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第一章
2-4.望まぬ再会
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心臓が嫌な音を立てる。汗が噴き出し、振り向くはずだった足はその場に縫い付けられてしまったかのよう。
鼓膜から背筋を辿り、そうして声は腰へと響く。だが、そこに厭らしさはなく……むしろ、高貴さを窺わせる低音。
クラロは覚えている。この声を、この肌を刺す魔力の感覚を。
見たくないと拒んでも、認めたくないと思ってしまっても。この身体が、覚えてしまっている。
「手伝ってあげようと思ったんだけど……これならもう一段上のを置いておくべきだったかな?」
かつん、と靴音が床を鳴らず。クラロの背後、一本道の出口。唯一の逃げ場を塞ぐように。
振り返った先。真っ先に見えたのは血のような深い赤。クラロを見つめ、笑い、眺めるその姿。
近づくごとに髪が色を反射し、黒の中に藍色が混ざる。
カラスの翼のように美しいそれも、垂れた目蓋も、歪む口元に整えられた髭も。クラロは覚えている。覚えて、しまっている。
そうだとも。クラロのような田舎者。こんな臭くて、どうしようもない奴隷を使うような奴は滅多にいない。
いないからこそ、あの男はやばいと。次に会えばもう逃げられないと、そうわかっていた。わかっていた、はずだったのに。
ああ、なにが大丈夫だ。なにが問題ないだ。
――まんまと自分は、この男に嵌められたのだ!
「眼鏡は元に戻った?」
距離にしておおよそ五歩分。若干遠い位置で止まった男の笑みが深まる。
同じ淫魔ならばうっとりと。奴隷ならば憧れと期待に満ちて見返すだろうそれは、クラロにとっては死刑宣告にも近い。
初見を装おうとして、見越したような先制攻撃。忘れていないよね? と言わんばかりのそれに、喉が引き攣りそうになる。
めまぐるしく駆け回る脳内。空腹でろくに考えられない、なんて言える状況ではない。
このままシラを切るか? 否、そうなれば喜々として手を出してくるだろう。
『あんなに可愛かったのに、忘れちゃったの?』『なら思い出させてあげよう』
なんて、そのまま再現と称し、最後までなし崩しなのはもう見えている。
とぼけるのは不可能だ。ここでの最善は忘れたふりではなく、時間を稼ぐこと。
この時ほど前髪が下りていてよかったと考えたことはない。
ちらりと盗み見た壁。みっちりと本の詰まったそこまでの距離は、ちょうど相手との中間地点に。
あそこまで辿り着き、この場を去る。言うだけなら簡単だが、どれだけ困難かは言わずもがな。
でも、やるしかない。やらなければ、待っているのはクラロの死だ。
「――ああ、淫魔サマ! すません、こったどごろでお会いするどは思わず!」
驚いて反応が遅れたのはあくまでもそっちだと声を張り上げ、へらりと笑う。ペコペコと頭を下げ、まず一歩前に。
「邪魔すて申し訳ね! どの本がご入り用で?」
「本だなんて可愛いことを言うね。もう働いて長いんだから分かっているんだろう?」
これかな、あれかな。と探そうとした指は地面に向けられたまま。笑みは固まり、背筋に汗が伝う。
一度引っ掛かればそうと分かる。引っかける対象でなくても、長く働いていれば知っていること。
それは事実であり、おかしくはない。おかしいのは、クラロの勤務歴をこの男が知っていることだ。
出会うのはこれが二回目。一週間もあれば調べられるだろうが、ただの奴隷の詳細など、どうして調べようと思う。
「オラのごどご存知だなんて畏れ多ぇ! ただの下級奴隷です、淫魔サマに可愛がってもらえるようなモンでは……」
「ただの下級奴隷に、書庫の整理も書類の代筆も任せはしないだろう?」
謙虚だなぁ、なんて間延びする声とは対照的に鼓動はますます激しくなるし、汗だって止まらない。
