世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

池家乃あひる

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第一章

1-4.練習相手

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 状況を整理しよう。クラロの現在地は城内で最も広く、比較的日当たりがいい洗濯物を干すための専用スペース。
 そして、目の前では淫魔サマが奴隷である人間にお願いをしている。
 ……以上、状況整理終わり。

 籠を抱えたまま考えること数秒。整理しきったところで現状は変わらず、このいかんともしがたい感覚をどうすることもできない。
 運が悪いことに、今ここにいるのはクラロ一人。
 つまり、勘違いでもなんでもなく、この淫魔サマは彼に対して話しかけているのだ。

「お願いします、キスだけでいいんです!」

 では聞き間違いかと、その方向に持っていこうとすればすかさず声が飛んでくる。
 真っ黒な二つのおさげ。分厚い眼鏡と、鼻先から広がるそばかす。
 他の淫魔サマに比べると肌の色は白く見える。とはいえ、人間であるクラロと比べれば十分濃いのだが。
 その服装から彼女が下級メイドだとは分かる。正確に言えば、下級メイドを偽っている、だが。

「え~~~っとぉ……」

 わざとらしく困った声を出すのは作戦を立てるまでの時間稼ぎ。いや、確かにこれは困ったが、その種類は少し違う。
 キスの練習をお願いされているのも困るは困るが、その真意が違うことに一番困っている。
 ごく稀によくある話だ。表現が矛盾しているが、実際にそうなのだから仕方がない。
 本来は上級メイド、あるいは上の者がわざと下級メイドや使用人に紛れて人間をからかうことが。
 クラロは確かに人間であり、配属もほぼ最下層に位置しているのは間違いないが、普段会う淫魔サマの顔は覚えている。
 こんな、明らかに地味を装った淫魔サマは少なくともクラロの記憶に掠りもしないし、そもそもこの肌を刺すような感覚は下級メイドが発していい魔力量ではない。
 聖女の血が流れているからこその第六感とも言える。
 おかげで危険な相手から真っ先に逃げることができるとはいえ、こうして狙い撃ちされた場合は警鐘にしかならない。
 上級だからクラロの悪評が届いていないのか。というか、この距離でも淫魔サマにとっては相当嫌な臭いがしているはず。
 今日も魔除けは万遍なく塗り込んできたはずだが、量が足りなかったのだろうか。
 獲物のために我慢している、という仮定を立てたところでこれをどう乗り切るか。

「淫魔サマのお願いば断んのは大変心苦しいんですが、オラみてぇな田舎もんより、他さ適任がおりますはんで……」
「いえ、あなたがいいんです! お願いします!」

 はい分かりました、では他の相手を探します。なんて聞き分けが良ければそもそもクラロを狙ってたりしないわけで。
 いいかげん籠を持ったままもしんどいと、地面に置いてわざとらしく息を一つ。
 ついでに腰が痛がる素振りをみせて、隙あらば悪印象を叩き込んでいこう。これもクラロ流の貞操処女術というやつである。
 ……というか、奴隷相手にお願いとは。そんなことをする淫魔もいなければ、それを断ろうとする奴隷だっていないだろう。
 命令されるよりは断りやすいが、端から見ればただの喜劇でしかない。

「けんど、オラみてぇなのとすたら、淫魔サマに田舎ぐせぇのがうつっちまう」
「気にしません! お願いします!」

 さて、この外見、このしゃべり方、そして嫌悪される臭い。三つが揃っても引かないとなると、固執されていると判断していいだろう。
 こうなると、ちょっとやそっとでは獲物枠から離れることができない。
 だが心配無用、まだ手元にないだけで奥の手は用意されている。
 必要なのは、それがクラロの手元に届くまでの時間だけ。

「そもそも、どしてオラみてぇなのに? 他にもっといい奴がおりますでしょう?」

 あくまでも自分みたいなのが畏れ多いという姿勢で問いかければ、想定よりも粘られていることに淫魔サマも困惑顔。

「で、でも……他の人間は慣れていて、練習にもならないし……その点、あなたは全然慣れていないようだから……」
「慣れてら方がいいんでは? オラなんかじゃ練習相手にはなりませんし、そもそも練習すなぐだって淫魔サマはじゅ~ぶんお上手だぁ」

 あくまでも下手に。自分では相応しくないと。
 拒絶にとられないよう、それとなく避けながら仕事に取りかかろうとすれば、両手を握られ正面から見つめられる。

「いいえ、それじゃあ上級試験に受からないんです! もうずっと落ちてて、いいかげん受かりたいんです!」

 細まる瞳孔。その奥に見える金。もうこの時点で下級メイドでないのは確定だ。
 さりげない魅了魔法も、クラロでなければ気付かないところ。分厚い眼鏡はこういうときの為にこそある。魅了防止の魔術が正常に働いていてなにより。
 なんの耐性もない人間ならこの時点で言いなりだ。だが、身動きこそ取れずとも意識はしっかりしている。
 さて、今回は本当にしつこい相手だ。とはいえ、どこかを舐めてもらえばすぐに苦すぎて諦めるだろう。もちろん、その時は唇以外をお願いしたいところ。
 ああ、それよりも奥の手がここに着くのが先だろうか。
 望ましいのは後者である。そうすれば、自分は何の苦労も無く興味を逸らすこともできるし、逸らされた相手だって結果的にはその方が得をすると。
 そう勧めるはずだった。そう、はずだったのだ。

