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1章
千眼獄鯉
しおりを挟む朽ち果て、壁や障子など至る所に穴が空いている。
床は歩くたびに軋むような鈍い音が立ち、今にも床が抜けそうだ。
灯りは壁に点々と掛かられた燭台がぼんやりと照らす程度で、場所も相まって不気味さが際立っている。
「もうじき本堂です」
提灯を携え、一歩先で先導する椿ちゃんが告げる。
本堂という単語から察する通り、ここは寺院。
寺院とはいってもどちらかと言えば廃寺という表現が正しいか。
随所の劣化ぶりが尋常ではなくて、ここを好き好んで住んでいる人など本当に居るのかと疑いたくなるほどだ。
「……ここに泊まるんですよね?」
苦笑を浮かべながら、傍にいる雪華さんへ話しかける。
「一晩の辛抱じゃ。妾も居るから安心せい」
さすがに本堂へ客人一人を放っておくのは心配らしく、どうやら一晩寄り添ってくれるらしい。
よくよく考えれば妖怪と一晩過ごすのなら、今更幽霊の一人や二人出てきたところで大した驚きもないかも知れないが。
「着きました。どうぞ中へ」
襖を静かに開け、ぽっかりと闇夜に口を開けたようなその入り口へ椿ちゃんが誘う。
私自身も一層気を引き締め、ゆっくりと一歩を踏み出し中へ入った。
本堂内は渡り廊下よりも燭台が多めに設置してあり、幾分かは明るいもののそれでも広い空間だけに薄暗い印象。
畳はかび臭く所々変色していて、見るからに痛み具合が激しい。
何より目立つのは、寺院の主役とも言える仏像。
大きさや荘厳さもさることながら、その仏像にはなぜか傍らに刀が立てかけられていて、まるでそれを供養するように花や果物がお供えされている。
刀には布切れが巻かれていて、簡単には抜けないよう細工が施されているのもまた不可解さを際立たせていた。
「……海山の懺悔の現れじゃ。奴の後悔、自責……妾でも推し測れぬ」
「後悔……?」
慈悲を含んだ目で仏像と刀を見つめる雪華さんを見ていると、その目に不思議と誰かを思い出しそうになる。
さっきといい今といい、やはり雪華さんは誰かに似ているような、そんな気がする。
「お話に浸るのは結構ですが、少しはこちらにも協力してください」
本堂の隅に積んであった座布団を三枚ほど抱えて、少し呆れ模様の椿ちゃんが告げる。
どうやら私に幾つか情報収集のためのインタビューをしたいらしく、座布団を手際良く敷くと流れるように胸ポケットからメモ帳と鉛筆を取り出してみせた。
「……答えられる範囲でいいなら」
まるでクッションのような弾力のある座布団へ正座で座り、雪華さんもと手招きをするものの、このままでよいと仏像を眺めたまま静かに答える。
椿ちゃん曰く、雪華さんが座布団に座る事は稀らしく、毎回用意はするもののなぜかほとんど座らないらしい。
こだわりでもあるのだろうか。
「それでは二つほど質問をさせていただきます。原因究明の手掛かりになる可能性があるため、些細な事でもお答えください」
先程とは一転し張り詰める空気が漂い、固唾を飲みながら了承の意思表示としてこくんと頷く。
「一つ目の質問です。生まれて今日に至るまで、何か変わったものを目撃した事は?」
「……変わったもの?」
「はい。霊的なもの、非日常的なもの。例えば猫が飛んだとか、猫が喋ったとか」
本人は至って真面目なつもりだろうけど、猫好きが滲み出過ぎているその可愛らしい例えに、つい笑みが溢れてしまう。
「……そんなに猫好きなら今度猫カフェにでも行こっか?最近いいお店見つけたし」
「なぬ!猫のカフェなるものがあるんですか!?」
目を輝かせながら、今日一番の反応を見せる椿ちゃん。
