃん。虚構と現実、フィクションとノンフィクションの狭間。実際こんなう〇こは存在しないけど、道行く人に『う〇こ描いてください』って言ったら、ほぼみんなこの絵描くんだよ? 興味深くない?」

「興味深いけど、それをファッションに落とし込むなって言ってんだよ! モデルさんもブチ切れるよ!?」

「浅い。浅いよ、イロハ。何千年と歴史ある洋服の世界において、このフォルムが提案されなかったと思うのかい?」

「あったとしても、あたしたちの手に余るわ!」

「ふん、分からず屋め。なら、そのデザインを出すために必要な糖分を買ってきてよ」

「ダメだ。あたしはもう、決めてんだよ。イヴがいい感じのデザインを描くまで、ここから一歩も動くつもりは……ない!」

「じゃあ一生そこで仁王立ちしてれば?」

「するさ! イヴが折れるまで!」

「……その前にイロハが折れると思うけどね。てか、どのみちブリションまでもう時間ないんだから、そういう作戦は悪手でしょ。さっさと買ってきたほうがいいと思うけどなあ?」

「──くっ、一理ある、か……! 卑怯者め、何が欲しいか言ってみろ!」

「チョコ……は、あんたの体温が高くてダメだから……じゃあ、ウグ〇スボールで」

「チョイスが渋いな」

「はあ? 美味しいじゃん」

「まあ、美味いけど……これで最後だからな! もうこれで何も描かなかったらほんとに……えーっと、すごいからな!」


 タケオは捨て台詞のようにそう言い残すと、そのまま教室から出て行った。イヴは相変わらず、半開きでやる気のない目でタケオを見送ると、手に持ったペンをくるくると回しはじめた。


「はあー……なんで、イロハって、あんなにやる気満々なんだろ。ぶっちゃけしんどいし、そもそもなんでおばあちゃんも、私と組ませたのかな。イロハとしても、もっとやる気のありそうな子と組んだほうが絶対よかったのに……」


 イヴは「めんどくさ」と呟くと、そのままペンを机に置き、椅子の背もたれに体重をかけた。


「──相変わらず、やる気が無さそうね」


 明るくツッコむでもなく、フレンドリーに話しかけるでもなく、冷静に、淡々とした口調の言葉が、イヴに投げかけられる。イヴは億劫そうに振り返ると、その声の主の顔を見た。
 そこにはイヴと同じ制服を着た、女子生徒三人組がいた。
 左から順に大杉美香オオスギミカ星敦子ホシアツコ清原千絵キヨハラチエで、さきほどイヴに声をかけたのは、その三人の中でも比較的身長の高い、清原千絵だった。


「えーっと……、ごめん、誰だっけ?」

「き、清原! 清原千絵よ! もう二ヶ月くらい同じクラスでしょうが!」

「いやあ、冗談冗談。大事なクラスメイトの名前を忘れるわけないじゃん」

「ほんとかしら。あなた、私が話しかけるたびにその冗談言ってない?」

「気のせいだよ。それで? 今日は・・・なんの用?」


〝今日は〟
 イヴの中で清原千絵、以下二名の名前は完全に忘れられていたが、〝自分に因縁をつけてくる変な三人組〟の事は、イヴも覚えていた。


「イヴさん、まだあなた春風さんのことをコキ使っているみたいね」

「春風さん……ああ、イロハの事ね。私としてはコキ使ってるつもりはないよ。あの子が勝手に動いてくれているだけ」

「詭弁ね。春風さんは迷惑そうにしているみたいだけど?」

「これが私たちなりのコミュニケーションってやつだよ。ほら、私とイロハって遠い親戚だし」

「親戚、ねえ……」

「なに?」

「いいえ、ただ、その割には似てらっしゃらないと思って」

「そうかな? そっくりじゃない?」

「……あなた、たまに冗談なのか本気なのか、わからない時がありますわよね」

「ひどいな清川さん、私はいつでも本気のつもりなんだけどなぁ……」

「清原です。まあ、いいわ。今日はその事について、あなたとお話しに来たわけじゃありません」

「そうなんだ? 用件は手短にね」

「……あなた、イヴさん。エトワール・ブリエ・コレクションに参加なさるそうじゃない?」

「嫌々だけどね」

「やはり、わかってらっしゃらないようね」

「……なにが?」

「エトワール・ブリエ・コレクションに参加することについて、です。エトワール・ブリエ・コレクションとは、毎年、この学院で不定期に行われている、ファッションショー。毎年、クリスチアーヌ先生が選びに選び抜いた学院の精鋭のみが参加することを許される、大変栄誉あるショーですの」

「あはは、知ってるよ。それくらい。おばあちゃんがきまぐれに始めたショーで、有名ブランドのデザイナーや大手アパレルブランドの社長なんかも見に来るんでしょ?」

「その通り。私も、一年生ながらこのショーに出させていただく栄誉を仰せつかった身。それに私は、このショーに出るために、この学院に入学したと言っても過言ではありません」

