世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第二章

8-9.治療の後で

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「……で?」
「ん?」
「淫魔サマがたは、実力主義ではなかったですかね?」

 爽やかな鳥の声。穏やかな朝の訪れと、迎えたくなかった景色。
 いつものように見慣れた天井……ではなく、気を失う前と同じ豪華な室内。
 一人で寝るには広すぎる寝台の中、質の良すぎる服に着替えさせられていることに、今更どうして驚けようか。
 忌々しい熱は嘘のように消え失せ、残っているのは若干の気怠さ。
 喉も頭も痛くはないので、アモルが剥いているリンゴは正直に言って不要なもの。
 突っ込むだけの気力はまだ残っていないと絞り出した問いに、同じベッドに腰掛けた男が目を瞬かせる。

「実力主義には間違いないけど、嫉妬とか憧れとか、そういうのが絡むのは人間と変わりないからね」
「より強い相手との子孫を残そうとするのは、魔族としての本能もあるッスねぇ。で、今回のはベゼ様を思慕している馬鹿がしでかしたこと……って訳ッス」

 困ったものだと、剥いたばかりのリンゴを差し出され。唇に押し当てられる冷たさと、発言の両方に眉を寄せる。

「ただの奴隷に嫉妬?」
「単に力で敵わないから嫌がらせとか……あ、滅多に夢中にならないくせに関心を集めていることへの嫉妬と言えばそうッスかね? 君たちにもあるでしょ? ペットの方が可愛いから結婚しない、っていう奴。本人はよくても周りはそうはいかない……とまぁ、馬鹿の考えることはわかんないけど」

 わかりたくはないし、わかることもないだろう。
 確実に言えるのは、唇に押しつけてくるリンゴを離してほしいのと、本当に面倒なことに巻き込まれているという事実。
 淫魔が奴隷を気に入るなんて日常茶飯事。他の魔王の子息にもそれぞれお気に入りがいるというのに、本当に何を血迷ったのだろうか。

「……言っただろう、面倒な奴らがいるって。釘も刺していたし、対策もしていたんだけど、あそこまで馬鹿とは思ってなかった」

 本当に、ここまでするとは想定していなかったのだろう。吐き捨てた言葉も、笑っていない視線も、その内を隠すことなく表したもの。

「首謀者はまだ特定できてないけど、関与した奴らはアモルに搾らせてるから、もう少し待ってね」
「クラロ君のご飯が終わったら、また作業に戻るッス。……あ、村の監視役は本当に無関係っぽかったんで、適当に遊んでから解放するッスね」

 真に巻き込まれたのはあの淫魔ということか。職務を全うしただけなのに仕置きを受けるとは。
 だが、同情する余地はない。これもまた、淫魔たちの社会では起こり得ることだ。
 真に恨むべきは、巻き込んだ首謀者だと。しつこく押しつけられるリンゴを指で引き抜き、皿ごと奪い取る。

「……やっぱり、信じられない?」

 残念がる声は隣から。苦笑は、覗き込む赤から。
 都合がよすぎることはお互いに。全てが上手く噛み合って、疑わない要素がむしろないほど。
 これまでの前科もある。ここで馬鹿正直に助かったなんて、今でも思うことはできない。
 今の表情だって、クラロを騙すための演技かもしれない。この男を信じる要素は、一つだってないはずで。

「……あんた、なら」

 それでも、声を出すのは。絆されたからでも、騙されたからでもなく、自分の考えを整えるためだ。
 思い込みで真実を濁らせないように。決して、同じことが繰り返されないように。
 なにが最善で、自分が今、何をするべきか。考えるために、必要だから。
 それ以上の意味はないのだと、言い聞かせている時点でおかしいことに、目を瞑りながら。

