世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第一章

5-1.書類整理

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 囁く声が止まない。前から、後ろから。進む毎に増える頻度も、その内容は同じ物。
 あれが噂の。あんな奴隷がどうして。何かの間違いだ。
 まるで示し合わせたように繰り返されるのは、どれもクラロに対するものばかり。
 もう今となってはその疑問に同意することはなく、理由を知っているからこそ、平然と歩ける。
 あのヴェルゼイ様が、あのゲテモノを食事会に招いた。その事実は、きっと矢よりも早く広まったことだろう。
 上と下の区別なく、城中がその話で持ちきり。淫魔様も奴隷も隔てなく、その正誤を見極められずに戸惑う者ばかり。
 それが事実と知っているのは、クラロをあの場所に連れて来るまで協力した同僚たちと、案内を務めたアモル。そして、当の本人たち。
 同僚たちも表立って聞いてくることはなかったが、そわそわと落ち着きのない一日ではあった。
 気にはなるが、自分から問いかけることはできず。さりげなく聞き出そうにも、話題の振り方はあまりにも下手。
 無理もない。洗い場は城勤めの奴隷の中でも最下層。それも、誰にも使ってもらえないと哀れんでいた男が、魔王に次ぐ実力者に気に入られているなんて。
 娯楽小説でも、もっとまともな筋書きを用意するだろう。否、事実は小説よりも奇なり、であったか。
 奴隷からすれば、夢にまで見た大抜擢。上位どころか、個人で可愛がってもらえるなんて、本来なら名誉なことだ。
 嫉妬と、祝福と、困惑。複雑な感情を一身に受け続けるのと、こうして淫魔たちから囁かれ続けるのとどちらがマシかと考え、遅かれ早かれこうなっていたと思考を諦める。
 無意味なことだ。食事会に呼んだ時点では、クラロを堕としきるつもりだったはず。機を逃しただけで、あの男はまた仕掛けてくるだろう。
 だから、この噂がどれだけ広がろうと、どんな尾ひれが付こうとも関係ない。それは、近いうちに事実になるのだから。

 今回の食事会は、上級になったばかりの奴隷を食うのとは意味合いが違う。明らかに個人を気に入って喰らうためのものだ。
 それ自体は珍しいことではない。誰かに取られる前に自分の専属にするのは、この世界では当たり前の事。
 取られたと騒ぐ奴には、先に手を出さない方が悪いのだと言う反論が正当化されているほどだ。実力主義の淫魔らしい一面。
『食事会』を行うということは、自分が手を付けているのだと示すと同義。自分よりも劣っている淫魔が手を出さぬように牽制する意味合いも含まれている。
 だからこそ、あれは事実上の死刑宣告。そうでなければ、あんな公然の場で分かりやすく誘うはずがないのだ。
 まだ遊ぶつもりだったなら。あそこでクラロを、まだ堕とさないつもりだったのなら。
 ……だから、今こうして逃げられたのは、クラロの体質と彼の気まぐれによって成り立ったもの。
 抗おうと思えなかった、その事実に今更恐怖が込み上げる。震えは拳で握り潰そうと、感情自体を誤魔化すことはできない。
 どれだけ耐性を付けようと、所詮は人間の抵抗。勇者たちでさえ敵わなかった相手に、ろくな対抗策もない人間が敵うはずがない。
 どれだけ力を注ごうと、持てる全ての知恵を駆使しようと、それを簡単に陵駕するのが淫魔という存在。
 抵抗する者はまだ確かに存在している。だが、それ以上に諦めてしまった者の方が多い。
 だからこそ、奴隷の仕組みは成り立ち、彼らは自分に言い聞かせて生きているのだ。
 淫魔様に喜んでもらうことこそ、自分たちの幸福なのだと。
 刷り込みと、洗脳。まだ生き物として扱ってもらえる環境。
 力を持たぬ者に、それでも戦えというのは酷なことだ。だから、彼らを責めることはできない。誰も責める権利はない。
 クラロが続けている抵抗だって、本当は全部無意味だと分かっている。ここまで噂が広がれば、もう時間の問題だろう。
 辛うじて貞操帯は破られていないが……それだって、相手が『下』を諦めれば意味のない物になってしまう。
 手札はほとんど開かれ、残るは最終手段のみ。もう、それに踏み入るべき段階にまで来ている。
 これ以上ここにいても、いつか堕とされると。もう抵抗など無意味なのだと。
 クラロは分かっている。理解している。逃げるためのいいわけではなく、それは間違いなく事実なのだと。

 ……だが、同時に。逃げるわけにはいかないのだと、強い衝動がこの場に引き止める。
 堕ちるわけにはいかない、だから抵抗を止めることはできない。最終手段をとるわけにはいかない、それは見捨てることと同義なのだから。
 それはクラロ意思ではなく、義務めいたなにか。言葉では表せられない焦燥感は、それこそクラロをクラロたらしめる何かだ。
 刻みつけられた使命。期待。希望。身勝手だとはね除けたいはずなのに、それらは容赦なくクラロの心臓を縛りつけるもの。
 手放したくても、しがみついて剥がれない。解放されることのない苦痛。されど、クラロは耐えなければならない。
 耐えて、耐えて、耐え抜いて。そうして、抗い続けなければならないのだ。
 無駄だと分かっていても、意味がないと知っていても。それが、クラロを突き動かし続ける限り、永遠に。