書庫の整理はともかく、なぜ事務作業に呼ばれていることも知っているのか。
たしかに下級奴隷の範囲からは離れているし、任せるとすればクラロのような古参相手になる。
関わりがあったなら知っていても不思議じゃない。
だが、繰り返すがこの男は偶然知り合っただけだ。それも、普段の業務に関わるはずのない上級国民。
こんな場所にいるのがおかしいのは、自分ではなくこの男の方だ。
なのにどうして、彼がクラロの前にいるのか。どうして自分の逃げ道を塞いでいるのか。
「今日の担当のもんが『お勤め』に行っちまったんで、オラがかわりに……だはんで、淫魔サマのお目当での子はこごさには……」
「ああ、知っているよ。だからわざわざ用意したんじゃないか」
かつん、足が一歩前に。思わず後退りしかけて、堪えたのは目指す場所まであと二歩分の距離だったから。
ここで下がってはいけない。あと数歩。一瞬の隙があれば、最低でもこの袋小路からは抜け出せるのだから。
「片付くまで待って、ここから本を出して、分かりやすい場所にまで置いて。ちょっと回りくどいけど、わかっていて入っていく子を見るのはやっぱり楽しいものだね」
「大変心苦しいんですが、オラみだいなのじゃとてもお相手は務まらず……田舎臭いのがうづっちまったきゃ、それごそ他の淫魔サマさ顔向げが……」
今日だって魔除けの対策はしっかりしてきている。この距離でも十分匂っているだろう。
あの本を渡してきた淫魔サマだって、今より距離が離れていたのにあんなにも顔をしかめていたのだ。ここにいた全員も出て行くほどの悪臭。
クラロや他の人間には感じられない、耐えがたい不快感。それがどれほどのものか、クラロにはわからないし、わからないままでいたい。
ともかく、好んで抱く相手ではないはずなのに、なぜこの男はクラロに今、こうして迫ってきているのか!
表面上は穏やか、しかし胸中荒れ狂うクラロに対し、男はその笑みを絶やすことはない。
「んー……田舎臭いというよりは、薬草臭いかな」
鼻を少し鳴らし、そんなとんでもない発言を呟く口はやはり微笑んだまま。
「上手いこと調合しているようだけど、慣れてたら気付くんじゃないかなぁ」
現に自分が気付いているのだからと、追い打ちだって忘れない。息を呑み、震えを誤魔化す。そう、大抵の淫魔には気付かれたこともない。
だからなぜ、今回も普通に接してきているかがわからなかったが……ようやく納得がいった。
そして、事態はクラロが思っている以上にマズいことも。
「……研究所のお勤めだったとは、知らず」
違う意味で汗が流れる。まずい。淫魔の中でも最も避けなければならない部類にいる相手だったなんて、知っていたら何が何でも避けていた。
そりゃあ耐性もあるし嗅ぎ慣れてもいるだろう。かの戦いで人間たちの防衛手段をことごとく封じたのも彼らの発明やら研究やらの成果だという。
今こそより楽しい日々を送れる道具や薬を開発するのが主だが……魔除けの薬草について知っていたってなにもおかしくない。
というより、知っていたからこそクラロに近づいたのか。
淫魔から身を隠したいだろう相手がよもや淫魔に仕えているなんて、興味本能をくすぐるには十分過ぎる存在。
「いや、違うけど」
だが、あっさりと否定されて瞬く。
研究職員ではない。でも、モノの目処は付いている。
ならば、研究所と関わりが深い部署と考えるのが自然だが、それこそこんな場所にいるはずが……。
「まぁ、簡単にそのあたりの知識がある程度だよ。それより、もう仕事は終わったかな?」
思考する隙は与えてもらえず、首を傾げて問われるのは死刑宣告。
研究所務めだろうがそうでなかろうが、相手は淫魔に変わりない。抱かれれば知られてしまう。知られればそれこそ、本当に研究所に送られるだろう。
とにかくこの場を抜けなければ、どちらにせよクラロに未来はない!
