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第2章

閑話 幼子の反旗と贖罪

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 ここへ連れて来られてから、一体どれほどの日数が過ぎたのだろうか。
 薄暗くて狭い檻の中、寝具代わりの薄っぺらい布に包まりながら、エフィーメラは小さく息を吐いた。
 元々大人用だと思われる、小汚くてボロボロのチュニックと、所々毛羽立って擦り切れている大判の布だけが、エフィーメラがここで持つ事を許されている数少ない私物だ。

 無論、その事に不服を感じていない訳ではない。
 だが、およそ同じ人間に対するものとは思えぬ粗雑な扱いと、繰り返される理不尽な暴力によって、今や幼い令嬢の心は完全に折れ、もはや反抗するどころか物申す気力さえなくしてしまっていた。

 今まで暮らしていた、ケントルム公爵家の自分の部屋と比べて、半分程度の広さしかない檻の中には、エフィーメラと似たような背格好の子供が数人、寝転がっている。
 エフィーメラと同じ、奴隷商の所有物であり、商品でもある子供達だ。

(寒い……。お腹が減った……)

 エフィーメラは他の子供と同じように、固く冷たい床に寝転がって目を閉じた。
 起きていると余計に空腹が酷くなるからだ。

 そうして横になっていると、以前は就寝時、当たり前に肩や腕に触れていた、自慢の長い髪がもうどこにもない事を嫌でも自覚させられ、悲しくなる。
 腰まで伸ばしていたエフィーメラの自慢の髪は、ここへ連れて来られたその日のうちに、シラミが湧くから、という理由で、刈り込むような勢いで切り落とされた。

 やめて、私の髪を返して、と泣き喚き、背中を何度も鞭打たれて気を失ったエフィーメラには、切られた髪がどうなったのか分からない。
 奴隷商は、切り取ったエフィーメラの髪をどこぞの商人に高く売りつけていたが、その事には思い至らなかった。

 恵まれた貴族の家に、何ひとつ欠ける所のない健康な娘として生まれたエフィーメラは、付け毛やカツラというものを知らないのだ。
 ゆえに、自分の髪はゴミとして捨てられてしまったのだと思い込んでいた。

(お姉様ほど、華やかな色の髪じゃなかったけど……自慢だったのにな……。お母様やお父様だって、「綺麗な髪だ」って、褒めて……っ)

 エフィーメラはきつく唇を噛み、泣くのを堪えた。
 泣けば余計に腹が減り、体力も削られる。
 どうせ泣こうが喚こうが、ろくな食事は与えてもらえない。
 むしろ、下手に騒いで奴隷商の機嫌を損ねれば、食事を抜かれる事もある。
 それだけは避けたかった。

(山の中に捨てられたお姉様も、こんな風にお腹を空かせたのかしら……。こんな風に、寒くて辛い思いをしながら、死んでいったのかしら……)

 エフィーメラは寝転がったままぼんやりと、自分のふたつ上の華やかな容姿をした、美しい腹違いの姉の事を思う。

 ぼろを着せられ、身ひとつで北の山に捨てられた姉。
 北の山はとても寒くて、人を襲う獣が沢山住んでいると聞いている。
 恐らく、もう生きてはいないだろう。
 その末期を思うたび、屋敷で暮らしていた時には、いい気味だと思っていた。
 けれど今は。

(きっと……私もお母様もお父様も、罰が当たったのね。お姉様に酷い事して死なせたから……神様が怒って私達を、お姉様と同じような目に遭わせようとしてるんだわ……。ごめんなさい、ごめんなさいお姉様……)

 ジワリと視界が滲み、エフィーメラは再び唇を噛んだ。
 そんな中、ふと気付く。
 今日はなんだか、檻の外が妙に静かで、人の気配もない事に。

 その事を怪訝に思い、ノロノロと起き出して檻の出入り口へ近づいていくと、案の定見張りの姿がない。
 見張りは一体どこへ行ったのか、という疑問に背を押されるがまま、檻の隙間に身体を押し込むようにして、外の様子を更に詳しく観察しようとした瞬間、エフィーメラの身体は格子と格子の隙間をすり抜け、外に転がり出ていた。

