路地裏ごはん

明日葉

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新入社員

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 春。



 会社の中を顔見せかねて案内されている新入社員の中に、見覚えのある顔を見つけた。
 驚きで凝視しすぎたのか、こちらを見た彼女は、記憶通り、淡々と軽く会釈を寄越した。








「あの子、知ってるんすか?」

 視線に気づいたらしい後輩に声をかけられて、曖昧に返事をした。ただ、それでも入ってきた情報から、総務に配属になる予定だと言うことはわかったが。
 研修室に顔を出して、視線が合えば、察して歩み寄ってくる彼女、佐倉亜美を誘って自販機の前に立つ。
「何にする?」
「…じゃあ、ミルクティを」
 言われたものを渡して、素直に口をつける様子を見下ろしながら、自分でも何がしたいのか、と思いながら頭をかいた。
「どうしたんですか、新堂さん。あ、お久しぶりです」
「久しぶり、ね。そうだね」
 久しぶり、と軽く言うにはずいぶん久しぶりだ。
「やめたの?あれ。ここに就職したってことは」
「あれ?」
「なんだろ。あれ。こども食堂、って言うの?」
「そんな、大層なもんじゃないです。だから仕事じゃないし…。あれは生活なので」
「生活…」








 亜美と会ったのはもう、3年前か、4年前か。
 仕事で遅くなるどころか終電を逃して、始発で帰ってシャワーと着替えでも、と歩いていた。始発を待つより、歩いて帰ってもとぼんやり歩いていた自覚はある。
 そんな時間に、誰にも会わないだろうと思っていたところで、中学生とも高校生とも判断の難しいような少年とぶつかりそうになった。寝不足でイライラしていたのだろう。ガキがこんな時間に何やってんだ、と思わず絡むような真似をした。血の気が多い少年は食ってかかってきたが、細身の少年をひねり上げるのは簡単な話だった。
 腕を掴んで、警察に突き出したものか、家を聞き出して保護者に返すか。そもそもそこまで面倒見る必要があるのかと考えていたところで、不意に背後から声をかけられた。
「何、してるんですか?」
 この状況でかけられる声のトーンではないな、と振り返った。しかも、こんな時間になんでこうも人に出会すのか、とその時は思った。自分が知らないだけで、動いている人たちもいるのだとわかったけれど。
 犬を連れた少女が、後ろ手に捻り上げている少年の腕を真っ直ぐに見つめている。
「その子、何かしました?知ってる子なんですけど」
 そう言われると、言葉に詰まる。食ってかかってきたが、そもそもはこちらから水をむけたようなものだ。
 返事に窮していると、本当に知り合いらしく、少女は少年に声を向ける。
「一行、何やったの?」
「歩いてただけだよ」
「…まあ、あんたの見た目でこの時間に歩いてたら注意もされるだろうから、いちいちカッとするのやめな?」
 お見通しの様子でそう言った彼女は、そのまま犬を抱き上げて近づいてくる。
「その手、離してあげてください」
 言われてようやくそのままだったことに気付いて手を離した。居心地悪そうな少年は、少女の腕の中の犬をじっと見つめている。そこ以外に目のやり場がない様子で。
「いいよ、行きな。遅刻する」
「うん」
「帰り、おいで?」
「行く」
「…何がいい?」
「トマトの味噌汁」
 ふは、と笑った少女は、一行、と呼んだ少年を送り出して、ようやくこちらに目を向けた。



「あの子、新聞配達してるんで、この時間に動いてるんです。心配して声をかけてくれたんですよね。ちゃんと話せばいいのに。すみません」
 なんとなく、並んで歩きながら亜美、と名乗った彼女はそう説明をする。
「最後のやりとりは?」
「ああ…」
 返事をしようとしたところで不意に足を止めるから何かと思うと、犬が足を止めて何やら夢中で道端の匂いを嗅いでいる。少しだけ好きにさせて、軽く亜美がリードを引くと素直にまた歩き出す。
「家に帰っても、朝ごはんないから、うちで食べなってことです。で、考えるの面倒だなって食べたいものを聞いたんだけど…予想外だったなぁ」
「トマトの味噌汁って…旨いの?」
 流石に意外すぎて、つい聞いてしまった。亜美は美味しいですよ、と笑って、揺るぎない目で見上げてくる。
「トマト嫌いのあの子がリクエストする程度には」
「…弟さん?じゃないよね、あの言い回しは」
「んー。幼なじみ、かな。地元が一緒で」
 亜美の目が、測るようにオレの格好を眺めているのがわかった。完徹状態で仕事してきた後だ。よれよれな自覚はある。これでも、見た目に自信は、あるんだけれど。
「お兄さん、もしかしてこんな時間にお仕事帰りですか?お酒の匂いしないし、飲んだ帰りじゃないですよね」
「そ、仕事帰り。いったん家に帰ってシャワー浴びて着替えして、また出勤」
「わー、ブラック」
 けろり、と笑って言われると、だよなーと流せてしまう。ちょっと、仕事が立て込んだだけで別にブラックなわけではない。ただ、まあ。女関係の妬みで仕事を増やされ邪魔された結果、ではあるけれど。
「近いんですか?」
「二駅、かな」
「は?」
「始発待つか迷ってる間に、歩いてた」
「…うちで食べてみます?トマトの味噌汁」