「……大変心へずなぇんばって、他の仲間もみんな『お勤め』中で、仕事回っておらず……(大変心苦しいんですが、他の仲間もみんな『お勤め』中で、仕事が回っておらず……)」
「……ん?」
「それに、わーだきゃじゃたげご奉仕の相手なんてたげたげ! どうかご理解いだだげぃば!(それに、俺なんかじゃとてもご奉仕の相手なんてとてもとても! どうかご理解いただければ!)」
早口でまくし立てれば、さすがに意味は通じなかったのだろう。翻訳に手間取っている隙にと一気に距離を詰め、本棚に手をかける。
伊達にクラロだって長く勤めていない。逃げ道がないなら、逃げ道を作っておけばいいだけのこと。
この書庫に限らず、他にもお楽しみポイントになりそうな場所には色々と仕込んである。
実際に使う日が来るとは思っていなかったが、過去の苦労もこれで報われるというわけだ。
素早く屈み、支えを外す。そのまま軽く押せば、棚は非常口へと早変わり。
……早、変わり……?
「……ぇ」
もう一度、今度は強く。外れているのを確認して前に。
それでも棚は動かず、本はその場に留まったまま。付けた印は、間違いなく仕掛けの場所を示しているはずなのに。
「あぁ、そこだけど」
トン、と。軽い音は顔の横から。声こそ出ずとも驚き、仰け反り。その反応を深まる笑みに見下ろされても取り返しはつかず。
「壊れていたようだから、さっき直しておいたんだ。分かっていてここに来て、そこから抜けようとする子なんていないだろうけど……ね?」
そうだろうと、同意を求められても首なんて振れるわけもない。一歩下がった距離は、そのまま同じだけ詰められる。
気まぐれでも、興味本位でもなく。本当にクラロを狙っていた事実に焦りが滲む。
どうして仕掛けに気付かれたのか。いや、今はそんなことどうでもいい。
左右も後ろも棚。正面は淫魔。切り札は塞がれ、実力行使だってできやしない。
いつもなら言いくるめ、有耶無耶にしてそのまま逃げられるのに。その逃げ道がどこにもない。
心臓が嫌な音を立てている。震えそうになる足を誤魔化そうとまた一歩下がって……踵に当たる感触に、血の気が引く。
「お……オラより、もっと適任が……あぁそうだ、エリオットなんてどうでしょう! オラよりもずっと可愛くていい子で……ほら、この間『ご奉仕』させていただいた子ですよ!」
「あぁ、あの子なら一緒にいたメイドに譲ったよ」
「それはもったいない! お望みなら、すぐにお呼びいたしますよ!」
今ごろ三人のお姉様がたに可愛がってもらえているし、それを邪魔するつもりはない。もはやエリオットでなくとも代理が務まるなら誰だっていいはずだ。
部屋から出れば候補はいくらでもいる。部屋から出れば。この男から、解放されたなら……!
「あの子も興味がないと言えば嘘にはなるけど」
「そうでしょうそうでしょう! だってエリーは神父の家系で……」
「でも、今はペーターって子の方が気になるかな」
靴音が近づく。もう踵は後ろに下がれない。かわりに首が上がって、視線の角度が変わる。
勤務を調べているなら名前だって知られて当然。問題は、そこまでしてまでクラロに執着していること。
完全に狙われている。それでも諦めるわけにはいかない。
『ご奉仕』するにしたって、せめて口だけ……いや、それも体液の誘淫効果で無事とはすまないが、犯されるよりは何千倍もマシだ!
そっちの対策はしているけど、それもこの男には通用するかどうか……!
