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第5章
7話 穏やかなひと時
しおりを挟む帝国での農業視察開始4日目。
今日ニアージュ達は、複数の果樹を育てている広大な果樹園と、そこに併設されている醸造所の視察を行っていた。
中でもリンゴは5種もの種類が育てられており、剪定や摘果などのやり方も、品種ごとに適宜変えているとの事らしい。
残念ながら、リンゴを含めた栽培果樹は、現在どれも収穫時期から外れている他、新たに栽培を始めたサクランボはまだ幼木で、収穫以前の状態だと言う事から、栽培されている果実を口にする事は出来なかったが、代わりに醸造所で試飲会を開き、幾つかの果実酒やリキュールを試飲させてもらえる事になった。
試飲会で出されたのは、赤、白、ロゼ、スパークリングなどの数種のワインに、アップルブランデー、シードルなどの他、オレンジやヘーゼルナッツ、アプリコットの核を使ったリキュールなど、実に多種多様である。
それこそ、酒好きのニアージュがついつい目を輝かせてしまうような、試飲と銘打つには大層豪華なラインナップであった。
醸造所の片隅、元より試飲会の為に設えられたのだという、窓が多く日当たりのいいサロンの中で、視察団の人員達は思い思いにくつろぎながら試飲を楽しんでいる。
「うーん……! 凄く美味しい……! とても香り高いし、とろけるような甘さとほのかな酸味が、バランスよく同居してるわ……!」
ニアージュは小さなグラスに注がれたシードルの味わいに頬を緩めつつ、それを2、3口に分けて飲み干した。
ちなみに、これでニアージュが空けた試飲用のグラスは8杯目である。
傍らのアドラシオンは、その様子に苦笑するばかりだ。
「そんなに美味いか? ニア」
「ええ、それはもう! シードルとしてはだいぶ甘味が強いですけど、その甘味もアルコール特有の苦味と辛味、弱めの炭酸が洗い流してくれますから、後口はとてもスッキリしていて……。ただ甘いだけのジュースでは楽しめない味です。
私個人の感想ですが、このシードルを試飲できただけでも、ここへ来た価値があったと胸を張って断言できます」
「そうか。君が気に入ったのなら、醸造所の主にかけ合って、ここのシードルのボトルを何本か購入して帰ろうか。それからアップルブランデーも。リンゴを使った酒、好きなんだろう?」
「わあ、いいんですか旦那様! ありがとうございます! ……でも、旦那様はあまり飲んでいらっしゃいませんね? 顔色もあまりよくありませんし……。ひょっとして、試飲のし過ぎで気分が悪くなりましたか?」
喜びから一転、アドラシオンの顔色を見て心配そうに眉尻を下げるニアージュに、アドラシオンはばつの悪そうな顔をして小さくうなづいた。
元々大してアルコールに強くない体質なのに、少量とはいえ何種もの酒を立て続けに飲んだのだ。悪酔いしてくるのも当然だろう。
「……。まあ……実を言うなら、その通りだ。それに、これ以上飲むと前後不覚になりそうだというか……情けない話、許容範囲を超えてしまいそうなんだ。だから、そろそろ試飲を遠慮したい所なんだが……」
「旦那様、情けない事なんてありませんよ。……今なら誰もこっちを見てませんし、グラスを私の空のものと取り換えましょう」
「……すまない。そうさせてくれると助かる。俺ももう少し訓練して、酒に強くならなければ……」
「――旦那様、それは迷信なのでやってはいけません。アルコールに対する強さ弱さは、個々人が生まれ持った体質です。どんなに繰り返し飲酒しても、お酒に強くなるなんて事はあり得ないんです」
アドラシオンのぼやきにも似た発言を耳にしたニアージュは、途端に真顔になって、強い口調でアドラシオンを止める。
いつにないその剣幕に、アドラシオンも少々面食らった。
「そっ、そうなのか?」
「そうです。実際私が村の近くで暮らしていた頃、村長さん家の3軒隣のおじさんは、その迷信を信じて深酒を繰り返したせいで、臓腑を病ませてしまって、早くに……」
当時の事を思い出し、ニアージュは唇を噛んでわずかにうつむきながら言う。
いつも私が遊びに行くたび、ちょっとしたお菓子や飴玉をくれる、気のいい優しいおじさんだったのに、と。
「……ニア……」
「ですから! お酒での無理は、絶っ対にダメです! ――お酒で病んだ臓腑は、どんな薬草でも元に戻せないし、どんなに腕のいいお医者さんでも癒せないんです。おじさんみたいに臓腑を病んでから悔やんだって、もう遅いんですからね!」
「……。ああ、分かった。そんな事はしない。約束する。だからもう、そんな泣きそうな顔をしていないで、いつものように笑ってくれ。君のそんな顔をずっと見ているのは、俺には深酒して具合を悪くするよりも辛い事に感じる」
「……っ、は、はい。分かって下さったのならいいんです。……くぅっ、旦那様今の発言テライケメン過ぎか……!!」
「? なんだ、ニア。今何か言ったか?」
「……う。……い、言いましたけど、単なる独り言ですから、掘り下げようとしないで下さい……」
「?? そうか。分かった。では話を変えようか。実は昨日の視察で見た、農地に引く用水路の――」
「――やあ、ごきげんよう、視察団の皆様方。我が国の酒を楽しんでくれているだろうか?」
そこで、タイミング悪くサロンに入って来た皇太子が、アドラシオンの言葉を遮るような恰好でにこやかに挨拶してきた。
その皇太子に応対するべく、いち早く椅子から立ち上がって会釈するのは、視察団の代表という事になっているバラト侯爵だ。
「はい。皇帝陛下と皇太子殿下のご厚情を賜りましたお陰で、心行くまで多種多様な美酒を堪能させて頂いております」
「そうか。それは重畳。……しかし……皆様方が楽しんでおいでの所、大変申し上げ辛い事なのだが……。数日前に貴国にて、重大な事件が起きたと聞き及び、その旨を皆様方経一刻も早くお伝えすべく、こちらへ参じた次第なのだよ」
「は……。重大な事件、でございますか……? それはどのような……」
「うむ……。では、どうか落ち着いて聞いて欲しい。――クロワール王国の上位貴族が一家、レトリー侯爵家の本邸が不逞の輩によって放火され、夫人とそのご子息2人が焼死された、と」
皇太子の言葉を聞いた途端、バラト侯爵が双眸を大きく見開き、視察団の面々からも、どよめきに似た声が上がる。
当然ニアージュとアドラシオンも、いささか強張った顔を無言で見合わせていた。
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