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すこし遡って
しおりを挟むぼこすか。ぼこすか。
頬を殴られ犬歯が当たり口内が傷つき出血する。息をするたび、鼻から血のニオイが抜けていく。気持ちが悪い。
ぼこすか。ぼこすか。
腹を蹴られ、やつらのつま先がみぞおちにめり込む。息を吸うことも吐くこともうまく出来なくなってしまったが、今度は血のニオイを嗅がずに済むようになった。
ぼこすか。ぼこすか。
ぼこすか。ぼこすか。
ぼこすか。ぼこすか──
やっと満足したのか、今日のぶんの暴力は終わりだと言わんばかりに、唾を吐きかけられた……気がする。正直、全身が痛いからそんな些細な事は気にならない。
あいつらは何か言っている気がするけど、何かを伝えようとしている気がするけど、耳がキーンとなって、よく聞き取れない。
相変わらず、ズキズキと全身が痛むだけ。
相変わらず、鼻から血のニオイが抜けていくだけ。
相変わらず、今日も空が青いだけ──
俺は──佐竹翔は、今日もまだ生きていた。
冬浜市立第13中学校、2年4組、佐竹翔。帰宅部。
今はこんなだけど、昔はこれでも皆に一目置かれていて、周りに俺に喧嘩で勝てる奴なんて一人もいなかった。体がぶつかれば向こうが吹っ飛ぶし、目が合えば向こうが目を逸らした。誰一人、俺に挑もうともしてこなかった。
そんな俺はただひたすらに退屈していた。退屈をしていた俺は、時間を持て余していた俺は、次第に三次元から二次元の世界へと没入していった。
よくある話だ。
結果、オタク趣味に走りすぎた俺は、運動というものを疎かにしてしまった事で、身体能力において同級生に後れを取ってしまったのだ。
〝C.I.T.D〟というアニメをご存じだろうか。
いきなり何言ってんだコイツ。
と言われるかもしれないが、俺はこのアニメが好きで、正式には〝ケイオスインザダークネス〟という頭文字をとって、C.I.T.Dと呼ばれている。俺はアニメから入ったのだが、原作の漫画も全巻買って、最新話もすでに読了している。話も面白いし、キャラも立っているし、伏線の回収も凄いんだが、何より、この作品の主人公でもある〝デスK(コードネーム)〟がまるで俺を元に作られているんじゃないかってくらい、俺に似てて、強くて渋いんだ。普段はボーっとしているけど、仕事になったら面をかぶり、黒いコートを着て、颯爽と夜の街を駆け抜ける。幼い頃に両親を亡くし、とある組織に引き取られ、そこで殺しのノウハウを教わり、やがて最強の殺し屋へと成長する物語で、そんなデスKの一番好きなセリフが
『正義で悪は倒せない。悪に堕ちてもいいという覚悟を持つ者だけが、真の悪を打倒出来るのだ』
そう。俺は未だ正義を貫いているに過ぎないのだ。俺を寄ってたかってボコボコにしてくるあいつらは、せいぜいが小物。俺が本気を出せば、一発でぶっ飛ばせる。だが、俺は悪じゃないから手を下さなかったんだ。それが、俺がこんなところでうずくまっている理由だ。
よし、そんなの事を考えていたら、だんだんと痛みが引いてきた。
……いや、痛みなんてものはない。むしろ、地面の感覚を楽しんでいたのだと言える。最近、こういう感じで自然と戯れていなかったからな。たまにはこうやって、童心に返るのも悪くなかろう。
俺はとりあえず、うつぶせで倒れている状態から、膝立ちになり、そのまま後ろへ体重をかけて「ふぅ」と一息ついた。
いままで突っ伏していたから気づかなかったが、額がすこしガビガビと乾燥している。たぶん、あいつらが逃げた時、俺に苦し紛れの唾を吐きつけたのだろう。
それに……今回も口の中を怪我してるな。
舌を動かすと、頬の内側にすこしパックリといっているところが確認できた。今は大丈夫だけど、治りかけになると口内炎になって痛いんだよな……なんて悲嘆に暮れている場合でもない。おそらくあいつらが暴行を止めたという事は、もうすでに昼休憩は終わっているという事。俺もそろそろ帰らないと。
俺はすこし、ふらふらになりながら立ち上がると、近くの手洗い場へ行き、顔を洗い、口をゆすぎ、制服についていた泥を出来るだけ払って、教室へ戻った。
◇
──キー……ンコー……ンカー……ン……。
午後3時20分。
築50年の古ぼけた校舎から流れてくる、これまた古ぼけたチャイム音が、一日の終わりを告げる。それは同時に、部活動のはじまりを告げるチャイムでもあり、帰宅部に所属している俺に『はよ帰れ』と告げているチャイムでもあった。当然、帰宅部のエースで4番の俺は、すぐに帰り支度をして、学校内の誰よりも帰路に就きたかったのだが──