「ああ、それとも違う名前だったかな? ジェイコブ、ジョニー、ジャクソン、ジャック……」
つらつらと上げられる名前にどれも心当たりはない。というか、適当に並べているのは聞いて明らか。
だからこそ無意味な羅列を聞き流していても、打開策が見つかるわけもなく。
本当に、このままではいけない。いけないのに、逃げ道なんてどこにも、
「――クラロ」
鼓膜から背筋を辿り、そうして声は腰へと響く。だが、そこに厭らしさはなく……むしろ、高貴さを窺わせる低音。
クラロは覚えている。この声を、この肌を刺す魔力の感覚を。
見たくないと拒んでも、認めたくないと思ってしまっても。この身体が、覚えてしまっている。
「手伝ってあげようと思ったんだけど……これならもう一段上のを置いておくべきだったかな?」
かつん、と靴音が床を鳴らず。クラロの背後、一本道の出口。唯一の逃げ場を塞ぐように。
振り返った先。真っ先に見えたのは血のような深い赤。クラロを見つめ、笑い、眺めるその姿。
近づくごとに髪が色を反射し、黒の中に藍色が混ざる。
カラスの翼のように美しいそれも、垂れた目蓋も、歪む口元に整えられた髭も。クラロは覚えている。覚えて、しまっている。
そうだとも。クラロのような田舎者。こんな臭くて、どうしようもない奴隷を使うような奴は滅多にいない。
いないからこそ、あの男はやばいと。次に会えばもう逃げられないと、そうわかっていた。わかっていた、はずだったのに。
ああ、なにが大丈夫だ。なにが問題ないだ。
――まんまと自分は、この男に嵌められたのだ!
「眼鏡は元に戻った?」
距離にしておおよそ五歩分。若干遠い位置で止まった男の笑みが深まる。
同じ淫魔ならばうっとりと。奴隷ならば憧れと期待に満ちて見返すだろうそれは、クラロにとっては死刑宣告にも近い。
初見を装おうとして、見越したような先制攻撃。忘れていないよね? と言わんばかりのそれに、喉が引き攣りそうになる。
めまぐるしく駆け回る脳内。空腹でろくに考えられない、なんて言える状況ではない。
このままシラを切るか? 否、そうなれば喜々として手を出してくるだろう。
『あんなに可愛かったのに、忘れちゃったの?』『なら思い出させてあげよう』
なんて、そのまま再現と称し、最後までなし崩しなのはもう見えている。
とぼけるのは不可能だ。ここでの最善は忘れたふりではなく、時間を稼ぐこと。
この時ほど前髪が下りていてよかったと考えたことはない。
ちらりと盗み見た壁。みっちりと本の詰まったそこまでの距離は、ちょうど相手との中間地点に。
あそこまで辿り着き、この場を去る。言うだけなら簡単だが、どれだけ困難かは言わずもがな。
でも、やるしかない。やらなければ、待っているのはクラロの死だ。
「――ああ、淫魔サマ! すません、こったどごろでお会いするどは思わず!」
驚いて反応が遅れたのはあくまでもそっちだと声を張り上げ、へらりと笑う。ペコペコと頭を下げ、まず一歩前に。
「邪魔すて申し訳ね! どの本がご入り用で?」
「本だなんて可愛いことを言うね。もう働いて長いんだから分かっているんだろう?」
これかな、あれかな。と探そうとした指は地面に向けられたまま。笑みは固まり、背筋に汗が伝う。
一度引っ掛かればそうと分かる。引っかける対象でなくても、長く働いていれば知っていること。
それは事実であり、おかしくはない。おかしいのは、クラロの勤務歴をこの男が知っていることだ。
出会うのはこれが二回目。一週間もあれば調べられるだろうが、ただの奴隷の詳細など、どうして調べようと思う。
「オラのごどご存知だなんて畏れ多ぇ! ただの下級奴隷です、淫魔サマに可愛がってもらえるようなモンでは……」
「ただの下級奴隷に、書庫の整理も書類の代筆も任せはしないだろう?」
謙虚だなぁ、なんて間延びする声とは対照的に鼓動はますます激しくなるし、汗だって止まらない。
