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21.望まぬ再会

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 水色を基調としたワンピースに、レースが惜しみなく施されたブラウス。白いタイツに覆われた足は細く、浅靴を履いた足までも小さい。
 クリーム色の癖髪と、横に垂れている同色の耳。
 誰がどう見ても、紛うことなき兎の姿。驚きは、他の兎に会うと思わなかったことと、兎が一人でいるということに対して。
 兎はその価値から悪漢に狙われることが多く、攫われた兎を闇市で保護することも多いという。
 一人でいる、ということは主人とはぐれたか、まさしく攫われたところを逃げてきたかのどちらかだろう。
 ノアールが近づいたことにさえ気付かないほどに疲労している、ということは後者なのか。でも、ここに入るには許可がいるはずで……なら、やっぱり迷子なのか。
 考えるだけでは答えは出ず、見つけた以上関わらないわけにはいかない。
 記憶を漁る限り、ノアールがいた仲介所の子ではないはずだ。
 ならば、話しかけても罵られることはない、はず。

「あ、の……」

 恐る恐る、勇気を振り絞って。だが、声に反応はなく、じっと前を見たまま。
 兎でなくても、この距離で聞こえていないはずはない。ぼんやりとした目は、どちらかというと熱に浮かされている時と同じ。
 もしかして、体調が悪いのだろうか。それなら、なおのこと放ってはおけない。

「君、大丈夫……?」
「…………あ、」

 近くでしゃがめば、ようやくノアールの存在に気付いたのだろう。
 僅かに身体が跳ね、硬直した身体から漏れる小さな声。
 何度か瞬き、それからゆっくりと合わさった瞳は、やはりどこか微睡んでいるようにも見える。

「身体の調子が悪いの?」
「……うさ、ぎ……?」
「あ……うん。半分だけ、だけど。僕も兎、だよ。混血、って言って、わかる?」
 
 問いかけには答えてくれなかったが、会話は成り立つ。
 着ている服か、それとも同じ兎としての勘か。外見だけでは分からないノアールを兎と気付いた相手の表情が、少しだけ和らぐ。
 ノアールのことを知らないなら、やはり他の仲介所の兎だろう。
 そうでなければ、きっと前の名前で呼んでいたし、こんな目で見つめ返してくることもなかった。
 嗤われ、蔑まれ、汚らしいと罵声する声が跳ね返って。頷いた首に、記憶を振り払う。

「君のご主人様は? はぐれたの?」
「ごしゅじん、さま」
「あ……僕の……えっと、一緒に来ている人は監視官様だから、君のご主人様のところに連れて行ってくれるよ」

 思わず肩に手を触れたのは、自分がヴァルツにされて安心したから。
 監視官のことは、ノアールでも知っていたのだ。普通の兎はもっとよく分かっているはず。
 兎に関するあらゆる法を守ってくれる人たち。だから何があっても大丈夫だと繰り返し、ヴァルツを見ようとしたノアールを引き止めたのは、服を掴む小さな手。

「……ち、がう」
「え?」
「ごしゅじん、さま、いない」

 小さくとも、首の動きが弱くとも、それは確かな否定。

「じゃあ、誰かから逃げてきたの?」

 問い直せば、服を掴む指に力が入る。揺れる瞳が涙で潤んで、息はより大きく震える。
 だが、滲むのは恐怖でも怒りでもなく。ただ、深いほどの悲しみ。

「本当の、ご主人様のところに、帰りたい」
「本当のって……」

 とうとうこぼれ落ちたのは涙だけではなく。されど、その言葉の意味も分からず。
 問い直した言葉は、自分を呼ぶ声で遮られる。

「なんでドブがここにいるんだよ!」

 ――ただし、それは今の名ではなかった。

 息を呑む音が重なり、身体が硬直する。だが、その足音を聞いてより大きく震えたのは、そう名付けられたノアールの方。
 愛らしい声にそぐわない荒い口調。何年と聞き続けてきたその響きも、その名前も、忘れるはずがない。
 見たくないはずなのに勝手に動いてしまった目が、日に照らされる白に焼かれて滲む。
 見下ろし、睨み付ける赤だって、忘れるはずがない。

「ア、ル、ビノ」
「お前もなんで勝手に着いてきたんだよ! せっかくのお出かけが台無しになったじゃないか!」
「っ……!」

 掴みかかろうとするアルビノに怯え、ノアールに縋る手に力が籠もる。
 なぜ、ここにアルビノがいるのか。この子とどんな関係なのか。
 詳しいことはわからなくても、このまま対峙させてはいけないと遮ったノアールを睨みつける赤が一層歪む。

