世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

11-13.迎えた朝

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 ……その目覚めを一言で表すなら『最悪』と称しただろう。
 真っ先に感じたのは、喉の違和感。それから倦怠感と、節々の痛みも。悪寒か熱感があれば、ひどい風邪だと誤認していただろう。
 ついでに言うなら目だって腫れぼったくて、指先一つ動かせる気がしない。
 いよいよここで死ぬのか、なんて迫る悲壮感は、手に当たる柔らかな感触によって引き戻されていく。
 ゆっくりと開いていく目蓋。差し込む光は、太陽の自然光ではなく部屋の照明。
 瞬く度に焦点が合う視界で、目に入るのは見覚えのある家具たち。
 朽ちかけていた机や椅子ではなく、煌びやかな装飾の施された物。手足を伸ばしても広々としたベッド。
 ここがどこかを思い出して、自分が何をしていたか考えるよりも先に、影が動く。

「……起きた?」

 近すぎて認識できなかったもの。ベッドに腰掛け、クラロを見つめていた深紅と視線が絡む。
 逃げなければならなかった相手。逃げたくなかった存在。捨てられたくないからこそ、自分から手放して……それでも、本当は戻りたいと願った場所。
 電撃のように駆け巡る記憶に肩が跳ねたクラロを、待ち続けていた男が柔らかく微笑む。

「おはよう、クラロ」

 指の背が頬を撫で、泣きはらして赤くなった目元を辿っていく。
 まるで壊れ物に触るように優しく、擽るようにそっと。たったそれだけで肌が粟立ち、呼び起こされる感覚に息を吐く。
 心地良さと、気持ちよさと。何度も気を失いながら、それでも終わらなかった行為の名残を呼び起こされ。きゅう、と疼いた奥から鈍い重みと甘い痺れが襲いかかる。
 泣き叫び、喚き。それでもしがみ付いて、何度も何度も求めて。ただ満たされていく幸福感が蘇り、クラロの肌を赤く染めていく。
 もし身体が動けば、シーツの中に潜り込んでいただろう。思い出す痴態を振り払う気力もなく、頬を手に擦りつけたのも甘える仕草にしか見えない。
 クスクスと笑う声に追い立てられ、定まっていたはずの視界がまた涙でにじみそうになる。

「っ……げほっ……ぅ……」
「さて、体調は……よくはなさそうだ」

 有言実行とはいえ、無理をさせた自覚はあるのか。痛みに狭めた眉間が、労る指でゆっくりとほどけていく。
 触れられるのも、見つめられるのも嬉しくて。嘘ではないのに、どこか満ち足りない。与えられれば与えられるほどに、胸の奥が掴まれたように痛む。
 まるで底に穴が空いているようだ。どれだけ注がれてもこぼれ落ちてしまう。それを塞ぐだけの術を、クラロはまだ持っていない。

「喉痛いでしょ? 水を持ってくるから、ちょっと待ってて」
「――ぁ、」

 手が離れれば、与えられた温度が途端に冷めて、向けられた背を見た瞬間に手を伸ばす。
 動かないと思っていた指は辛うじて引っ掛かった服を掴み、剥がされないように、しがみ付く。
 く、と引かれる感覚。違和感に気付き、振り返ったウェルゼイが再び自分を見た事への安堵と、この一瞬でも怯えてしまった事実。
 どちらも呑みこみきれずに、噛み締めた唇を見つめる男が呼びかける。

「クラロ?」

 たった三文字。それだけで、こんなにも簡単に嬉しくなって、それ以上に苦しい。
 クラロ自身、この感情が依存か愛か、区別はついていない。愛していると囁かれ続け、刷り込まれた結果かもしれない。
 あまりにも些細なことを褒められ続け、懐いただけと言われたって否定できない。
 それでも、この男から離れたくないと認めてしまったから。そう伝えてしまったから、逃げることも抑えることも、もうクラロにはできない。

「……や、だ」

 無意識の抑制から解放されても、正気のままその言葉を紡ぐのはあまりに重い。
 自分の弱さを曝け出しているような、無防備にされていくような、そんな錯覚を抱いてしまう。
 もう全て知られていて、隠しようもないとわかっているのに。

「はなれ、ないって……言った……」

 それでも、離したくないから引き寄せようとして。近付けることも、近づくこともままならず、シーツに落ちた頭を撫でられる感覚が目を滲ませる。

「大丈夫、お水を取りに行くだけだよ」
「……や」

 埋めたままの首を動かし、精一杯の否定を示す。
 離れる理由も分かっている。すぐに戻ってくることだって、理解している。それでも、込み上げてくる喪失感に耐えられなくて、子どものように駄々を捏ねてしまう。
 そんな我が儘に降り注ぐ声は呆れたものではなく、漏れる息はクラロに与えているものと同じ柔らかく、温かいもの。

「ふ、ふふ……しょうがないなぁ」

 困ったような言葉を紡ぐのは、嬉しさの勝る声。甘く、蕩ける音色で囁いて、ベッドが緩やかに沈む。
 クラロの身体を乗り越えて、反対側。中央に移る間に指が剥がれても、撫でる手は添えられたまま。

「ほら、おいで」

 抱き寄せられて、腕の中。胡座の中で横抱きにされたクラロに差し出される一杯の水。
 独りでに浮かんだそれを受け止めれば下から支えられ、傾けられるままに喉を潤す。
 程よく冷えた水は微かに苦く、馴染み深い味に薬草が入っていると気付いて、さりげない配慮に胸の中が温かい。

