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王子の呼び出し
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就業時間。また、ローランドがリラの職場を訪れた。ただ、さすがに用件を察して小さく隠れてため息をつき、リラは帰り支度をして立ち上がる。
「ロー様、お疲れのところを。エリアス殿下に言われました?」
「ああ。君をお連れするようにと」
「お忙しい方を巻き込んで…」
小さく呟いて微かに顔をしかめる様子にローランドは黙って首を振る。むしろ願い出たようなものだ。
あの後情報収集をした。きっと、リラが知られたくないことを、勝手に調べてしまったのだという自覚は、ある。互いに知っていけば良いと思っていたが、先ほどのことで。知らないことでとっさに守ることができない事態を招くことを恐れ、調べてしまった。
ただ。
あの時に知っていたら、あの2人を、護衛などするはずもなく、リラの前に姿を晒させるわけもなく。いや、手を上げずにいられたとは思えない。
リラの同僚たちがリラを逃していた理由が、嫌というほどに分かった。彼らはその全てを知るわけではないだろうが、それでもそうしようと思うようなやりとりを繰り返しているということなのだろう。
ただ、エリアスがよく姿を表すということは分かったのだが、王家に関わる情報は、この短時間では得られなかった。
「殿下と、親しいのか」
「親しい…」
少し考えるそぶりで、曖昧な顔になる。肯定とも否定ともつかない顔は、答えを持たないということか。
なんとなく、それ以上言葉を交わさないままローランドはリラと歩き、その横顔を見下ろす。いつもと何も違わない表情。
その顔が、不意にローランドを見上げる。
「ロー様。先ほどはありがとうございました。ロー様にお茶はかかりませんでしたか?」
「ああ。それは問題ない」
「…護衛されている方にあのように…大丈夫でしたか?」
思わずローランドは目を見開いた。あれは、当然守るべきものを守ったのだ。あの時、お茶をかけようと、いや、おそらくは器ごと投げつけようとしたスィミリアが、暴漢だ。何より、危なかったのはリラなのだ。
「君を守らないで、どうするんだ」
「…あまり、あの方の意図を無視しないほうがいいですよ。取り返しのつかない思いをすることも、ありますから」
それは、彼女の夫のことか、と口をついて出そうになるのを飲み込む。
未来ある有能な、快活な青年を、抜け殻のようにした女。常に気に入らないものに対し最大限の悪意を向け、羽前と同じ程度では気が済まなくなり、さらに…と、積み重ねられていく澱のようなものに、きっとこの人は何年も何年もさらされ続けてきた。それはきっと、リラにとっては思いもよらない、何か、スィミリアが欲するものを持っていたとか、その程度の理由。
エリアスの執務室につけば、待ち構えていたように侍従が扉をあけてリラを中に通す。入ったリラが、挨拶の礼をとった姿勢のまま、器用にローランドの方を伺えば、なぜか不服そうな声でエリアスがローランドにも入室を許可した。
「お呼びでしょうか、殿下」
「…楽にしてよ、リラ」
頭を上げないまま無言のリラに、苛立つ様子もなく、むしろ情けない顔でエリアスは歩み寄った。
エリアスの侍従が顔をしかめるが、それは無視する。そんなことをすれば、また嫌がられるぞとその顔が言っているけれど。
すぐ目の前に立ち、少し戯けたような仕草で身をかがめ、リラの顔を覗き込んだ。
きらきらしたような綺麗な顔にそのように覗き込まれ、普段は見下ろしてくる眼差しに見上げられれば、リラも焦るというもの。その様子を面白げにリラの腕に手を添えて顔を近づけようとしたところで、ローランドの思わず背筋が凍るような声が響いた。
「殿下。お戯れは程々に願います」
「…副団長の氷が溶けたと噂には聞いたが。まさか本当だったとはな」