書庫の整理はともかく、なぜ事務作業に呼ばれていることも知っているのか。
たしかに下級奴隷の範囲からは離れているし、任せるとすればクラロのような古参相手になる。
関わりがあったなら知っていても不思議じゃない。
だが、繰り返すがこの男は偶然知り合っただけだ。それも、普段の業務に関わるはずのない上級国民。
こんな場所にいるのがおかしいのは、自分ではなくこの男の方だ。
なのにどうして、彼がクラロの前にいるのか。どうして自分の逃げ道を塞いでいるのか。
「今日の担当のもんが『お勤め』に行っちまったんで、オラがかわりに……だはんで、淫魔サマのお目当での子はこごさには……」
「ああ、知っているよ。だからわざわざ用意したんじゃないか」
かつん、足が一歩前に。思わず後退りしかけて、堪えたのは目指す場所まであと二歩分の距離だったから。
ここで下がってはいけない。あと数歩。一瞬の隙があれば、最低でもこの袋小路からは抜け出せるのだから。
「片付くまで待って、ここから本を出して、分かりやすい場所にまで置いて。ちょっと回りくどいけど、わかっていて入っていく子を見るのはやっぱり楽しいものだね」
「大変心苦しいんですが、オラみだいなのじゃとてもお相手は務まらず……田舎臭いのがうづっちまったきゃ、それごそ他の淫魔サマさ顔向げが……」
今日だって魔除けの対策はしっかりしてきている。この距離でも十分匂っているだろう。
あの本を渡してきた淫魔サマだって、今より距離が離れていたのにあんなにも顔をしかめていたのだ。ここにいた全員も出て行くほどの悪臭。
クラロや他の人間には感じられない、耐えがたい不快感。それがどれほどのものか、クラロにはわからないし、わからないままでいたい。
ともかく、好んで抱く相手ではないはずなのに、なぜこの男はクラロに今、こうして迫ってきているのか!
表面上は穏やか、しかし胸中荒れ狂うクラロに対し、男はその笑みを絶やすことはない。
「んー……田舎臭いというよりは、薬草臭いかな」
鼻を少し鳴らし、そんなとんでもない発言を呟く口はやはり微笑んだまま。
「上手いこと調合しているようだけど、慣れてたら気付くんじゃないかなぁ」
現に自分が気付いているのだからと、追い打ちだって忘れない。息を呑み、震えを誤魔化す。そう、大抵の淫魔には気付かれたこともない。
だからなぜ、今回も普通に接してきているかがわからなかったが……ようやく納得がいった。
そして、事態はクラロが思っている以上にマズいことも。
「……研究所のお勤めだったとは、知らず」
違う意味で汗が流れる。まずい。淫魔の中でも最も避けなければならない部類にいる相手だったなんて、知っていたら何が何でも避けていた。
そりゃあ耐性もあるし嗅ぎ慣れてもいるだろう。かの戦いで人間たちの防衛手段をことごとく封じたのも彼らの発明やら研究やらの成果だという。
今こそより楽しい日々を送れる道具や薬を開発するのが主だが……魔除けの薬草について知っていたってなにもおかしくない。
というより、知っていたからこそクラロに近づいたのか。
淫魔から身を隠したいだろう相手がよもや淫魔に仕えているなんて、興味本能をくすぐるには十分過ぎる存在。
「いや、違うけど」
だが、あっさりと否定されて瞬く。
研究職員ではない。でも、モノの目処は付いている。
ならば、研究所と関わりが深い部署と考えるのが自然だが、それこそこんな場所にいるはずが……。
「まぁ、簡単にそのあたりの知識がある程度だよ。それより、もう仕事は終わったかな?」
思考する隙は与えてもらえず、首を傾げて問われるのは死刑宣告。
研究所務めだろうがそうでなかろうが、相手は淫魔に変わりない。抱かれれば知られてしまう。知られればそれこそ、本当に研究所に送られるだろう。
とにかくこの場を抜けなければ、どちらにせよクラロに未来はない!