「一杯で足りる? もっと?」

 あっという間にグラスは空に。末端にまで染み渡る感覚に息を吐けば、おかわりを促され、考えるまでもなく腕はウェルゼイの背中に回される。
 ギュウギュウと隙間無く触れ合って。それでも、まだ足りない。……まだ、満たされない。

「ふふっ……そっち?」

 グラスは独りでに浮かび、テーブルの上に。空いた手がクラロの身体を包み込んで、同じだけの力で頭を撫でる。
 指先に髪を絡ませ、耳を撫で、首を掠めて。戯れながら、触れ合いながら、笑う声は途切れない。

「困ったなぁ。こんなに可愛かったら、なんでも言うこと聞いちゃいそう」

 つむじに与えられる口付け。落とされる甘い囁きに、じわじわと呼び起こされる欲。
 歯止めは既に失われ、求めるのは空虚感を満たすだけの何か。
 どうすればそこが埋まるのか、クラロは知らない。
 ……でも、ウェルゼイにしか埋められないことを、クラロは、分かっている。

「……みるく、らむ」
「うん?」
「ミルクラム。……食べさせてくれるって、言った」

 もう、そうやって勧誘されたことが、何年も昔に思える。
 あの時も、クラロが危険に冒されなければ待つつもりだったのだろう。
 それこそ、何ヶ月でも、何年でも。クラロが受け入れるまで、ずっと。

「そんなに気に入ってたの? いいよ。食べたいならいつだって用意してあげるし、他の美味しい物も食べさせてあげる」

 脈略のない我が儘に対し、思い出す素振りもないのは覚えているからだ。
 別に本当に食べたいわけじゃない。ただ、埋める手段を探しているだけ。

「前食べたクッキーも欲しい」
「執務室に常備しておくよ。他の焼き菓子も一緒に置いてあげる」
「服も、細工のないやつがいい」
「うーん、便利だったけど仕方ないなぁ。新しいのを作るまでは、普通のシャツでいい?」
「……貞操帯も、直してくれるって言った」
「それならもう直ってるよ。付けるかは君の気分次第だけど」

 最後に至っては、約束もしていないうえに、ウェルゼイにとっては邪魔でしかない。
 だが、クラロがそれに依存していたと知っていたからこそ。大切にしていたと理解していたからこそ、直してくれた。
 自分を守るための、唯一の盾。これまでクラロの正気を保ち続けていた防具。……今はもう、必要のないもの。

「……ふふっ」

 首を振り、否定し。より強く身体に抱きつけば、笑う息が鼓膜を擽る。本当に嬉しいときの、少し癖のある笑い方。
 それに気付いたのはもうずっと前。ただ、それすらも目を逸らしていただけ。

「お揃いの指輪、作るって、言った」
「もちろん。君の色に合わせた、僕の恋人だって見せつける為の指輪をね。できあがったら僕の分は君に嵌めてもらうつもりだよ」

 腕に軽く触れられ、手を取られて。捨てることのできなかった指輪に口付けられれば、それ以上言葉は出ない。
 これだけ言っても埋まりきらず、不安で、苦しくて。嬉しいのに、幸せなのに、辛い。

「ねぇ、クラロ。他は何が欲しい? どうすれば安心できる?」

 だが、声に出せなくても男は分かっている。どれだけ深く身体を繋げても、抑止という呪いがとけた今も、クラロがまだ怯えていることを。不安だと感じていることを、理解している。
 ずっと見守っていたから。ずっと、クラロだけを見続けていたから。

「このまま、君が満足できるまでこの部屋で一緒に過ごそうか。それとも、もっといっぱい気持ちいいことをする? 話したいことも、聞きたいこともいっぱいあるし、してあげたいことも数え切れないぐらいあるんだ。時間なんて、どれだけあっても足りないぐらいにね」

 一つずつ、言われた順に考えて。どうすれば胸の痛みがなくなるか、当て嵌めてみて。
 結局、根本に残る願いだけが、より浮き彫りになっただけ。

「……ずっと、一緒にいて」

 満足できるまで、ではない。そんな日はきっとこないだろう。
 これだけ近くにいても、抱きしめても、もう怯えることはないと分かっているのに、満たされない。
 疑っている。彼をではない。いつか訪れる未来を。今はそうでも、いつか、来るかもしれない結末を。
 やっぱりもう飽きたと、笑って紡がれる別れを。今はどれだけ夢中でも、淫魔と人間である限りその感覚は埋まらない。
 人間である自分が、淫魔である彼を理解しきることは。その性質を納得することは、きっと、できないのだから。

「まだ捨てられると思ってる?」

 引き摺り出された本音に、横に首を振る。嘘ではなくて、でも本音でもない。信じているけど、信じられない。

「……こわ、い」

 信じるのが、怖い。これが不変と思うほど愚かにはなれない。
 どれだけしがみ付いても、抱きしめても、離れたくないと思ったって。いつかは、来てしまう。
 そうだとクラロは知っている。その予感が嘘ではないと、分かっている。
 クラロが人間である限り、いつか、絶対に。

「うーん……そうだなぁ……」

 ここまでしても、まだ信じてくれないのかと。そんな怒りは欠片もなく、それこそ本当に困ったように呟き、考える声に混ざる若干の喜び。

「ねえ、クラロ」

 離れたくないと苦しむクラロを。それだけ自分と一緒にいたいと望んでいる恋人を、どうやったら救えるのかと考えて……もうその答えはあるのだと、髪を撫でる男が顎をすくう。
 導かれた先。見上げた赤は蕩け、輝き。少しだけ困った顔で、それでも笑いながら。

「これはお願いじゃなくて提案なんだけど……ちょっと人間やめてみない?」

 問いかけた男の笑みは、瞬く水色を見て深まった。
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