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第2章
3話 厄介者は来なくても跡を濁す
しおりを挟むまだ四十路の若い国王が、王宮の何もない廊下を歩く最中、1人で勝手にすっ転んで腰を痛める、という、周囲の者からしても大変想定外な憂き目に遭い、自室で寝込んでいる一方、エフォール公爵家では安堵の声が広がっていた。
なんなら、祝杯を挙げんばかりに喜んでいる者さえいる。
エフォール公爵家では、アドラシオンをよき主人、よき領主と敬愛し、慕っている者達ばかり。
彼らや彼女らが、過去にアドラシオンを手酷く扱っておきながら、自分の都合で掌を返してきた国王を快く思えないと考えるのは、当然の事であろう。
だがそんな中、眉根を寄せて困り顔で悩む者もいる。
厨房を預かる料理人達だ。
「しかし、陛下をもてなす為に用意してた食材、無駄になっちまいましたねえ……」
「そうだなぁ。1から10まで何もかも、最高級品を揃えたってのに」
「全くだ。旦那様も奥様も、普段からきっちり予算を組んで浪費を慎んで、ちょっとやそっとじゃ家が傾かないようにして下さってるが……」
「ああ。こんな形で歓待費の一部や食材が無駄になっちまうのは、なんとも気分が悪いわなぁ」
料理人達は、目の前にある食材の山を前にため息をつく。
国主の来訪というのは、上位貴族の名家でも滅多にない、超がつくほどの一大イベントである。
一度の食事においても、食べ切れないほどの料理を山と作り、長大なテーブルの上に所狭しと並べる事で、王に対する歓待の意を示すのがこの国の貴族の習わしだ。
無論の事、余った食材や残った料理は使用人達で分け合ったり、近隣の町村へ「王からの下賜」という名目で下げ渡すのが通例なのだが、肝心の王の来訪がないままではその理由は使えず、よしんば「公爵からの下賜」と建前を言い換えて下げ渡しを行うにしても、そもそもこの邸に仕えている人員だけでは、とてもじゃないが食材の運搬を行い切れない。
正直その点に関して、彼らは完全に国王側のマンパワーを当てにしていた。
また、王侯貴族から平民に対して何かしらの下賜を行う場合、まずは下賜に先んじてそれに相応しい場を設け、代表者に目録を手渡す所から始める必要があるので、それもまた面倒だ。
王侯貴族の慣習とは、何から何まで体面を優先させて行わねばならない、面倒事のオンパレードなのである。
元が平民である料理長や料理人達は、それらの慣習に辟易するばかりだが、まさかそれを面と向かって主に言う訳にもいかない。
料理人達が、どうしたものかと頭を抱えていると、丁度そこに、専属の侍女アナを連れた公爵夫人――ニアージュが顔を出した。
「あら。みんなどうしたの?」
「え、ああ、奥様。実はですね……」
料理長が今の状況を掻い摘んで説明すると、ニアージュは「ああ、成程ね」と苦笑しながらうなづく。
「ある程度は、この家のみんなで食べるとして……食べ切れない分は仕方がないから、ここは一番近場にある村の人達に声をかけて、取りに来てもらいましょう」
「しかし、それでは……」
「そうね。本当、お貴族様っていうのは面倒な事が好きよね。けど、もう下賜がどうこうとか、体面がどうだのなんて言ってる場合じゃないわ。食べ物を無駄にするなんて、あってはいけない事だもの。
旦那様に事情をお話して、氷室に納めてある氷を使わせてもらいましょう。調理していない食材を氷で冷やして、そのまま持って行ってもらえば、この暑い時期でも多少日持ちするようにできるはずよ」
「氷室の氷を、ですか」
料理長が難しい顔をする。
科学技術が立ち遅れているこの世界には、当然ながら製氷機も冷凍庫も存在しない。
なので、生ものを保存したい時には魔法使い協会に連絡し、氷魔法を使える魔法使いに頼んで氷を出してもらい、それを使って食材の保存を行う。
しかしながら、そうするには魔法使い協会に出張費を払わねばならない上、出してもらう氷も有料で割高だ。
