そうして、『兎』は愛を知る

池家乃あひる

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09.初めての入浴

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 屈んだことで見上げる蒼が揺れている。動揺と、困惑。それは、握られた手からも伝わるもの。

「今のお前は、兎として保護されている。身を清めることも、医者にかかることも、お前に与えられた権利だ。混血であることは関係ない」

 困惑するのはドブも同じ。混血なのにと、本当の兎じゃないのにと。頭に浮かぶ言葉を、口に出すことができない。
 触れる指先も、注がれる視線もやっぱり柔らかくて、温かくて。夢だと確かめている間も、冷え切った手を包む指に力が込められる。

「怖いのは、傷を見られることか? それとも、風呂か?」

 後者で肩が跳ね、答えは示したようなもの。鼓膜にへばりつく嗤い声に俯き、震えた息は湿った空気を揺らす。

「……洗わ、れ、たら、」

 風呂は、怖くない。身体を洗うのだって、自分でなら大丈夫だ。
 だけど、洗われるのは。
 押さえつけられ、沈められて、叩かれて、それでも汚いと言われて。何度も、何度も繰り返されるのは。

「息が、できなくなる、から。……こわい、です」

 死ぬと思わなければ、ドブだって耐えられた。いつものように耐えて、麻痺して。当たり前だと思えたのに。
 絞り出したそれで察したのだろう。握る手に僅かに力が入り、それからそっと、頬にあてがわれる温度。
 ……やはり、それは柔らかく、温かく。

「身体を濡らすだけだ。お前を沈めたりしない。……苦しいことも、痛いこともしないと約束する」

 仲介所では考えられなかったことだ。会話なんて、一方的になじられるか罵られるかで。約束なんて。
 だって、命令すればいいだけだ。今だって、大人しくしろと命じるだけでいいのに。言うことを聞かないからと叩き、叱りつければいいのに。

「……このままではお前が冷えてしまう。頼む」

 従わなかったドブが悪くて。だから、監視官様は悪くなくて。
 なのに、謝られていて。それどころか、お願いまでされて。ますます、彼の考えていることがわからない。
 それでも、ドブはどうすればいいか分かっている。
 頷けば安心したのか、男の吐息に耳先が跳ね、震えた鼓膜がくすぐられる。

「ありがとう。……服を脱がせるぞ」

 頬から肩に。それから、纏っていた服へ手をかけられる。
 晒された肌に目立つのは、骨の浮いた身体と無数の傷跡。
 もう古くなったモノもあれば、痕が残っているものも。見えない範囲なら、その数はもっと増えるだろう。
 ドブが隠したかったのはそんな当たり前のものではなく、背中では隠しきれない尾の方だ。
 猫としては普通でも、兎としてはあり得ないほどに長く、汚く。
 太ももに巻き付けても無いことにはできない。
 対する男の尾は、ドブと似ていても全く違う。同じ色とは思えないほどに艶やかで、膨らんだ先端はそれだけで装飾品のように美しい。
 比較するのがそもそも間違いだと、より強く尾を巻き付けたって、その存在を強く示すだけ。
 上着を脱いだ男に手を引かれ、部屋の奥へ誘導される。
 仕切りの向こうにあったのは、猫足のゆったりとした浴槽が一つ。
 ドブが知っているお風呂場は、複数の兎を入れるためにもっと大きく、広い場所だった。
 監視官のお屋敷でも仲介所より狭い場所があるのかと眺めた水面に、靄のようなものが上がっているのに気付き、疑問を抱く。
 仲介所でも、ドブが掃除をする時にはなかったはずと見ている間に、男の手が水面に浸され、波紋が広がる。

「その怪我だと、浸かると痛むかもしれない。今日は身体を洗うだけに留めよう。……お湯は平気か?」
「おゆ……?」
「温かい水のことだ」
「水、なのに、ですか……?」

 雨も、兎たちからかけられるのも、掃除の時に触れるのも、ドブにとって水は冷たいものだ。

「触ってみなさい」
「――わ、ぁ……っ……!」

 不思議がっているドブの手を取り、浴槽の中へ。途端、寒気に似た感覚が全身に広がり、思わず悲鳴をあげてしまう。
 だが、一番驚いたのは水の温度ではなく、触れた男の手があまりにも高かったからだ。

「熱かったか」
「あ、だ……大丈夫、です。あの、監視官様は、大丈夫、ですか?」

 熱い、の言葉がなにを示すかはわからない。
 それよりも、手の温度が高いことに動揺すれば、少しだけ笑う声が耳を揺らす。
 軽蔑でも、馬鹿にしたのではない。優しい吐息。

「私のことは心配しなくてもいい。……今から髪を濡らすが、怖くなったら無理せず言いなさい」

 アルビノたちに浴びせられたことを思い出して。見つめる蒼に、彼らとは違うと拳を握る。
 来るとわかっているのなら怖くないと耳を押さえて目を強く瞑れば、頭皮に染みこむ温度に全身の毛が逆立つ。
 まるで全身がこの人に触れられたように温かいままで、拳の強張りもほどけてしまう。
 もう一度、頭から首に。そうして上半身へ。広がる温もりに困惑しているドブに、おもむろに白い物体が差し出される。