「おーう、佐竹。もう帰んのかよ」
突然俺の名を呼んだのは、石野 明広。茶髪でロン毛。垂れ目で、感じの悪そうなヤツ(実際感じは悪いのだが)だ。石野はわざわざ俺の席の近くまでやって来ると、俺に話しかけてきた。
「……おいおい、んだよ、シカトかあ?」
石野はニヤニヤ笑いながらそう言うと、気安く俺の脛をバシバシと蹴ってきた。サッカー部だからか、腰の入った良い蹴りをしてくる。ちなみに、たぶんこいつが、さっき俺のみぞおちを蹴ってきたやつだろう。ただ、今は、教室内に教師がいるせいか、本気で蹴ってくるつもりはないようだ。
「ああ、帰るけど。なんか用か?」
「べつに? それにしてもボロボロじゃねえか、なあ?」
「そうか? これくらい、たいしたことないと思うけど」
俺がそう言うと、石野はあからさまに眉をくいッと顰めた。なんともわかりやすい奴だ。
「強がってんなよ、ザコ。ザコはザコらしく泣きべそかいてりゃいいんだよ」
「そうか。じゃあ、そうするよ」
「チッ……なあ、ところでおまえ、今もユナちゃんと仲良いのかよ」
石野が言っている〝ユナちゃん〟とは大春由奈の事。
ユナは俺の幼馴染で、家がお隣さん。幼稚園の頃から一緒で、よくボケーっと空を眺めるのが好きな、変わったやつだった。基本、何をするにも一緒だったが、なんと、中学では学区の境目に住んでいたから、という理由で別々の学校に通っていた。
幼稚園、小学校と、その抜けた性格や、間延びした喋り方、とろい挙動から、目の前の石野からもよくいじめられたりしていて、その度に俺がよく助けていたのだが、最近はめっきり、そういう話は聞かなくなっていた。てっきり新しい学校でもいじめられていると思ったんだが……俺を心配させないよう、ユナなりに気を遣っている──事が出来るほど、器用なヤツではないので、本当にいじめられなくなったのだろう。こう言うのはむかつくけど、顔だけはいいからな。あいつ。
「……さあな。そんなにユナが気になるのか?」
だからこそ、俺は目の前の石野を挑発した。
石野はそれが面白くなかったのだろう。未だ教室内に教師が残っているにも関わらず、ずいっと顔を近づけて凄んできた。
「おい、コラ、調子のってんじゃねえぞ、ゴミがよ」
「……近ぇな」
キスでもされるんじゃないか(されるはずもないが)と思った俺は、どん、と石野の胸を強く押した。
石野はよろよろとよろめきながら、ガタガタと机や椅子をかき分け、押し退け、床の上に尻もちをついた。小学校の時と比べて体格差はなくなったといっても、まだ俺のほうが辛うじて上背はある。こういうふうに、石野ひとりだけだったら、別に脅威ではないのだ。
問題は、こいつらが群れる事。漫画やアニメと違って、人は群るとマジで強くなる。数の暴力ってやつだ。実際、俺によく暴力を振るってくるやつで、石野のほかに、中塚、柳井というヤツがいるが、ひとりひとりは俺より弱くても、三人束になってかかって来られたら厄介極まりない(本気を出せば負けはしないけど)。だから俺は、普段は余計なエネルギーは使わず、ただ防御に徹しているのだ。
「てめ、コラ! 佐竹ェ! 上等だよ!!」
返す刀というか、サッカー部だけに弾むボールというか、大勢の前で俺に恥をかかされた石野は、いきり立って俺に殴りかかってきた。自分が今一人だという事、教室内に教師が居る事を完全に忘れている。これだから群れるしか能のないヤツらはタチが悪い。
「おいおまえら、やめろっての……」
教室内に場違いな大人の声が響く。教卓で俺たちの一部始終を見ていた担任だ。黒縁の眼鏡をかけて、中肉中背の冴えない男教師。名前はなんだったっけな。
えーっと……忘れた。
まあ、この教師は所謂、ただの〝勉強教え機〟と化しているダメな教師だ。教科書に書いてある文字しか読まないし、積極的に生徒に関わろうとする気概も見受けられない。そのくせ、こうして、目の前で行われているゴタゴタに対しては、自身に飛び火しない程度で注意してくるが、陰キャの生徒が勇気を出した告発などは、バレなければ平気で握りつぶすようなクソ教師だ。まあ、大人になるとこういうのが賢いと言われるのだろうが、俺はこういうヤツは大嫌いだ。C.I.T.Dでは、まず間違いなくモブか敵で出て来て、最初に死ぬやつだ。ていうか、好きなやつ居るのか?