愉快げにそう言ってローランドを一瞥すると、自然な仕草でリラをエスコートし、応接セットの椅子に腰掛けさせた。
「彼の入室を許したんだ。少しはご褒美をくれないかな?」
その軽口を塞ぐのに、この状況に免疫のない第三者にいて欲しかったのに効き目なしか、と、予想はしていた結界リラはため息をつく。
そして、諦めたように微笑んだ。
「先ほどは、心配をしてお運びくださり、ありがとうございました。ですが。もうおやめくださいね」
「…そればっかりは、約束してあげられないな」
困ったように笑って答えるエリアスに、リラもため息を漏らす。
油断なく、そのリラの側に立つローランドを見やり、エリアスは人の悪い笑みを浮かべた。
「ウェルム副団長。ここには彼女を害するものはいない。そしてもし、私が貴殿の気に食わない行動を彼女に対し行ったとしても、王家に仕える騎士である貴殿は、私を害せないぞ」
「それでも、彼女は守れますから。か弱き者を守るのもまた、騎士の務めかと」
「ははっ。貴殿の口からそのような言葉を聞く日が来るとは。本心は、相手が誰だろうと、手を触れさせたくはないだけだろう」
「お察しなのでしたら、悪ふざけはお控えください」
腕は承知している。その上での言葉であれば、エリアスはふん、と鼻で笑うしかない。
まあいい、とエリアスはその目をリラに戻す。
「リラ。いい加減、シグルド夫人を自由にさせるのは、やめないか?」
「…何をもって、でしょうか。殿下も、お分かりのはずです。あの方は、自由を奪われるほどのことを、していませんよ」
自分の手では。もしくは、やっていても、誰も知らない場所で。結果的に、知る者がいなくなるか、口を開かなくなるかも含めて。
だが、と言おうとするエリアスに、リラは首を横に振る。
不確かなことで、特に王家が動いてはいけない。王家は、公平でなければならない。公正でなければならない。
「わたしも、彼女のしたことで、許せないことはあるようです」
「他人事のように」
呆れた口調に、やっとリラが自然な様子で苦笑いを浮かべた。
「あの方に会った後食が細くなり、我が家の執事に指摘されました。あの方はきっと、わたしが衰弱するまでついて回るだけで、あの方が一番望む結果を手を汚さずに得られるだろうと」
それを口にしたときの、あの執事の顔は思い浮かべたくもないな、とエリアスとローランドは同時に思う。
スィミリアの素行は、よくない。はっきり言って、悪い。男性関係にもだらしなく、夫であるシグルド卿は社交界でも哀れまれ蔑まれ、嘲笑われ、そして、怒りをかっている。
それでも、彼が、あの優しい幼なじみが彼女を妻にと求め、愛しているのなら、と、リラも思った。けれど、そう見えたことは、一度としてなかった。ひだまりのように笑う少年が、あの日。自分がパートナーとして付き添いながら不覚にも…眠らされ。その間に、陥穽に落ちたのだ。心を痛め続けても、彼は顔を合わせてもくれない。
「殿下?」
「ん?」
甘く応じるエリアスの顔はしかし、曇っている。
「スィミリア様は、確かにわたしにとっては、関わらずにいられるものであれば、関わりたくない方です。それは、認めます。けれど、彼女と共にいる、彼女の夫の名誉は守る…いえ、きちんと、あるべき形に回復したい。名誉以上に、彼にまた、笑顔を浮かべてほしいのです。それがわたしに向けられることはなくても」
「君は…甘いな」
「それが許される立場の人間ですから。さらにいうなら、イルク様も、開放して差し上げたいです。わたしには、あの方の罪悪感がどこからきているのか分かりませんけれど。女癖の悪さを反省しているわけでは、なさそうですけれどね」
「違いない」
はっ、と声を出して屈託なく笑ったエリアスが、その目をローランドに移す。
「貴殿を認めるかは、これからじっくりと考えさせてもらおう。今日も、わたしの言うことを素直に聞く気のないお嬢さんは、そろそろ帰りたそうだ」
無言で肯定の微笑みを、リラははっきりと浮かべる。