 溜め息を飲み込み、代わりに叩きつけた扉から聞こえる声はなく。想定通りの反応に、そのままノブを捻る。
 誰かとの会話。紙面にペン先を滑らせる音。賑やか、というには足りぬ空間は、些細な音の積み重ねによって構成されたもの。
 久しく訪れても変わることのない光景は、誰かがクラロの入室に気付くまでは続いていた。
 一斉に静まる空間。それからすぐに、もう何度も聞いてきた囁き声はあちらこちらから。
 想定していた反応に今更思う事はなく、鼻から抜けた息が彼らの鼓膜を叩くこともない。

「失礼しますぅ~。今日はこっちでお勤めしろど伺ったはんで」

 好奇に混ざる嫌悪の瞳。舌を打つ音は幻聴ではなく、むしろクラロにとっては馴染み深いものだ。
 今日の勤務は、稀によくある、上級区間での書類処理。
 本来なら上級奴隷が請け負う業務だが、数ヶ月に一度の頻度でクラロの元に要請が来る。
 そもそも、ここで行う事務作業に限らず、大半の行為に意味はない。既に人間社会ではなくなり、淫魔が国を運営している時点で必要のなくなったことが大半。
 全てがそうとは言わないが、いわゆる旧世代の真似事と言ってもいい。上級奴隷が請け負うというのも、書類整理を行うための個室を与える口実でしかない。
 仕事中でも合法的に奴隷を喰らうための方便と言えば分かりやすいか。
 そんなことを言えば、下級区域では制限を設けずあっちこっちで嬌声も飛び交っているが、立場が上になればなるほどに制限を設けたがる傾向にあるらしい。
『食事会』しかり、この書類整理しかり。その基準も思考もクラロには理解できない。
 ハッキリとしているのは、そんな中でも処理しなければならない書類は存在し、それを押しつけるために自分が呼ばれたということ。
 近くに置くのも不快な匂いも、個室に閉じ込めておけば問題はない。視界に入らず、しかも仕事は片づく。淫魔様にとってはイイコトずくめということだ。
 そして、今のクラロにとっても。一人でいられることは楽であり、大量の仕事が待ち構えているのなら無駄なことを考える必要もない。
 まさに、Win-Winの関係というもの。

 とっとと行けと、顎で差された方向は部屋の最も奥にある扉。聞かずとも分かっていたが、想定通りであることにこんなにも安心できるなんて。
 これで左右からの囁きがなければもっとよかったのに、なんて思うつもりはない。
 早足で通り抜け、扉の中に滑り込む。部屋の照明を灯せば、そこにも馴染み深い光景が待っているはずだった。
 長い間使われていないことを示す、ほこりっぽい空間。窓もなく、あるのは広めの机と椅子が一つずつ。机の横は人一人分が通れるだけの隙間はあったが、それでも広いとは決して言えない空間。
 一人だけなら充分でも、本来の使い方を考えると二人が限度か。
 見慣れた場所。見慣れた光景。机上に置かれた山のような紙束だって、クラロにとっては普段通り。
 だから、眉を寄せたのはその多さではなく……その量があまりに少なかったからだ。
 いつだってここに来るときは、数えられる程度の山では済んでいない。
 もはや手元を確保するのさえ難しいほどの量に加え、崩れ落ちた書類が床という名の海を漂っているほど。
 確かに崩れているものもあるが、床の大半を認識できている時点で少なすぎる。
 他の奴隷が片付けたとは思えない。かといって、押しつけられた書類の数が減ったとも考えられない。
 浮かぶ可能性は、数日前の食事会。未遂に終わった行為。そのための、個室。
 額を押さえ、今度こそ深く息を吐く。そう、あの程度で終わるはずがない。

 あの男は、また遊ぶと言っていた。だから、諦めたのではなく、機を改めただけ。
 状況はずっとクラロの方が悪く、少しでも興が削がれればいつだってこの遊びは終わらせることができる。
 ただ、あの男はクラロに付き合っているだけ。藻掻き、抵抗する様を愉しんでいるだけなのだ。
 まずは鼻で息を吸い、埃っぽさ以外に匂いがないのを確かめる。媚薬が焚かれている様子はない。
 前回ので意味がないことは気付かれているのだ。同じ手は二度も使わないだろう。
 魔術が仕込まれているかと調べてみたが、椅子にも机にも、その痕跡はない。
 散らばった書類も警戒したが、量が少ない以外の不審点は見つけられず。だからこそ、不気味で落ち着かない。
 考えすぎ、なんて楽観的な思考ができるほど気楽ではいられない。必ず何か手を出してくるはずだ。
 特別な方法でなくとも、接触は免れない。
 こんな好機を誰が逃すという。知られてマズいのはクラロだけ。むしろ、あの男は示したいのだ。
 あの奴隷は、自分の獲物なのだと。
 もう一度、今度は確かめるためではなく、落ち着くために深く息をする。度重なる埃の吸引に耐えきれず、くしゃみが一つ響いても、それだけ。
 来ると分かっているのなら、それ相応に身構えるだけだ。どちらにせよ、防げないのであればできることは一つだと。
 散らばる紙を集める間も、やはりクラロに自覚できる異変はなかったのだ。
 一つも。……一つたりとも、全く。
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☆新作☆

そうして『兎』は愛を知る

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