そして当然、出してもらう氷の量が増えれば増えるほど、それに比例して料金もかさんでいく為、魔法使いの氷を利用できる者は限られる。
魔法使いを呼んで氷を買えるのは、規模の大きな商会やその傘下にある料理店、後は王侯貴族くらいのものなのである。
他にも一応、山中深くにある湖が冬場に凍るのを待ち、出来上がった天然氷を切り出して保管しておく、という方法も大々的に取られているようだが、人件費や運送費、維持保管費などがかかる為、結局高級品である事に変わりはない。
また、天然氷の方が魔法で出した氷よりも固く溶けにくい、という、保冷に優れた特性を持つものの、毎年出来や採れる数が異なり、安定供給が難しい事から、魔法使いに出してもらうより値が張るパターンが多いのだそうだ。
ただし、この世界の天然氷は衛生管理がきちんとされておらず、氷の中に土や木屑、何かの木の枝葉、場合によっては虫が混じっている事も珍しくなく、到底食用にはできないらしいが。
なお、時々夏場に涼を欲して、かき氷を作る為に氷魔法の使い手を呼ぶ貴族もいるそうだが、エフォール公爵家ではやっていない。
ニアージュは内心、ドレスもアクセサリーも要らないから、自分の為の予算の一部をかき氷代に置き換えたいとさえ思っていたのだが、それはある意味、装飾品を買う以上の贅沢だと分かり、打ちひしがれたのはつい先日の事。
(計算上、かき氷1杯食べるのに、何万円も出す格好になるってのは、流石にねえ……)
料理長と話しているうちに、以前かき氷食べたさから色々と計算した所、とんでもない計算結果が出てしまい、領民の血税を消え物の為に使う訳にはいかないと、泣く泣く諦めた時の事を思い出し、思わず遠い目をしてしまう。
ドレスやアクセサリーは侍女に下げ渡せるし、場合によっては売りに出す事もできる。それすなわち、国の経済活動の一助になるという事だ。
だが、かき氷は一度買って食べてしまえばそれまでである。
ニアージュの腹の中に消えた後は何も残らないし、誰にも何も還元されない。
王国の経済を回すべき立場にある貴族として、どちらを優先して買うべきなのか。
そんなもの、誰に聞かずとも分かり切った話であろう。
そもそもニアージュ自身、元々田舎暮らしの平民で、納税する側の苦労を嫌というほどよく知っているだけに、そんな無意味な我が儘など、口が裂けても言えない。
税を納めている領民にも申し訳ないが、その税を取りまとめ、民の暮らし向きを少しでも良くするべく、日々税の使い道を思案し、様々な試算を繰り返しているアドラシオンにも申し訳ない事だ。
(いかん。話がずれてるわよ、私)
ニアージュは軽くかぶりを振って、余計な情報を頭から追い出した。
「あなたの言いたい事は分かるわ。でもそれでも、できうる限りの事をやらなければ。今この場にある食べ物を無駄にする事は、領民の税を無駄にするのと同じ事よ。
大丈夫、もし旦那様に難色を示されてしまっても、私が説得する。使った氷を私個人の予算で補填するだけの余裕はあるから、それを元に交渉すればいいだけよ」
「奥様……」
「まずは、氷室の中にある氷の在庫を確認しましょう。それによって話が幾らか変わってくるものね」
「分かりました。まずは在庫の確認をしましょう」
ニアージュと料理長は互いにうなづき合い、氷室がある地下室に向かって歩き出す。
氷室の氷を、単なる一個人の嗜好品として消費するのは憚られるが、日本円に換算して何百万もの資金をかけて購入した、食材の数々をむざむざ腐らせない為に氷を消費するのならば、アドラシオンもきっと理解を示してくれるはずだ。
そう確信し、ニアージュは早足に地下室へ向かう。
足を向けた地下室の氷室で信じられない光景を目の当たりにし、絶句する事になるとは露ほども思わぬまま。
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