「あんなまどろっこしいこと、しないだろ」

 指先でリンゴを回し、ウサギに見立てた皮を眺める。それよりもずっと濃い赤は、左手に収まったまま。

「村に連れて行くのが目的なら、あんたの手で直接連れて行ったはずだ。どんな反応をするか、あんたが見ないはずがない。……それに、本当に俺を壊したかったなら、馬車で見つけた時点で見捨てればよかったんだ。助けを求めてほしいなら、連れ帰ってからでも遅くなかった。でも、あんたは治療を優先させて、だから…………とにかく、全部、まどろっこしい」

 考える要素が多すぎる時点で、この男らしかぬことだ。本当に転移させたかったのなら、アモルを使うぐらいはしただろう。
 だから、この男の可能性は低い。だから、クラロはその馬鹿どもに巻き込まれてしまっただけ。

「……だから、あんたじゃないんだろ。多分」

 頭からかじりついたウサギは甘酸っぱく、血肉の代わりに果汁が舌を満たす。
 胸の不快感を有耶無耶にしようとして喰らったはずの二匹目は、膝に乗り上げる黒のせいで逃げ出してしまった。

「っ、なん……」

 くぐもった溜め息。否、抑えきれぬ笑いがシーツ越しに足を擽り、それから赤が覗く。

「ふ、ふふ、そっか。……そっかぁ」

 キラキラと光るそれは、まるで純粋に喜ぶ子どもと同じで。直視したくないはずなのに、奪われた瞳を取り返せぬまま、ウサギは皿ごと奪われる。

「でも、一つだけ訂正させてほしいな」
「やっぱり自分だったと認めますか?」
「まさか。……たとえ僕だったとしても、あの村に君を連れて行くつもりは一切なかったよ」

 光が近づく。するりと絡む指、堅い違和感。なぞられた薬指に宿る熱。蘇るのは、まだ浅い記憶。

「だって、君はもうあそこには戻りたくなかっただろう?」

 強張る青に、もう赤は笑わず。強張りをほどくように、弱く握られる手が、柔らかな感覚を思い出させていく。

「……戻る意味が、ないだけです」

 もうあの場にクラロの居場所はなく。全ては過去のこと。
 友に裏切られたことも、誰にも助けてもらえなかったことも。
 そして、これからクラロが彼らを裏切ることも。全部、全部。どうしようもなかったこと。
 育ててもらった恩は、あの夜に突き出されたことで清算された。人類への希望は、クラロが匿われるずっと前から断たれていた。
 もうどうにもならなかった。彼らを憎んだとて何にもならなかった。だから、戻る必要もなかった。
 仕方のないことだったから、だから、

「うん、そうだね」

 力のこもる指をほどくように、男の手に力が入る。広げられる関節の痛みは一瞬。緩んだ中に、ひたりと寄り添う手の平の温度。

「分かっているよ。だから、僕もそうしたくなかった。……大丈夫」

 汗ばむ内を拭うことができないかわりに、息をする。深く満たす空気は、そこでやっとクラロに冷静さを取り戻させた。
 意識して、もう一度。こんな姿だって、前なら見せたくないと足掻いていたはずなのに。今はもう、抵抗感すら抱けなくなっているとは。
 ……それほど弱っていた、と。その言い訳すら、虚しく。

「……あの村を、どうするつもりですか」
「気になる?」
「あなた方が、意味もなく人間を管理しているとは思えませんから」

 否定はしない。だが、肯定もしない。目を開いてもチラつく光景に青は細まり、赤は微笑む。

「他に管理している村と合併させて、最終的には定期的に一定数を放出って感じかな。僕らのための教育も行うけど、君たちの歴史も大事にしないと」
「功労者には自由をと謳って、まんまと喰われる様を眺めるつもりで?」
「従順な人間ばっかりじゃ味気ないからね。かといって抵抗されてばっかりでも、それはそれで困る。……ある程度把握ができれば、厳密に管理するつもりはないよ」