「汚れを落とすために使うものだ。目に入れば痛いし、口に入ると苦いから気を付けるように」
 
 説明する間も手から泡が溢れ、どんどん増え続けていく。
 掃除の時にだけ使うものと思っていた、というのは説明できず。やがて白い手がドブへ伸ばされる。

「……触るぞ」

 混乱しながらも男の声は聞き逃さず、小さく頷けば、ふわりとした感触が肌へ触れる。
 触っているのに触っていないような。毛布とも水とも違う感触に戸惑う間、言われるままに目を閉じれば、髪にも泡が乗せられる感触。
 嗅ぎ慣れない、だけど心地いい匂い。同じく鼻をくすぐる水は不快ではなく、まるで染み込んでいくよう。
 水と、泡と、自分の鼓動と、男の呼吸。
 聞こえる全てが反響して、鼓膜の奥がずっと震え続けている。
 ずっと聞いていたいと、そう思ってしまうほどに暖かくて、優しい響き。
 やっぱりこれは夢だと思い始めたドブを、髪に差し込まれた指が引き戻す。
 力強い指に頭皮を撫でられ、心臓がより強い鼓動を刻んで息が弾む。
 泡と指が混ざり合う音に耳を澄ませて――そわりと、肌が波打った。
 まるで寒気のようで、だけど違う。本当に肌が勝手に動いたような、知らない感覚。
 それは触れられた耳の根元から頭の中に広がり、じわじわと染み込んでいくような。弾けるような。
 ドブにはそれをどう例えればいいか分からず、ただ、与えられるままピクリと跳ねるだけ。

「痛むか」

 未知の感覚が収まれば、次に与えられたのはドブを気遣う声だ。
 咄嗟に首を振り、痛みはなかったことを伝える。そう、痛くはない。痛みは、ない。
 洗うためとはいえ触れられて嬉しいはずなのに、落ち着かなくて。でも嫌ではなくて。
 それを伝えていいのかさえドブにはわからず、見つめる蒼からも逃げてしまう。

「ここはあまり触れられたくないだろうが、もう少し我慢できるか?」

 ふやけた頭では頷く他に返事はできず、そうでなくともドブは耐えただろう。
 これが何か分からなくても、オーナーやアルビノたちにされたことに比べれば何てことはない。
 だって、痛くもないし、辛くもない。ただ、少し変なだけ。

「っ……ん」

 再び男の指が触れ、緩やかに擦る音が頭の中に跳ね返り、パチパチと弾けるのは泡か、ドブの思考なのか。
 下から上に。輪郭を辿る過程で毛を逆撫でられ、無意識に寝かせてしまった耳も摘まれれば意味のないこと。
 じわじわと広がり続ける痺れに、息が弾む。頭の先から、首へ。そうして手の先から足の先まで、全身を巡る感覚。
 痛くも辛くもない。なのに、ずっと何かが込みあげていて、息が苦しくて。動いていないのに心臓がうるさくて。
 怖くないはずなのに、嬉しいはずなのに、何かがおかしくて――。

「――ひぁ!」

 その指が産毛を掠めた瞬間。頭の中に光が散り、弾け、身体が大きく跳ねた。
 一等強い痺れがビリ、と背中を伝い、力の抜けた身体は肩を掴まれ支えられる。

「っ……ぁ……かんし、かん、さま……?」

 動きが止まったのを疑問に思って見上げた先。見開いた蒼と、額を押さえる動作に、自分が何かやってしまったのだと理解する。

「あ……っも、申し訳、ありませ……っ……!」
「いや、今のは私が悪い。兎が他より敏感と知っていたのに、配慮が足りなかった」
「は、いりょ……?」

 ドブの知らない言葉だ。何が足りないというのだろう。
 もう十分、ドブは与えられているのに。たとえ夢だとしても。
 いいや。夢だからこそ、もう十分過ぎるというのに。

「とにかく、お前は悪くない。……誰かいるか」
「はい、こちらに」

 反響する呼び声に鼓膜を叩かれ、思わず耳を塞ぐ。手の平越しに聞こえたのは、先ほど言いつけられていた老人の声。

「メイドを一人、ここへ」
「おや、よろしいのですか? てっきりお邪魔になるのではと……」
「セバス」
「ほっほ、冗談でございます。……誰か、旦那様の補助を」

 唸るような声に、朗らかな笑い声。セバスの後ろから入ってきた女性もにこやかに笑い、状況が分かっていないのはドブだけ。
 それぞれの顔を見上げ、最後にノースの顔を見上げたのは、その眉があまりにも狭まっていたから。

「……すまないが、耳と尾は自分で洗うように」

 他はこちらで洗うからと、怒っているように見えて、すごく困った顔で。それなのに謝られているのもなぜか。
 その理由もわからないまま、ドブは頷くしかなかったのだ。
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