「先ほどのこともある。きちんと家まで送り届け、執事に引き継ぐように」
「殿下!」
「もちろんです」
リラの咎める声と、ローランドの承諾が重なり、エリアスは再び笑った。
「ロー様、お疲れのところを。エリアス殿下に言われました?」
「ああ。君をお連れするようにと」
「お忙しい方を巻き込んで…」
小さく呟いて微かに顔をしかめる様子にローランドは黙って首を振る。むしろ願い出たようなものだ。
あの後情報収集をした。きっと、リラが知られたくないことを、勝手に調べてしまったのだという自覚は、ある。互いに知っていけば良いと思っていたが、先ほどのことで。知らないことでとっさに守ることができない事態を招くことを恐れ、調べてしまった。
ただ。
あの時に知っていたら、あの2人を、護衛などするはずもなく、リラの前に姿を晒させるわけもなく。いや、手を上げずにいられたとは思えない。
リラの同僚たちがリラを逃していた理由が、嫌というほどに分かった。彼らはその全てを知るわけではないだろうが、それでもそうしようと思うようなやりとりを繰り返しているということなのだろう。
ただ、エリアスがよく姿を表すということは分かったのだが、王家に関わる情報は、この短時間では得られなかった。
「殿下と、親しいのか」
「親しい…」
少し考えるそぶりで、曖昧な顔になる。肯定とも否定ともつかない顔は、答えを持たないということか。
なんとなく、それ以上言葉を交わさないままローランドはリラと歩き、その横顔を見下ろす。いつもと何も違わない表情。
その顔が、不意にローランドを見上げる。
「ロー様。先ほどはありがとうございました。ロー様にお茶はかかりませんでしたか?」
「ああ。それは問題ない」
「…護衛されている方にあのように…大丈夫でしたか?」
思わずローランドは目を見開いた。あれは、当然守るべきものを守ったのだ。あの時、お茶をかけようと、いや、おそらくは器ごと投げつけようとしたスィミリアが、暴漢だ。何より、危なかったのはリラなのだ。
「君を守らないで、どうするんだ」
「…あまり、あの方の意図を無視しないほうがいいですよ。取り返しのつかない思いをすることも、ありますから」
それは、彼女の夫のことか、と口をついて出そうになるのを飲み込む。
未来ある有能な、快活な青年を、抜け殻のようにした女。常に気に入らないものに対し最大限の悪意を向け、羽前と同じ程度では気が済まなくなり、さらに…と、積み重ねられていく澱のようなものに、きっとこの人は何年も何年もさらされ続けてきた。それはきっと、リラにとっては思いもよらない、何か、スィミリアが欲するものを持っていたとか、その程度の理由。
エリアスの執務室につけば、待ち構えていたように侍従が扉をあけてリラを中に通す。入ったリラが、挨拶の礼をとった姿勢のまま、器用にローランドの方を伺えば、なぜか不服そうな声でエリアスがローランドにも入室を許可した。
「お呼びでしょうか、殿下」
「…楽にしてよ、リラ」
頭を上げないまま無言のリラに、苛立つ様子もなく、むしろ情けない顔でエリアスは歩み寄った。
エリアスの侍従が顔をしかめるが、それは無視する。そんなことをすれば、また嫌がられるぞとその顔が言っているけれど。
すぐ目の前に立ち、少し戯けたような仕草で身をかがめ、リラの顔を覗き込んだ。
きらきらしたような綺麗な顔にそのように覗き込まれ、普段は見下ろしてくる眼差しに見上げられれば、リラも焦るというもの。その様子を面白げにリラの腕に手を添えて顔を近づけようとしたところで、ローランドの思わず背筋が凍るような声が響いた。
「殿下。お戯れは程々に願います」
「…副団長の氷が溶けたと噂には聞いたが。まさか本当だったとはな」
愉快げにそう言ってローランドを一瞥すると、自然な仕草でリラをエスコートし、応接セットの椅子に腰掛けさせた。
「彼の入室を許したんだ。少しはご褒美をくれないかな?」