「は? なに?」
「怖がっている、から――っ!」

 直視できずに俯いても、遮った腕をおろすことはなく。恐怖は頬に打ちつけられてはじけ飛ぶ。
 一拍遅れて広がる痛みに頬を押さえる間もなく、引っ張られた頭皮に呻いても痛みはおさまらない。

「っ、い……!」
「ドブの分際で邪魔するわけ? 兎になったつもりだろうけど、帽子で隠したって意味ないんだよ!」

 髪ごと掴まれた耳に走る激痛。ブチブチと毛が抜ける音に、それでも抵抗できないのは、染みついた悪習のせいだ。
 抵抗すればするほどに、抗えば抗うほどに長引く苦痛。
 穏やかな時間と共に耐性を失い、呼び起こされる記憶と共鳴して、痛みが増していく。

「お前みたいな汚いドブがっ――!」
「その手を離せ」

 低い声は、すぐ傍から。くわえられた力が緩んでもまだ離れない指。涙に滲む視界で捉えたのは、アルビノを睨み付ける氷の眼差し。
 極寒を思わせるほどに冷たい中、抑えられない光に赤が揺らぎ、呼吸が止まる。

「っ……な……」
「その汚れた手を、離せと言っている」

 まるで獣が唸るように。今にも、その牙を突き立てんとするように。
 その目と声に怯えたアルビノが、ようやくノアールを解放する。
 ジクジクと苛む痛みに顔をしかめるよりも先に抱き起こしたヴァルツの手は、やはりいつも通り温かいもの。

「ヴァル、ツ、様」
「大丈夫か、ノアール。気付くのが遅くなってすまない。……叩かれたのか」

 謝罪は、駆けつけるのが遅くなったことと、すぐに引き剥がさなかったことに対するものだろう。
 自分の兎が害されていても、他人の兎に触れることは禁止されていると、いつか教わった内容を思い出したノアールが首を振る。
 確かめるよう触れる指に手を重ね、伝わる鼓動にそっと、息を吐く。

「だ……だい、じょうぶ、です。あ……帽子……服も、申し訳ありませ……」
「謝るな。お前は何も悪くない」

 叩き落とされた帽子も、先ほど膝をついてしまったズボンも、汚してしまったと呟く謝罪はすぐに遮られ、頬を包まれる。

「アルビノ!」

 伝わる温度に落ち着きかけた鼓動は、知らぬ声に再び跳ね、それが自分と屈んだままの兎の両方と重なるのを鼓膜が捉える。
 続く足音は一人ではなく、少なくとも五人以上。駆けてくるそれらとは違う、上質な靴の音に反応したのはヴァルツも同じ。
 向かってくる者の中で一際目立つのは、手袋から足先にいたるまで白に包まれている男。
 一目で貴族と分かる上質な服。露出の少ない肌さえ白く映ったのは、そこから生えた羽が見えたからだ。
 撫でつけられた灰色の髪と、少し弛んだ目蓋から覗く金の光。
 猛禽類特有の輝きに言い知れぬ恐怖を抱き、強張った身体がヴァルツの背中へ匿われる。
 見えなくとも、現れた男がアルビノの元に向かったのは音だけでも分かる。

「なにをしている」
「だって、こいつが!」
「アルビノ」
「邪魔をしたドブが悪いんだっ! そもそも、こいつが着いてきたのが悪いんじゃないか!」

 空気を切る音は、ノアールを指差したアルビノから。咎める声は、問いかけた白い男から。
 状況を考えればこの男がアルビノのご主人様。
 それなのに、兎らしかぬ返答に湧く戸惑いも、かつての名を呼ばれたことではじけ飛ぶ。
 思わずヴァルツの服を握り締め、俯いた頭を撫でられ、片耳だけ押さえられる。
 それでも震える鼓膜が捉えたのは、深い溜め息。

「どうやらお前を連れてきたのは早すぎたらしい。先に戻りなさい、アルビノ」
「なんで! だって悪いのはっ」
「連れて行け」

 淡々と命じた声は冷たく、従者たちに引き摺られるようにして連れ出されるアルビノの声が遠ざかっていく。

「待ってください! コーヴァス様! ……コーヴァス様っ!」

 扉が閉まれば、懇願は罵声に変わり。それさえも聞こえなくなれば、自分の鼓動だけが響く。
 アルビノが去っても、与えられた衝動が消えるわけではない。
 会うと思っていなかった存在。もう呼ばれることはないと思っていた名前。連鎖的に思い出す、かつての仕打ち。
 少しでも落ち着こうと額を背に押しつければ、頭に触れていた手が背中に触れて――すぐに、近づいてくる足音で離れてしまう。