そんな無名の教師の注意に、石野の拳がピタッと止まる。
正直、『なんて聞き分けの良い拳を持っているんだ、石野君は』と挑発してやりたかったが、俺は大人だったため、教科書の詰まったカバンを背負い、そのまま教室を後にした。背後から猿みたいな石野の声や、担任のやる気のなさそうな声が聞こえてくるが、俺はこれを無視した。
これが義務教育の良い所ね。
教室を出た俺は廊下を突っ切り、階段を降り、昇降口で靴を履き替え、そのまま校門を出た。周囲には誰もない。どうやら今日も俺が一番乗りらしい。いい加減敗北を知りたい。
◇
「あれ?」
ふと、足を止める。
俺の目が、古ぼけた駄菓子屋を捉えた。
〝古ぼけた〟〝駄菓子屋〟である。
冬浜市立第13中学校の校門を出て、俺の家までは、歩いて大体20分ほどの距離がある。通学路が住宅街だという事もあり、俺の家と中学校の間には、店と呼べる気の利いた代物はなかったはずだ。とりわけ、駄菓子屋なんて、最上級に気の利いた施設なんてあれば、たちまち我が校の生徒全員が足繁く通ってしまうだろう。しかもトタンやくすんだ木材で出来た、昔ながらのというか、よく物語などで見る感じの、古ぼけた駄菓子屋ときたもんだ。自慢じゃないが、俺は中学に上がる以前から何度もこの道を使っている。べつに昨日今日で初めて使ったわけではないのだ。
なのに古ぼけたとは、一体どういう了見なのだろうか。
この俺を差し置いて、勝手に古ぼけているとは、けしからん駄菓子屋だ。品揃えを見せてみろ。
俺ははやる気持ちを抑えながら、心の奥底より沸き起こる対抗心を沈めながら、ずんずんと古ぼけた駄菓子屋とやらに近づいていった。
今まで動揺していて気が付かなかったが、駄菓子屋の上部──瓦屋根には、一枚のベニヤ板がはっつけてあり、そこには〝駄菓子屋不破〟と書かれていた。
不破という名の店主が経営しているのか……それにしても、なんて自己主張の激しい駄菓子屋なんだ。なんてことを思っていると──
「おや、私の店に何か用かい?」
「いやっぱああああああああああああああああああああああああ!?」
背後から突然、何者かに声をかけられ、おもわず変な声を出してしまう。俺は胸を押さえたままゆっくりと振り返って、その声の主を睨みつけようとした……が、俺の目の前にいたのは、なんと仮面バイカーだった。いや、正確に言うと、仮面バイカーの仮面をつけた女だった。
ちなみに、仮面バイカーとは日曜の朝8時に放映している特撮もので、この国の男児の必修科目のうちのひとつである。
そしてその仮面に目が慣れてきたら、今度は女の格好に目が行くようになってしまった。
なんで白Tシャツにジーパンなんだ。もっとなんかあるだろ。
しかもTシャツには〝まおー〟と、やる気のないポップ体もどきの書体で書かれてるし。そもそも、なんなんだ〝まおー〟って。
「おやおや、どうかしたかい? 固まっちゃって」
「……いや、面食らっちゃって……あれ? さっき、私の店って……?」
「そうだよ。この駄菓子屋は私の店だ」
「てことは、あんたがその……不破さん?」
「いかにも。駄菓子大好き不破さんとは、私の事ですよ」
「そ、そう……すか。お邪魔しました」
これ以上絡んでも何も利益がない。むしろ不利益しか生み出さないと踏んだ俺は、一目散にここから退去しようとした。しかし、そんな俺の肩を、不破という名の痴女が掴んできた。俺よりも少し身長の高いその痴女は、明らかに俺よりも強い力で俺の肩を掴んできている。なんとかして振りほどこうと試みているものの、振りほどくどころか、猛禽類の鉤爪が如く、不破の指が俺の肩肉に食い込んでくる。
「いだだだだだ……! ちょ、痛い! なにすんだ!」
「なぜいきなり帰ろうとするんだい?」
「なぜ頑なに帰そうとしないんだ……!」
「それは……ほら、見られちゃったからね」
「見られた? 何を?」
「私の秘密だよ」
「ひ、秘密って……?」
「このお店〝駄菓子屋不破〟の事さ」
「そんなに衆目に晒されたくなければ、今すぐ店をたためばいいだろうが……!」
「そういうワケにもいかないんだな、これが。……とにかく上がっていきなよ、少年。茶くらいならだすよ」