猫カフェの存在は知らなかったらしく、インタビューはそっちのけで違う方針の取材が始まりそうな勢いだ。
けれど、そこは雪華さん。
手を二度叩くとその音に我に返った椿ちゃんが首を左右に激しく振り、まるで遊びたい欲求に負けじと奮闘する受験生のような反応を見せた。
「……べ、別に大して興味なんかありませんし。猫なんか……珍しくもなんともないですし……。そんなことより、二つ目の質問にさっさと移行しましょう」
今にも泣きそうな様子でインタビューが続く。
さすがにこのままでは可哀想だから、また今度ゆっくり話そうと苦笑混じりに呟けば、少し間を開けたのち表情を曇らせたままこくんと頷いてみせた。
なんか可愛い。
「それでは……生まれてこの方、変な夢を見たことはありませんか?あまりに鮮明で、頭から離れないような夢は」
「夢、かぁ」
夢と一概に言っても普段から様々な夢を見ているため、思い当たるものがあっても無数にあり過ぎてキリが無い。
雲の上を自由に飛ぶ夢、水泳世界大会でありえない記録を叩き出して優勝する夢、宝くじが当たって豪遊しまくる夢。
言ってしまえばどれもこれもありきたりで夢ならば平凡な内容で、特筆するような特別はものは何一つとしてない。
悪夢もたまには見るものの、それもまた平凡なものばかりで変わったものとは言い難い。
残念ながら該当するような夢は…………
いや、ある。
たった一つ、心当たりのある夢が。
小さい頃に見て、いまだに時折思い出す、不思議で生々しい夢を。
「……昔見た夢で、こんなのがあったんだ。池の中に落っこちて沈んでく夢。その内容が気持ち悪いくらい生々しくて、いまだに覚えてるんだけど……」
「池、ですか」
「うん。夜の真っ暗な森の中をただただ彷徨ってて、草木が生い茂る雑木林の中でその池を見つけたんです。夜だということもあって水面は黒く不気味に広がってて、近寄りたくはないけど足が勝手にその池の方へ向かっていって……そのまま落ちました」
「まさか……」
話の途中で、椿ちゃんの顔色がどんどん変わっていく。
畏怖とも驚愕ともとれる目で私を見つめ、手にしていた鉛筆を畳の上へ落とすもその事にすら気が付かないほどに動揺していた。
「……その夢、続きはこうじゃろ?沈みゆく水の中で目を開けたら色鮮やかな魚が辺りに群れており、その眼下にはそれらを取って食おうとする黒い大きな魚の群れ。それらは延々と、まるで縮図のように下へ下へと繰り返され……終いにお主が見たのは無数の眼をもった得体の知れない巨大な怪魚……そうじゃろう?」
「……どうしてそれを」
静聴に徹していた雪華さんが口を開いたかと思えば、あまりにも正確に私の見た夢を言い当てた。
この夢に関してもちろん他人に話したことは一切無く、今日あったばかりの雪華さんが知り得るはずがない。
けれど、椿ちゃんの見せた動揺や雪華さんの正確すぎる言い当て具合からして、およそこれは非常にまずい事態だと本能的に理解した。
「怪異の名は千眼獄鯉。あるきっかけを引き金に夢を見せることで宿主に取り憑き記憶を貪る妖怪じゃ。長い年月を経て記憶を貪り徐々に肥えたその鯉はやがて……」
雪華さんがようやく仏像などから目を離すも、その目は冷静さの中にどこか冷酷さが垣間見えた。
残酷な現実、そして待ち受ける未来を告げる執行人のように、その視線は私の双眸を射抜いた。
「成体となった暁に宿主を殺してしまう。おそらく、お主がここに来てしもうた理由……それは千眼獄鯉にとってこの世界が水辺同然、住みやすい環境じゃから。つまり宿主を捨て顕現する時期はもう目前というわけじゃよ」
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