「へえ、よかったじゃん。一年生で選ばれるのって、なかなかない事なんでしょ」

「はい。これも私の努力のなせる業でしょう。……が、しかし、今年度のエトワール・ブリエ・コレクションには……なにやら不純物・・・が混じっている様子で。いえ、汚物・・が混ざっている、と表現したほうが的確でしょうか」


 清原は机の上にあった巻きグソ・・・・の絵を、まるで汚物でも触るように、人差し指と親指とで、慎重に摘まんで持ち上げた。その様子を見た、取り巻きの大杉と星は、くすくすと嘲笑した。しかし、渦中のイヴは表情も変えず、口を開いた。


「お。さすがは御目が高いねえ。それこそが、私がデザインした〝ラッキー・ドロッパー〟って言って、う〇こだけに、幸運アップ! ……ていう、洒落と実用性を兼ね備えた……」

「こほん。どうやら、ニュアンスがきちんと伝わってらっしゃらないようなので、この際、面と向かって直接的に申し上げて差し上げます。──辞めていただけませんか? この学院を」


 清原がその言葉を口にした途端、教室内の空気が凍り付いた。これにはさすがのイヴもそこまで言われるとは思っていなかったのか、「へ?」と訊き返した。


「はっきりと申し上げておきますと、目障りなんです。偉大なクリスチアーヌ先生のお孫さんが、この格式高い、伝統ある学院にコネクションを用いて入学する……というのは、まだ許せます。けれど、エトワール・ブリエ・コレクションに参戦できるのは、さすがに度が過ぎましてよ。毎年、どのくらいの人たちが、このコレクションに出たくて涙を呑んでいるか、理解しておられるのでしょうか? それを、こんな……下品下劣極まりない服で、コレクションとクリスチアーヌ先生の顔に泥を塗るなんて、笑止千万」

「……まあ、木部さんの言いたいことはわかるよ。けどね、それ私に言う事じゃないよね?」

「清原です。いいえ、これはあなたへ言うべきことなのです。これはもはや、あなただけの問題ではありません。恐らく、あなたは汚い手を使って、クリスチアーヌ先生を脅したり、孫という立場に甘んじたりしたのでしょう?」

「そんなことは……」

「だからクリスチアーヌ先生はあなたには強く言えない。したがって、私たちがクリスチアーヌ先生に代わって言いに来ました」

「……でも、それでも学院を止めろってのはあれじゃない? おかしくない? ファッションショーに出るのをやめろって言うのが普通じゃない?」

「いいえ。あなたは、謂わばガン。この学科を……この学院を蝕む病巣です。悪い所は取り除かれなければなりません。たとえ今回の出演を取りやめたところで、おそらく次回も、そのまた次回も、クリスチアーヌ先生はあなたを推薦するでしょう」

「出会って二か月程度なのに、随分グイグイ言うね」

「出会って二ヶ月、ずっと我慢してきましたので。入学初日から遅刻するわ、授業にはロクに出ないわ、勉強もまともにしない、挙句の果てに、頑張っている春風さんをこき使っている。正直、あなたなんかに顎で使われる春風さんが不憫でなりません」

「返す言葉もない」

「……よろしいですか? まだいまいち理解してらっしゃらないようなので、ここで申し上げておきます。あなたがいる事で、春風さんの成長が阻害されているのです」

「阻害……?」

「春風さんはこの学科で一番頑張っておられますし、クリスチアーヌ先生が春風さんを指名されたのはまだ納得できます。ですが、このままあなたと一緒にいる事で、春風さんは間違いなくダメになってしまいます。才ある者が、あなたのせいで潰れようとしているのです。裏でどのような取引が行われているのかはわかりませんが、ゆめゆめ、その事をお忘れなきよう」

「イロハが……私のせいで……」

「──ただいまァ! ウグ〇スボール買ってきました!」


 凍り付いていた教室内に、呑気なタケオの声が響き渡る。タケオは教室内の空気などお構いなしに、ずんずんと歩いていくと、イヴの前に買ってきたお菓子を置いた。清原はそれを見ると、「ふん」と小さく鼻を鳴らして、捨て台詞のようにイヴにいった。


「……では、私はこれで。さきほどの事、じっくりと考えてくださいね。それでは、イヴさん、春風さん、ごきげんよう」


 それを見たタケオは、イヴと清原間に流れる妙な雰囲気に首を傾げて見せた。


「清原さん……? おい、イヴ。なんかあったのか?」

「……べつに」


 イヴは急に立ち上がると、タケオの買ってきたお菓子を受け取ることなく、そのまま教室を後にした。タケオは何が何やら、と言った様子で、とりあえず買ってきたお菓子を持ち、イヴの後を追った。


「おい待てって、イヴ」


 タケオの制止を無視して、イヴはスタスタと歩き続ける。それに業を煮やしたタケオは、イヴの腕を掴んで強引に足を止めさせた。


「無視かよ。せめてウグ〇スボール食えって!」

「……ん、食べない。イロハが食べればいいじゃん」

「いや、どうしたんだよ。今更デザイン描かないって言ったら怒るぞ」

「いいよ」

「……はあ?」

「だってもう私、学校辞めるし」
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