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第3章
12話 新年祝賀会~公爵夫人VS侯爵夫人
しおりを挟むラトレイア侯爵夫人は、ここぞとばかりに眉を釣り上げ目を見開いて、こちらを見下し切った笑みを浮かべる。
「あらあらまあまあ。年若い小娘らしく元気なのはいい事だけど、ちょっとはしゃぎ過ぎなんじゃないかしら?」
夫人の口からお決まりの嫌味が吐き出されるが、ニアージュは答えなかった。
というか、答えられなかった。
今しがた、ローストディアを口の中に入れたばかりで、口を開けないのである。
(もぐもぐ。うーん、食べるのはこれが初めてだけど、ローストディアってやっぱり美味しい。これってジビエよね? その割に、ローストビーフより癖がないかも)
「全く、上位貴族家の女主人たる公爵夫人が、口いっぱいに食事を頬張るなんて、下品もいい所だわ」
ラトレイア侯爵夫人は、苦言に見せかけた更なる嫌味を口にするが、それでもニアージュは答えない。
まだローストディアが口の中にいらっしゃるからだ。
このローストディア、ローストビーフと違って大半が赤身の部分で占められているからか、柔らかくはあってもそれなりに噛み応えがある。
だが、そこがいい。
即座に飲み下してしまっては勿体ないと感じるほど、旨味が溢れている上等の赤身肉。
ここはしっかり噛み締めて味わうのが、このローストディアを作ってくれた料理人への敬意であり、この料理の為に犠牲となった鹿に対する、最低限の礼儀であろう。
それらの事を鑑みれば、勝手に人の前に来て、勝手に嫌味をベラベラ喋り倒している、こんな身勝手クソババアへの礼節や応対に思考を巡らせるなど、二の次三の次で十分だ。
この瞬間、ニアージュの中でのラトレイア侯爵夫人の優先順位は、鹿肉以下に転落した。
(もぐもぐ。ああ、この高級な肉特有の、柔らかな噛み応えが堪らない。安くて硬い肉とは一線を画す歯ざわりだわ。噛み締めるほど肉の旨味が口いっぱいに広がって、幸せな気持ちになってくる……)
「あなたがそんな事だと、エフォール公爵閣下だけでなく、一応、取り敢えず、あなたの生家という事になっている、我がラトレイア侯爵家まで、よその方々から低く見られてしまうでしょう?」
(もぐもぐ。さっきのローストビーフみたいに、柔らかジューシーな霜降り肉もいいけど、こんな風に、肉自体の旨味がしっかり感じられる赤身肉も美味しいわよね。
なんていうかこう、「肉食べてるー!」って感じがするもの。ああでも、もう飲み込んじゃう……)
「おまけになに、その空になったグラスの数は。王族の方々がおわす特別な場だというのに、お酒をそんなにガバガバと飲んで。
人前だからと平気な振りをしているけれど、実際にはもう泥酔しているのではなくて? なんてはしたない――って、話を聞いてるのあなたは!? いい加減返事をなさい!」
「もぐもぐ、んぐ、ふう。……ちゃんと聞いておりますよ? ラトレイア侯爵夫人。ただ単に、口の中にローストディアが入っていたので、返事ができなかっただけです。
それから……余計なお世話かも知れませんが、こういった衆人環視の場でそんな大きなお声を出して、根も葉もない事を仰られない方がいいかと思います。私は別に、口いっぱいにお食事を詰め込んだりなんて、していませんのに」
身勝手クソババア迎撃の為、即座に淑女モードに入ったニアージュが、口元を手でわずかに隠して小首を傾げながら言えば、ラトレイア侯爵夫人は分かりやすく顔をしかめ、更なるヒートアップ状態に入った。
どうやら、露骨な作り顔で反論された事が癪に障ったらしい。
「なんですって!? 本当の事でしょう! なにが根も葉もない事だと言うの!」
「ではお伺いしますが、あなたの仰る『本当の事』とは、どのような事なのです? そもそも証拠はございまして? それとも、あなたは物陰からずっと私を観察していて、私が実際にそのような振る舞いをしていた所を、ご覧になられたとでも仰るの?
まあ怖い、人の食事を陰から黙って観察していただなんて……。嫌だわ、何を考えていらっしゃるのかしら……」
「なっ!? バカな事を言わないで! 私がそんな事する訳がないでしょう!?」
今度は、わざとらしい仕草で被害者ぶったものの言い方をしてやると、ラトレイア侯爵夫人は更にいきり立った。
ニアージュは内心で、(ふっ、引っかかったわね!)と笑う。
ラトレイア侯爵夫人は、気位は誰より高い癖に、気が短くて沸点が低い。
貴族女性としての矜持がそうさせているのか、それとも、周囲に自分と似たようなタイプの女しかいないからなのか、遠回しな嫌味をあしらうのは比較的上手いのだが、今ニアージュがやったような、直接的な口撃を受け流すのは苦手なのである。
しかも、口撃して来た相手が、自分が見下している格下の小娘ともなれば、頭に血が上るのも一層早くなろうというもの。
という訳で、ニアージュはここからもっとラトレイア侯爵夫人を煽り立て、自爆するよう仕向ける事にした。
(相変わらず、典型的な脳みそ瞬間湯沸かし器ね。このクソババア。これなら私1人でも片付けられるわ。――周囲の人達と話が弾んでいる旦那様を、こんな事で煩わせたくないもの)
視界の端に、数名の貴族男性に囲まれ、穏やかな表情で談笑しているアドラシオンの姿が見える。
まだ一時的なものかも知れないが、折角自縄自縛の状態から解放され、ああして人の輪の中に入って行けるようになった、大切な人の邪魔をしたくない。
(……。よかったですね、旦那様。パーティーに参加する前は、「周囲から白い目で見られるかも知れない」…なんて、弱気な事を言ってたけど、そんな事全然なかったじゃありませんか。
この調子で思い出して下さい。あなたの世界がどれほど広いものだったのかを。ずっと遠巻きにしていた社会の中にいるのは、嫌な人ばかりじゃないんだって事を、ちゃんと思い出して。その為のお手伝いなら、幾らだってしますから――)
ニアージュは、ほんのわずかだけ目を細めた。
そして一層気合を入れる。
転生前からニアージュには、これといった特技や才能などはなく、知恵も知識も凡人に毛が生えた程度の貯えしかない。
物語の主人公になれるような、特別な力だって持っていない。
どこにでもいる、凡庸な女だという自覚があった。
だが、それでも彼女は知っている。
大切な人の為に戦おうと腹を括った女より、強く逞しい者はこの世に存在しないのだという事を。
(そう。今のこのご時世、『男は度胸、女は愛嬌』なんて考え方はもう古い。今の時代は『男は度胸、女も度胸』! よく見とけよ私の覚悟を! 好きな人の為だったら、どんな害虫にだって全力で立ち向かうんだから!)
改めて決意を固めたニアージュは、ラトレイア侯爵夫人に正面から向き合う。
こんな、身分とそれに根差したプライドくらいしか持ち合わせていない相手になんて、負ける気がしない。
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