「……大変心へずなぇんばって、他の仲間もみんな『お勤め』中で、仕事回っておらず……(大変心苦しいんですが、他の仲間もみんな『お勤め』中で、仕事が回っておらず……)」
「……ん?」
「それに、わーだきゃじゃたげご奉仕の相手なんてたげたげ! どうかご理解いだだげぃば!(それに、俺なんかじゃとてもご奉仕の相手なんてとてもとても! どうかご理解いただければ!)」
早口でまくし立てれば、さすがに意味は通じなかったのだろう。翻訳に手間取っている隙にと一気に距離を詰め、本棚に手をかける。
伊達にクラロだって長く勤めていない。逃げ道がないなら、逃げ道を作っておけばいいだけのこと。
この書庫に限らず、他にもお楽しみポイントになりそうな場所には色々と仕込んである。
実際に使う日が来るとは思っていなかったが、過去の苦労もこれで報われるというわけだ。
素早く屈み、支えを外す。そのまま軽く押せば、棚は非常口へと早変わり。
……早、変わり……?
「……ぇ」
もう一度、今度は強く。外れているのを確認して前に。
それでも棚は動かず、本はその場に留まったまま。付けた印は、間違いなく仕掛けの場所を示しているはずなのに。
「あぁ、そこだけど」
トン、と。軽い音は顔の横から。声こそ出ずとも驚き、仰け反り。その反応を深まる笑みに見下ろされても取り返しはつかず。
「壊れていたようだから、さっき直しておいたんだ。分かっていてここに来て、そこから抜けようとする子なんていないだろうけど……ね?」
そうだろうと、同意を求められても首なんて振れるわけもない。一歩下がった距離は、そのまま同じだけ詰められる。
気まぐれでも、興味本位でもなく。本当にクラロを狙っていた事実に焦りが滲む。
どうして仕掛けに気付かれたのか。いや、今はそんなことどうでもいい。
左右も後ろも棚。正面は淫魔。切り札は塞がれ、実力行使だってできやしない。
いつもなら言いくるめ、有耶無耶にしてそのまま逃げられるのに。その逃げ道がどこにもない。
心臓が嫌な音を立てている。震えそうになる足を誤魔化そうとまた一歩下がって……踵に当たる感触に、血の気が引く。
「お……オラより、もっと適任が……あぁそうだ、エリオットなんてどうでしょう! オラよりもずっと可愛くていい子で……ほら、この間『ご奉仕』させていただいた子ですよ!」
「あぁ、あの子なら一緒にいたメイドに譲ったよ」
「それはもったいない! お望みなら、すぐにお呼びいたしますよ!」
今ごろ三人のお姉様がたに可愛がってもらえているし、それを邪魔するつもりはない。もはやエリオットでなくとも代理が務まるなら誰だっていいはずだ。
部屋から出れば候補はいくらでもいる。部屋から出れば。この男から、解放されたなら……!
「あの子も興味がないと言えば嘘にはなるけど」
「そうでしょうそうでしょう! だってエリーは神父の家系で……」
「でも、今はペーターって子の方が気になるかな」
靴音が近づく。もう踵は後ろに下がれない。かわりに首が上がって、視線の角度が変わる。
勤務を調べているなら名前だって知られて当然。問題は、そこまでしてまでクラロに執着していること。
完全に狙われている。それでも諦めるわけにはいかない。
『ご奉仕』するにしたって、せめて口だけ……いや、それも体液の誘淫効果で無事とはすまないが、犯されるよりは何千倍もマシだ!
そっちの対策はしているけど、それもこの男には通用するかどうか……!
「ああ、それとも違う名前だったかな? ジェイコブ、ジョニー、ジャクソン、ジャック……」
つらつらと上げられる名前にどれも心当たりはない。というか、適当に並べているのは聞いて明らか。
だからこそ無意味な羅列を聞き流していても、打開策が見つかるわけもなく。
本当に、このままではいけない。いけないのに、逃げ道なんてどこにも、
「――クラロ」
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