「……え?」

 全く予想すらしていなかった現象に驚き戸惑い、エフィーメラは思わず間の抜けた声を上げる。
 エフィーメラには知る由もない事だが、元々この檻は大人を閉じ込める為に作られたものであり、子供を閉じ込める為のものとしては、格子の間隔が幾分広かったのだ。

 無論、それでも普通は、子供であっても格子の隙間をすり抜ける事など、できようはずがない。だが、何事にも例外は付き物であり、不測の事態というのもまた、いつ何時も起こりうるもの。

 何日にも亘って粗末な食事ばかりを与えられ、ガリガリに痩せ細った身体であった事。そして、エフィーメラが未だ10にも満たない幼子であった事。
 それらの条件が寄り合わさった事で、期せずして奴隷商の想定を超えた奇跡が起きたのである。

「……で、出られ、た……」

 茫然と呟き、放心していたのはほんの数秒。
 我に返ったエフィーメラは、残りの力を振り絞って立ち上がり、いつも見張りが座っている、粗末な机と椅子がある場所へと走る。
 椅子に登り、古びた机のガタついた引き出しを開ければ、案の定そこに、幾つかの鍵を輪に通してまとめてある鍵束が入っていた。

 続いてエフィーメラは小さな手で鍵を引っ掴むと、走って戻った檻の出入り口に取り付いて、焦りと興奮で震える手で、鍵穴に鍵を差し込みにかかる。だが、なかなか鍵が合わない。
 そんな中、エフィーメラの行動に気付いた他の子供達も、身体を起こして檻の出入り口へ近づき、エフィーメラの行動を固唾を呑んで見守り始めた。

(逃げてやる。絶対ここから、みんなで逃げてやる……!)

 エフィーメラは確固たる決意の元、歯を食いしばって鍵を試し続ける。
 何度も鍵を試すうち、鍵穴と鍵が噛み合い、檻の出入り口が開いた。

「やった……開いた、開いたわ!」

 エフィーメラの言葉に子供達が歓声を上げ、我先にと檻の外へ駆け出していく。
 すると隣の檻から、同じように捕まっている大人が声を上げた。

「お嬢ちゃん、頼む! こっちも、こっちの鍵も開けてくれ!」

「わ、分かったわ! 待ってて!」

 エフィーメラは急ぎ隣の檻の出入り口に取り付き、同じように鍵を試していく。
 こんな事をしたくらいで神様が、死んだ姉が自分を許してくれるとは思わない。
 でもそれでも、ここで他の誰かを見捨てて、自分だけ逃げるよりはずっとマシなはず。
 なんの根拠も確証もないが、エフィーメラはそう信じていた。

 やがて同じように鍵が噛み合い、開いた檻の扉から、何人もの大人達が駆け出てきた。そのうちの1人、最初にエフィーメラに助けを求めてきた大人が、他の大人に声をかけ、複数の大人が足の遅い子供を抱き上げ始める。
 エフィーメラもまた、大人に抱きかかえられてその場を去る事になった。

 久し振りに出た檻の外、肌寒くも眩しい空の下に広がる街中には、またもや人の姿が全くない。
 まさに、もぬけの殻のがらんどう。そんな表現が似つかわしいほどの状況だ。

「なにがあったか分からないけど……今のうちに逃げましょう!」

 エフィーメラと同じく、短く髪を刈り込まれている女性に促され、エフィーメラ達はその場から急いで逃げ出した。
 ここから先、自分達がどうなるかは分からない。完全なる未知数だ。
 でも、逃げ出した事を悔やむ日は絶対に来ない。
 エフィーメラのみならず、他の子供や大人達の誰もが、そう強く思っていた。

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