「ずいぶんと楽しそうなことをしてるね」

 ――ぶわり、と。産毛が逆立つような感覚を抱くまでは。

 淑女がうっとりとする低音に混ざるは、鼓膜を直接擽るような声色。それだけでも滲む高貴さは、産まれながらに得た者の特権。
 干していたシーツが風もないのになびき、その裏側から影が現れる。
 まず視認したのは髪だ。太陽の光さえも吸収しそうなほどに深く、闇を塗り固めたような黒。その艶に混ざる藍色は、まるでカラスの羽のように美しく。
 隙間から覗く耳は鋭利に尖り、片方に寄せられた髪の長さは鎖骨程度まで。
 足元から前に。クラロたちを見つめる目蓋は若干垂れ気味。それだけなら、ただの色っぽい男にも見えただろう。
 顎の髭だって整えられている印象を抱くということは、手入れできるだけの地位にいるという証。
 そして、なにより――こちらに向けられた、その赤。
 鮮やかであればあるほどに魔力量は多く、そして強い。
 実力主義である淫魔界で、自分よりも優位な相手かどうかは瞳を見ただけでも十分判別できるらしい。
 未だに収まらない鳥肌は単に驚いたからではなく、抑えているつもりで抑え切れていないその魔力が、クラロに突き刺さっているからだ。
 穏やかそうな笑みは獲物を安心させるための演技。
 そして、獲物とはクラロではなく……今まで、狩る側にいたはずの彼女で。

「僕も混ぜてよ」
「あ、貴方様はっ……!」

 続きは笑顔で制され音にはならず、されど全てを把握するには今ので十分。
 本来は上級メイドである彼女が敬語を使うような相手。来ているのはただのシャツでも、その質の違いぐらいクラロにもわかる。
 間違いなく、彼は仕えられる側の存在だ。……それも、おそらくは貴族。
 爵位こそわからないが、目に見える全てが物語っている。
 同じ淫魔であろうと、自分より上の立場の者には逆らえない。そこは人も淫魔も変わらない弱肉強食の世界。
 淫魔による淫魔狩りなんて、それこそ常に行われていることだ。
 下剋上も服従も日常茶飯事。互いの力を見せつけ合い、相性が合えば恋人なり結婚なりと発展するのが普通。
 人間相手でも同じ事をしているなんて野暮な質問はないと思いたい。
 淫魔同士はいわば出会いとコミュニケーション。人間はただのペット。ペットと結婚する奴はいない。つまり人間と結婚なんてありえない。以上、証明終了。
 ようするに彼女は……まぁ、遊び相手に抜擢されたということだ。
 表情を見る限りとても喜ばしいことらしいが、クラロにとっても非常に喜ばしい。
 最終兵器を使うまでもなく興味が移ってくれたのだ。
 問題とすれば、ここで始められると仕事が進まないことぐらいだが、淫魔サマ方の邪魔をするなんてそれこそとんでもない!

「で、こんなところで、なんの話をしていたのかな?」

 だからこっそりとその場を去ろうとしたのだが、質問はなぜかクラロに対して投げかけられる。
 そのまま彼女を追い詰めるなり押し倒すなりで始めてしまえばよいものの、こういう茶番も上級階級の愉しみ方か。
 利用されているのはどうも癪だが、これも淫魔サマへのご奉仕だ。
 人間である以上、ご奉仕は喜んで行わなければ。そう、後輩にも示せるぐらい、模範的に。

「いんやぁ~……それがですね、こぢらの淫魔サマが試験の練習相手さ自分ばとのごどだったんですが、オラなんかがお相手するのは役不足で……それに、こった田舎モンよりもっと適任がいるはずなんで、どうすたもんかど」
「ああ、なるほど」

 最初から盗み聞いていただろうが、説明が終われば笑みが一層深くなる。
 とても悪い顔だ。そして、その所作一つ一つがなんともいかがわしく見えるのは今も肌を刺す魔力のせいか、垂れ流しのフェロモンのせいか。
 もうすっかりメイドの方はあてられて、偽装魔法がとけかかっている。
 赤い瞳に黒い肌。うん、やはり悪食を摘みに来た変わり者で間違いない。
 今はそんな彼女も、ただの獲物。

「それなら、僕が手本を見せてあげようか」
「えぇっ! そ、そんな……貴方様の手を患わせるようなことは……!」

 そう言いながらも満更でないのは、抱かれてもいい相手だからこそ。むしろ彼女の方から望んでいるようだ。
 淫魔サマが抱かれたがる、あるいは抱きたくなる相手なんて……その時点で、もはやクラロの手に余る。
 どういう気まぐれでこんな城内階級下層の、下働きの中でも最悪な洗濯場の、比較的ましである干し場にいるかはともかく。もうクラロがいる必要はこれっぽっちもないわけだ。
 もしかしたら干しているシーツが土やら泥やら白濁液やらにまみれるかもしれないが、淫魔サマ同士のオタノシミを邪魔するなんて、自分のような下働きには畏れ多いこと!

「そいでは、自分は仕事がありますはんで、ごゆっくり~……」

 邪魔にならぬよう小声で、いらないだろう退席の断りを入れてから軽く一礼。
 どうぞどうぞ、自分が去った後は好きなように好きなだけお過ごしください。自分を巻き込まないのであればいくらでも。
 ひとまず洗い場に戻る途中で後輩と合流できれば手間が省けるのだが……なんて考えていたのは、完全に油断していたからだ。
 顔を上げた先に見えた黒い肌。目の前にある赤と、うなじを撫でる何かの感触。
 鳥肌はその擽るような動きになのか、あまりに距離が近かったからか。それとも――本能的な、なにかだったのか。
 吐息が唇に掠めていると。頭で理解するよりも手が動く方が早く、

「――あ、」

 パンッ、と。
 頬を張った音が響いた時点で、全てが手遅れだった。
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そうして『兎』は愛を知る

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