 いつも通り、女の誘い、と言うには彼女はそういうタイプには確かに見えなかった。そして、そういう誘いではなく、本当に純粋に休ませてくれようとしただけだった。
 こんな道があったのか、という路地裏に入って行った古い造りの一軒家。鍵を開ける様子もなく入っていく彼女に、家族がいるのか聞くと、軽く首を傾げる。
「今は仕事でちょっと留守ですね。家族は」
「だって鍵」
「いつ誰がきても入れるようにしてるんです」
「…さっきの子とか?」
 そう、と頷きながら、亜美はふかふかのバスタオルを渡して奥を示す。
「お風呂、あっちです。使ってください。そのあとは、その部屋のベッド、使っていいんで少し寝ててください」
「え、は?」
「大丈夫ですよ、洗ってあります。全部」
 回らない頭でも変わった状況なのはわかった。ただもう、風呂とベッドの誘惑に勝てなかった。
 足を伸ばせる広めの湯船は、外観とちょっと合わないからリフォームでもしたのか。風呂から上がると、家族のを出してくれたのか男物のスウェットが置いてある。オレも背が高いが、だいぶ長身の家族がいるのだな、とどうやら足が長いらしい相手にちょっと張り合う気持ちも、ベッドの前にすぐに消えた。




 意識が浮上した時には、いい匂いがしていて。家の中に人の気配がする。
 時計を見て、着替えに帰る時間はないな、とため息をついた。それでも、短時間でもしっかり休めたおかげで体が楽でため息が出る。
 起きていくと、一行と、小学生の男の子が2人と女の子が1人、食卓に座っている。
「あ、起きました?何時に起こせばいいか聞き忘れたから、そろそろ起こそうかと思ったんですけど」
「…何、亜美、あれ、拾ってきたの?怒られぞ」
「あは。怒られた。でも、あんだけ疲れてたら平気でしょ」
「結果論だ、危機感たらねぇんだよ、お前」
「口悪いなぁ。昔はあんなに可愛かったのに」
「あみちゃん、かず兄に怒られてるの?」
「そうなの。どうしようか」
「怒られること、しなければいいと思う」
「…あんたたち、わたしの味方してくれても」
 賑やかな食卓に、湯気の立つ茶碗や皿が並べられていく。見知らぬ子どもに招かれてそこに座ると、トマトの味噌汁と、ご飯と、焼鮭に卵焼き、温野菜のサラダのような小鉢が並んでいた。



 トマトの味噌汁は、旨かった。他の料理も旨かった。
 子どもたちはきれいに平らげて、元気に学校に出かけて行った。みんな、近所の子、らしい。帰りも、来るんだとか。一行には弁当も渡していた。高校生なんだとか。
 オレには、着替えが用意されていた。まだおろしてないから大丈夫と渡されたワイシャツは、ぴったりとは言えないけれど着られるサイズで。しっかりとかけておいてくれたスーツはシワになることもなく、しかも、さっきまで着ていたワイシャツは洗濯機にかけられていた。来れる時に、取りに来てくれとさらりと言われた。



 あれは、子ども食堂なのか、と思っていたのだけれど。
 その後も、少しの間、何度か行ったけれど。
 そんな、しっかりしたものじゃないというけれど。それを生活、というのなら。その生活に組み込まれている子たちは、子ども食堂よりもよほど安心できる場所を持っているということなんだろうか。



「新堂さん?何か?」
「オレの会社ってわかってて受けた?」
「受かってから、新堂さんの勤務先だなぁって気が付きました」
「変わらんね、お前」



「なあ、久しぶりに、行っていい?」
「いいですよ」
「家族にまた叱られない?」
「多分、新堂さんはもう大丈夫です」
 いまだに会ったことのない亜美の家族。親なのか、祖父母なのか、兄弟なのか、なんなのかも知らない。亜美に過保護で、好きにさせていることはわかるけれど。

 忘れかけていたのに、思い出せばあの路地裏のご飯が、恋しくなる程度には行っていたんだな、とのんきに買ってやったミルクティを飲んでいる頭を見下ろしながら笑えてきた。




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