「申し訳ございません、ノース卿。先ほども申し上げましたが、あれは仲介所で相当甘やかされていたらしく……兎としての躾もほとんどされていないようなもので」
「その件ならすでに知っている。貴殿のような愛好家でさえ手を焼くほどとは、さぞ苦労していることだろう」

 聞いた事のない声色に身体が跳ね、掴む手に力が入る。
 お仕事の声だと理解し、アルビノと再会した時とは違う心臓の鼓動に胸を押さえる。
 温室の中は温かいはずなのに、まるで雪に触れているかのように冷たく。少しでも動いてはいけないような気がして、呼吸すら止まりそう。
 必死に小さくなろうとするノアールがどうであろうと、二人の会話は続く。

「保護したからには面倒を見るつもりではいますが、どうにもまだ屋敷に馴染んでいないようで。今日は少しでも気が紛れればと外に連れ出したのですが、よもや他人に手をあげるとは……この件はしっかりと叱りつけておきます」
「こちらも大事にするつもりはない。それ以上の謝罪は不要だ」
「寛大なお心に感謝致します」
「……ところで、貴殿の兎は調子が悪そうだが」

 言われ、振り返った先。まだノアールの服を掴んでいる兎の顔色は、先ほどよりも酷い。
 握り締める指は白く変色し、呼吸も浅い。尋常ではない姿に、再び屈んだノアールとも目は合わさらず。

「大丈夫……?」
「っ……ち、がう……この人、は、」
「ええ! 先ほど説明したのがこの子です。一体どうやって馬車に入り込んだのか……まだ調子が悪いのだから、連れて行けないと言ったのに」

 兎の声は、一層大きくなる男の声に掻き消されてノアール以外には届かず。
 だが、はっきりと聞こえた否定に、ノアールの耳が揺れる。
 ……本当の、ご主人様では、ない?

「あ……あの、ヴァルツ、様」
「どうした?」
「この子が、あの……違うと……」
「……違う?」
「本当のご主人様では、ないと……」

 ノアールに、その言葉の真意は分からない。でも、きっと今伝えるべきだと囁いた言葉に、蒼が細まったのも、眉が寄せられのも一瞬だけ。

「失礼ながら、こちらの兎は最近譲与されたのだろうか」
「ええ、仰るとおり。興味本位で兎を迎えたものの、好みではなかったというので私が引き取ったのです。この子自身は前の主人に懐いていたようで、それが原因で体調を崩していたのですが……」

 弱々しく首を振るのは、違うと否定したいからだろう。
 それが真実なのか、そう思いたいだけなのかは、やはりノアールには分からない。
 だけど、本当にそうだとしても、ここまで怯えるとは思えない。

「外に出たことで容態が悪化した可能性もある。すぐに医師の手配をしよう」
「いいえ! これ以上ノース卿のお手を煩わせるわけにはいきません。それに、薬で治るものでもないですから。この子には辛いでしょうが、時間をかけて理解してもらうしかないでしょう」
「だが……」
「さ、早くこの子を馬車へ」

 主人が大丈夫と言う以上、無理に引き止めることはできない。
 近づいた従者が兎を立たせ、連れて行かれる足取りはフラフラとして覚束ない。
 縋っていた手がノアールから離れてしまえば、その小さな姿はあっという間に遠ざかってしまう。
 本当に、現実を受け入れられないだけなのか。本当に、それだけなのか。

「ノース卿には感謝しております。……ところで、なぜアルビノと彼に面識があったのでしょうか?」

 見下ろす瞳に喉が狭まり、服を掴む指に力が籠もる。
 浮かべているのは笑顔だが、目蓋から覗く光はセバスやメイドたちから向けられるものとは違う。
 仲介所にいたときに、他の兎たちから向けられていたのと似ていて。だけど、それとも違う。
 聞き覚えのないはずなのに、どこかで聞いたような錯覚を抱き始める。一度だけ、確かに聞いたような……でも、どこで?