その軽口を塞ぐのに、この状況に免疫のない第三者にいて欲しかったのに効き目なしか、と、予想はしていた結界リラはため息をつく。
そして、諦めたように微笑んだ。
「先ほどは、心配をしてお運びくださり、ありがとうございました。ですが。もうおやめくださいね」
「…そればっかりは、約束してあげられないな」
困ったように笑って答えるエリアスに、リラもため息を漏らす。
油断なく、そのリラの側に立つローランドを見やり、エリアスは人の悪い笑みを浮かべた。
「ウェルム副団長。ここには彼女を害するものはいない。そしてもし、私が貴殿の気に食わない行動を彼女に対し行ったとしても、王家に仕える騎士である貴殿は、私を害せないぞ」
「それでも、彼女は守れますから。か弱き者を守るのもまた、騎士の務めかと」
「ははっ。貴殿の口からそのような言葉を聞く日が来るとは。本心は、相手が誰だろうと、手を触れさせたくはないだけだろう」
「お察しなのでしたら、悪ふざけはお控えください」
腕は承知している。その上での言葉であれば、エリアスはふん、と鼻で笑うしかない。
まあいい、とエリアスはその目をリラに戻す。
「リラ。いい加減、シグルド夫人を自由にさせるのは、やめないか?」
「…何をもって、でしょうか。殿下も、お分かりのはずです。あの方は、自由を奪われるほどのことを、していませんよ」
自分の手では。もしくは、やっていても、誰も知らない場所で。結果的に、知る者がいなくなるか、口を開かなくなるかも含めて。
だが、と言おうとするエリアスに、リラは首を横に振る。
不確かなことで、特に王家が動いてはいけない。王家は、公平でなければならない。公正でなければならない。
「わたしも、彼女のしたことで、許せないことはあるようです」
「他人事のように」
呆れた口調に、やっとリラが自然な様子で苦笑いを浮かべた。
「あの方に会った後食が細くなり、我が家の執事に指摘されました。あの方はきっと、わたしが衰弱するまでついて回るだけで、あの方が一番望む結果を手を汚さずに得られるだろうと」
それを口にしたときの、あの執事の顔は思い浮かべたくもないな、とエリアスとローランドは同時に思う。
スィミリアの素行は、よくない。はっきり言って、悪い。男性関係にもだらしなく、夫であるシグルド卿は社交界でも哀れまれ蔑まれ、嘲笑われ、そして、怒りをかっている。
それでも、彼が、あの優しい幼なじみが彼女を妻にと求め、愛しているのなら、と、リラも思った。けれど、そう見えたことは、一度としてなかった。ひだまりのように笑う少年が、あの日。自分がパートナーとして付き添いながら不覚にも…眠らされ。その間に、陥穽に落ちたのだ。心を痛め続けても、彼は顔を合わせてもくれない。
「殿下?」
「ん?」
甘く応じるエリアスの顔はしかし、曇っている。
「スィミリア様は、確かにわたしにとっては、関わらずにいられるものであれば、関わりたくない方です。それは、認めます。けれど、彼女と共にいる、彼女の夫の名誉は守る…いえ、きちんと、あるべき形に回復したい。名誉以上に、彼にまた、笑顔を浮かべてほしいのです。それがわたしに向けられることはなくても」
「君は…甘いな」
「それが許される立場の人間ですから。さらにいうなら、イルク様も、開放して差し上げたいです。わたしには、あの方の罪悪感がどこからきているのか分かりませんけれど。女癖の悪さを反省しているわけでは、なさそうですけれどね」
「違いない」
はっ、と声を出して屈託なく笑ったエリアスが、その目をローランドに移す。
「貴殿を認めるかは、これからじっくりと考えさせてもらおう。今日も、わたしの言うことを素直に聞く気のないお嬢さんは、そろそろ帰りたそうだ」
無言で肯定の微笑みを、リラははっきりと浮かべる。
「先ほどのこともある。きちんと家まで送り届け、執事に引き継ぐように」
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