「嫌だね。俺はもう帰ると心に決めているんだ。それに、知らない人にはついて行っちゃダメ、と口を酸っぱくして言われているんだ」
「ほほう。なんて良い子なんだ。そして、なんて分からず屋なんだ」
「分からず屋で結構。これ以上俺を拘束するつもりなら、警察を召喚するぞ」
「警察はいやだけど……この駄菓子屋が見えているという事は、つまり少年にも心配事や、悩んでいることがあるという事だろう?」
「いやいや、どういう理屈だよ」
「そういうものなのさ。あまり深く考えなくていい。さあ、私に話してごらん。少年の抱える悩みを」
「ふん、この俺を中学生だと思って甘く見ているな? 人は誰にだって悩みがある。それを具体的に当てないで、フワフワと煙に巻くのは詐欺師の手口だ。生憎、そんな古典的な手に引っかかるほど、俺はマヌケじゃ──」
「あれだろ? いじめられてるんだろ、学校で」
「な、なん……だと!? ……いや待て、ちょっと制服とかが綻んだりしてたり、髪が乱れてたりとか、そんな感じで外見から判断してるんだろ? 知ってるぞ」
「強情だね。なら今度は、キミをいじめている子の名前も言い当ててあげよう」
「はあ? そんなことできるわけ──」
「イシノ、ヤナイ、ナカヅカという三人組から、主に暴力を振るわれているね?」
「な、なんでわかった!?」
「なぜなら、ここはキミみたいな悩める人げ……子羊の願いを、ほんの少しだけ叶えることが出来る駄菓子屋だからだ」
「そんな駄菓子屋があってたまるか」
「あるんだな、これが。まあ、願いをかなえるって言っても誰でも……というわけにはいかないから、さすがにこちらも人数は絞っているんだけど、キミからはどうやら特別な感じがする」
「特別な感じ……?」
「そう。キミからはこう……負け犬のオーラがぷんぷんと漂って来るんだよ。そこまで垂れ流しだと、逆に放っておけなくてね」
「な、なんて失礼なやつだ。初めて会う人間に、しかも女性にこんな事を言うのは、俺のポリシーに反するのだが、言ってやる。『消えろ、ぶっ飛ばされんうちにな』」
俺は相変わらず肩を掴まれたまま振り返ると、中指を立てて女性の顔の前へ突き出した。
「なんだいこれ? 中指? 何かのジェスチャーかな? 教えてくれないかい?」
「……はあ? 知らないのか?」
「知ってるよ? 中指だよね?」
「まじかこいつ」
どうやら本人はふざけているつもりはないようだ。ここまで大仰というか、あからさまに挑発しているのに、顔色一つ(顔は仮面で全く見えないのだが)変えないのを見ると、本当に知らないんじゃないか、とも思ってしまう。そうなってくると、無くしたはずの俺の良心もズキズキと音を立てて軋んでいく。
「まあいいや。とにかく、ぶっ飛ばすのは私じゃないだろ、サタケカケルくん?」
「お、俺の名前まで……」
「そう。ぶっ飛ばすのはイシミくんはじめ、キミに蹴る殴るなどの暴行を働いた、キミの同級生たちだ。そうだろう?」
「は……ははーん、なるほど。もしかしておまえ、ストーカーだな? 熱心な俺のストーカーなんだろ?」
「ふむふむ、今度はそう来たか。ちなみにその心は?」
「心も何も、こんなに俺の個人情報を知っているとなると、そのセンしか考えらないって事だ」
「へえ。……な~んだ。買いかぶって損した」
「は?」
「なんてことはない。ただの想像力の欠如した、哀れな子どもじゃないか」
「な、なんだと!? 喧嘩売ってんのか!」
「喧嘩なんて売らないよ、私が売っているのは駄菓子だけ。……どうだい? まだお茶を飲む気はないかい?」
「ふん、いまの暴言で、なおさら飲む気はなくなったね」
「……しょうがない。なら特別にもうすこしだけ、切り込んだ話をしてあげよう」
「今さら何を言ったところで、俺の気持ちは変わらんがな」
「キミは……ノートに、その日思いついた必殺技を記したノートを持っているね」
「……は?」
「それも、家の引き出しに入っていて、毎日眺めながら音読し──」
「お茶、飲ませてください」
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