 他の村が、どれほど残っているか。この男が目指している形がどれだけ歪なのか、クラロは知る由もない。
 希望をぶら下げ、必死になる様を眺め。そうして、自分たちが囚われていた場所こそが最も安全だったと気付かされる。なんと滑稽な見世物だろう。
 いや、騙さずとも一定数を外に放出することも考えられる。それこそ、奉公だと称して城に連行することだってできるだろう。
 泣き喚き、恐怖し、無駄な抵抗を繰り返し。そうやって足掻く様を、彼らはこの男と同じように笑うのだろう。

「より長く愉しむために?」
「そう、この先もずっとね。……さてと」

 指が離れ、対話は終わる。吐いた息は冷めていく熱か、呆れからだったのか。

「もう少しこうしていたいけど、そろそろ仕事に戻るよ。いい子で待っててね」
「お昼ご飯になったら、また来るッスからね」

 もう来なくていい、と言えないのは、ここが自室でないからだ。
 淫魔除けの効能はとっくに切れ、香油は自室の隠し場所。現在地はともかく、今の姿で向かうのは自殺行為。

「……今回は何日ですか」

『朝這い』事件では一週間で済んだが、体感としてはほんの数日。
 意識もあるし、体調も良くなっているクラロが看病を受けるいわれはない。
 念のためであっても、せいぜい一日がいいところ。ただでさえこの男に連れ込まれているのだ、噂は余計に広まっている。

「ん? ずっとだけど」
「……は?」

 嫌味代わりの問いかけ。あるいは、分かりきった確認とも言えただろう。
 それが否定されるなど想定していなかったと、聞き直したクラロを誰が責めただろう。

「荷物は全部そこに置いてあるし、必要なものがあったら後で教えてくれたらアモルに届けさせる。あ、トイレはそこにあるから、僕が許すまで部屋から出ないように」
「え? いや、そうじゃなくて、」

 指差した先には、クラロの自室にある本や道具の類が整然と置かれているし、トイレらしき物体……いや、箱も確かに存在している。
 その道具の中に最もあるべき香油が見えないことは、この際置いておく。問題は、これらがここにあるという事実。

「首謀者が見つかってないのに出歩いてたら、また同じ事が起きるかもしれないだろう? 君の安全のためだ。勝手に出ていったらさすがにお仕置きするからね」
「えっ! じゃあオイラ試したい道具とかあるんッスけど、いいッスよね!?」
「……うん、乳首ならいいよ」

 いいやよくない。全くもって何もよくない。
 ヤッター! と喜ぶ姿こそ無邪気な子どもだが、その内容を知っているだけに何も微笑ましくはない。
 割と本気で悩むことでもないはずだ。いや、そうではなく。そうでは、なく!

「何を勝手に――!」
「それに、君も言っただろ?」

 ベッドから飛び降りるよりも早く、押された肩がベッドに縫い付けられる。
 覗き込む瞳。ドロリと蕩ける深い赤。優しさも温かさもない、されど熱くて甘い、歓喜に満ちる光。

「僕が、君の、ご主人様だって」

 ねぇ、と。確かめるように注ぎ込まれる吐息。反射的に否定しかけて、蘇るのは昨晩の一瞬。
 指輪に弾かれ、怯んだ淫魔に対し、自分が何を言ったか。

「あれは違っ……!」
「さ、はやく『散歩』ができるように面倒な奴らを片付けてこないとね」
「一応鍵はかけとくけど、ちゃんと待ってるんッスよ~!」

 飛び起きたときには既に遅く、二人の姿は扉の向こう。ガチャンと響く施錠は、当たり前ながら外から閉じ込められたことを示すもので。
 行き場のない否定。わなわなと震える唇。込み上げるのは言質を取られた事実と、噂が真実になってしまう焦り。そして、既に男の中で決定事項となっている『散歩』への恐怖。
 狙っていたわけではないだろう。これは本当に事故で、男が望んでいた展開ではなかった。
 つまり、これは……完全に、男にとっての副産物で。完全にクラロの、失態で。

「っ――くそっ!」

 全ての感情を込めた一撃は、当然あの男に届くことはなく。受け止めたシーツの情けない音だけが、虚しく響いた。
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☆新作☆

そうして『兎』は愛を知る

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