「見たところ、まだ仲介所に入れる年ではなさそうですが……もしや、彼が例の混血の子ですかな?」
「……ええ。私が保護している兎です」

 冷たい響きに肩が跳ねる。その言葉は、ノアールも何度も耳にしてきたはずだ。
 飼い主ではなく、保護をしているだけ。それでも、今までこんな冷たい声で言われたことはなかった。
 まるで忌々しく、そう伝えることさえ厭うような……それこそ、ドブと呼ぶ声が重なり、頭の中が掻き混ぜられる。
 忘れていた胸の痛みが蘇って、息が、苦しい。

「貴殿のアルビノとは同じ仲介所にいたので、その繋がりでしょう」
「ああ、なるほど。それはそれは」

 声に粘度があるなら、それはまるでへばりつくように。衝動が不快感に上塗りされ、見上げた灰色からすぐに目を逸らす。
 先ほど向けられた笑みとは違う。視線と、投げかけられる声の気持ち悪さを、ノアールの知る言葉では形容できない。
 なのに、縋れる唯一から与えられた衝動はノアールを蝕んで。まるで地面がぐらぐらと歪んでいるよう。

「ノース卿は確か、兎が嫌いでしたな。仕事のためとはいえ、自らの屋敷で保護するのは相当に負担がかかっているとお察しします。……ああ、そうだ。私がその子を引き受けるというのはどうでしょうか」

 まるで名案だと言わんばかりに提案され、ノアールの息が止まる。
 
「……貴殿は既にアルビノを引き取っているはずだが」
「保護から正式な受け入れとなる場合、兎の人数制限はなかったはずです。実際、過去に三匹同時に受け入れたこともありますから。ああ、アルビノに関しては、兎用の別館もいくつか用意しているので、接触しないよう万全の体勢を取らせましょう」

 否定しない、ということは、コーヴァスの言っていることは正しいのだろう。
 いままで他の兎を受け入れてきたのなら、その扱いにも熟知している。きっと問題はないのだろう。
 それでも、ノアールの身体は強張り、耳は心臓の音に支配される。

「混血を受け入れる者も多くはないでしょう。悪い提案ではないと思いますが……ああ、もちろん他の兎と同じく愛しますので、ご安心を」

 その言葉に、肩が跳ねる。
 他の兎のように。混血でも、他の兎と変わらないように。それは、かつてノアールが望んだはずの願いだ。
 自分は誰にも愛されないと、誰にも求められないと。それは、保護された後も変わらないと思っていたはずで。
 なのに、今はどうしてか喜べず。舐めるような視線が、ただただ気持ち悪くて、恐ろしくて。

「あ……っ……」
「……せっかくの申し出だが、既に候補は決まっている」

 ぐ、と引き寄せられる肩。その温かさにいつもなら安心できるはずなのに、心臓は苦しくて、辛くて、少しも楽にならない。

「おや、てっきりそのまま引き取るものかと……随分と愛でているという噂でしたからな」
「あくまでも保護しているだけだ。……だが、信頼できる者へ預けたいとは考えている」
「……それはそれは。兎嫌いのノース卿を惑わすほどの兎とは。これだけ美しくなると知っていれば、アルビノではなくこちらを引き取ったものを」

 惜しいことをしたと、口は出さない本音を視線で受け取り、握り締めた服はやはり冷たく、指先から冷えていくよう。
 分かっている。保護しているだけ。本当は兎が嫌いで、ノアールを受け入れたのも仕事のため。
 だから、いつかは出ていくことになって……それは、分かっていたはずなのに。
 分かっている、つもりだったのに。求めないと決めた、はずなのに。

「では、私はこれで。とても有意義な時間でした」
「……くれぐれも、兎たちを大切にされるよう」

 従者が時間だと耳打ちする声を捉え、コーヴァスが別れの言葉を口にする。
 最後までノアールに向けられていた視線はようやく外れ、足音が遠ざかっていく。
 深い溜め息は頭上から。離れた手が、両肩に置き直されたのはそのすぐ後。

「大丈夫か、ノアール」
「……」
「ノアール?」
「……あ。だ……い、じょうぶ、です」

 アルビノへ抱いた違和感。震えていた兎への疑問。コーヴァスから向けられた不快感の正体と、ヴァルツの真意。
 全てがぐちゃぐちゃに混ざり合い、遅れた返答にヴァルツの眉が寄せられ、視線が同じ高さまで下がる。
 見つめる瞳はやはり温かいのに。優しいはずなのに、先ほどの冷たい声が剥がれない。
 兎だと言いながら、そう呟くことを憎むあの声が。ずっと、ずっと。

「せっかく外に出たのに、嫌な思いをさせてすまなかった」

 叩かれた頬に触れる指も、囁く声だって、こんなにも柔らかいのに。一体、何を信じれば良いのだろう。
 嬉しいはずなのに苦しくて。温かいはずなのに、冷たくて。
 わかりたいのに。知りたいのに。そう聞くことだって、ノアールにはできなくて。

「私たちも戻ろう。お前の治療もしなければ」
「……は、い」

 叩かれた頬よりも、揺さぶられる頭が。
 締めつけられる胸の方がずっと苦しくて、痛くて。呼べない名前の代わりに出した返事でさえも、重く辛いものだった。
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