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第2章
12話 嵐の後のエピローグ
しおりを挟む時間帯的には、昼に差しかかる少し前。
エーゼルは、顔面から石畳にダイブした影響であちこち盛大に擦り剥いて、とんでもない事になっているであろう顔面を、侍女が差し出したタオルで覆い、痛い、酷い、騙された、などと繰り返して、何の非もない被害者を気取ってぐすぐすと泣いていた。
だが、流石にそれ以上ニアージュを槍玉に上げて騒ぐ気力はなかったようで、そのまま父親であるバラト侯爵と共に、大人しく帰路につく事を選んだ。
なお、肝心の傷の手当てだが、これはエーゼル本人が、エフォール公爵家で手当てを受ける事を拒否した為、できていない。
他家の使用人やニアージュ、そしてなによりアドラシオンに、傷付いた自分の顔を見られる事を泣き喚いて嫌がったのだ。
ゆえにその場ではエーゼルの侍女が、提供された水でエーゼルの傷口を洗い流すだけに留めている。
また、バラト侯爵は当初、娘の不始末と無礼の詫びをせず帰る訳には、と、心底申し訳なさそうな顔で言っていたのだが、それに関してはアドラシオンが、やんわりながらも断りを入れた。
幾ら迷惑をかけられたとはいえ、エーゼルは怪我をしているのだ。
しかも、貴族令嬢の命とも言える顔を、である。
今回の迷惑行為の代償としては、いっそ行き過ぎなほどに重い罰であろう。
「娘御はもう十分過ぎるほど罰を受けた。こちらとしても、暴言を吐かれる以上の酷い実害は受けていないゆえ、早くご自宅へ連れ帰り、手当てをしてやるべきだ」
だからこそアドラシオンは、上記のような言葉でバラト侯爵を説き伏せて帰宅を促し、首を縦に振らせたのだった。
相応の重量がある大型の馬車な割に、軽やかな音を立てて石畳の道を去っていくバラト侯爵の馬車を見送りながら、小さな安堵の息を吐くニアージュに、アドラシオンが「すまない」と申し訳なさそうに謝ってくる。
「え? なにがですか?」
「アクシデントがあったせいとはいえエーゼル嬢に、君に対してきちんと謝罪するよう、要求する事ができなかった。……彼女の事だ、君に対して人格や尊厳を貶めるような、さぞ酷い暴言を吐いたのだろうに」
すっかりしょげている様子のアドラシオンに、ニアージュは「気にしないで下さい」と、おかしそうに笑いながら言う。
「別に大した事は言われていません。元々育ちがいい貴族のお嬢様だから、あまり口汚い言葉を知らないんでしょうね。私の事も、精々山猿女呼ばわりするのが限界のようでしたし。まあ可愛いものでしたよ?」
「や、山猿……!? 山猿女だと!? 彼女は人の妻をなんだと……っ!」
「落ち着いて下さい。そんなの田舎の平民にとっては、暴言の内にも入りません。実際私も田舎で暮らしていた時は、木の実や果物を採る為によく木登りしてたので、近所の子供達から「お猿の姉ちゃん」と呼ばれて、からかわれたものです。
お陰で彼女に山猿女呼ばわりされた時、どことなく当時の事を思い出して少し懐かしくなりました」
「……そ、そう、なのか……?」
「ええ。それこそ、平民が本気で腹を立てて口喧嘩する時に使う言葉なんて、お貴族様の遠回しな嫌味と比べたらあまりに口汚な過ぎて、今この場で説明する事もできないほどですから。
当然私も、それらの『暴言』の語彙は割と多いので、言おうと思えば幾らでも言えます。品性を疑われる事請け合いなので、絶対言いませんけど」
驚愕するアドラシオンに、ニアージュが悪戯っぽい顔で追撃をかけた。
「正直さっきのエーゼル嬢が、私から平民仕込みの暴言なんて浴びせられた日には、精神的に耐え切れなくて憤死するんじゃないでしょうか」
「……。……成程……」
「ですから、どうか私の事はお気になさらず。あんな世間知らずのお嬢様では、どれだけ悪意を込めて暴言を吐いたとしても、私をへこませるなんてできません。
あんなの精々、ちょっと強めのそよ風を受けたくらいのものです。もし今後、また先程のような事があったとしても、旦那様の思うように処理して頂いて大丈夫ですよ」
自信満々に胸を張って言うニアージュ。
それを見たアドラシオンが苦笑する。
「そうか。以前から分かっていた事だが、やはり君は強いな。しかし、もし次に同じような事があれば、俺は何においても必ず抗議する。俺の妻を貶めるな、と」
「えっ?」
「ニア、そう目を丸くして驚かないでくれ」
誰の目にも明らかなほど驚きの色を見せるニアージュに、アドラシオンは少しばかり拗ねたような顔をした。
「俺は別に、おかしな事は言っていない。例え、書類の中の話でしかない、ただ契約の上にのみ成り立っている関係だとしても、俺は君の夫で、君は俺の妻だ。その現実は、誰にも否定できるものじゃないだろう?
だから俺は、君が今後、誰かに名誉を傷付けられるような目に遭った時には、必ず声を上げて抗議する。相手が誰であろうとも。妻の身を案じて庇うのは、夫として当然の行動だ。そんな事もできない男に妻を持つ資格はない。俺は、そう思っている」
「……。そうですね。そうかも知れません。ありがとうございます、旦那様。その時はできる限り、旦那様を頼らせて頂きますね」
「いや、そこは「できる限り頼る」ではなく、「必ず頼る」と言ってくれた方が嬉しいんだが」
「そういうものなんですか? すみません。でも、私だって書類上の立場とはいえ、あなたの妻で公爵夫人を名乗る身分なんですから、あまり旦那様におんぶにだっこでいる訳にはいきませんよ。……常日頃、夫を支えるのは妻の役目。そうでしょう?」
「それは、確かに世間的に見ればそういうものなのかも知れないが……。……はぁ。全く、『夫婦』というのはなかなかに匙加減が難しいな」
「ふふふっ、そうですね。難しいです。どうやら、もっと勉強しないといけないみたいですね、私達」
「ふふ、ああそうだな。まだまだ勉強が足りないか……」
ニアージュとアドラシオンは、互いに顔を見合わせて笑い合う。
アルマソンを始めとした使用人やアナを含めた侍女達は、そんな夫妻の姿をただ何も言わず、目を細めて見守っていた。
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