Chocoholic 〜チョコ一粒で、割といろいろがんばります〜

明日葉

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急に燃費が悪くなりました

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 文香が何も言えずにいるのを見て、志穂は哀し気に語り掛ける。

「……文香さんがこんな手段に出たことを知ったとき、私も最初は信じられなかった。そんなことをするような人じゃないって、必死に否定したわ。でも……」

 羽毛が耳を撫でるような柔らかい声で志穂は文香を追い詰めようとしている。
 当の文香は苦々しく顔を顰めることしかできない。
 子猫のように愛らしい志穂に文香は言い様に甚振られていた。
 無力な鼠にでもなったような気分だ。
 あの頃と変わらず、文香は志穂の甘く優しい声が苦手だった。

「文香さんがあの後…… 離婚してからの三年間、どこで何をしていたのか。どうして優君に近づいたのか。 ……考えれば考えるほど、一つしか浮かばなかった」

 文香は黙ったきりだ。
 志穂に文句を言いたいのを、懸命に堪えた。
 文香の不用意な発言で何がどう作用するのか分からない。
 志穂がどう解釈するのか文香にはまったく予想がつかないのだ。
 そのため沈黙がもっともベターな選択に思えた。
 優が何も反応しない以上、文香にはどうすることもできない。
 もっと早くに志穂の言葉を遮るべきだったと今更後悔しても遅いだろう。

 志穂の言葉によって優がどんな影響を受けるのか。
 その結果、文香の今までの努力はどうなるのか。

「……まさか、文香さんがこんな卑劣で、厭らしい手を使うなんて」

 文香は一人静かに絶望していた。
 音もなく、足元から這いよって来るような絶望感。
 文香の表情を見た志穂の目に嫌な色が浮かんだのが見えたが、文香にはもうどうでも良いことだった。

 志穂が文香を睨む。
 そして、哀願した。

「もう、優君を解放してください。どうしても、許すことができないなら…… 私を恨んでください。私に、復讐をしてください」

 隣りの優が身じろぎしたのを、文香は嫌にリアルに感じた。
 どこまでも健気で、思いやりのある志穂の言葉や行動に優は何を思うのだろうか。

「文香さん、お願いだから…… 優君を、これ以上苦しめないで」

 嫌な汗が文香の背中を伝った。






 今の文香はただ、怯えていた。
 文香が今最も必要としている優、今現在文香を断罪しようとしている志穂。
 そのどちらも今の文香の頭にはなかった。
 文香の脳裏を過ぎるのは「破綻」の二文字である。
 まさに今、文香の目的が破綻するかしないかの瀬戸際なのだ。
 運命の鍵を握るのは文香の元夫である香山優だ。
 だから文香は慎重に優を見上げた。

 志穂の話を聞いた優が何を思い、どう行動するのか。
 それが一番重要だった。
 計画が、志穂という予想外のアクシデントで破綻してしまうかもしれないという事実に、文香はぞっとした。
 パニックに陥りそうになる自分を叱咤しながら、手が微かに震えるのが分かる。
 志穂の囀りなど今の文香の耳にまったく入らない。
 震える指先は無意識に何かを探ろうとしていたが、両手に抱えた荷物が邪魔でできなかった。
 そうこうしている内に、文香の視線は隣りの優を捉えていた。

 怯えるように、祈るように優を見上げた文香は何を言えばいいのかまったく考えていなかった。

「……優」

 それでも、口が勝手に優の名をか細く呼ぶ。

「お願い、私の話を…… きいて」

 文香の真意、目的。
 全てを話すことはまだできない。
 いや、きっと話しても意味がない上、余計に優を混乱させてしまうだろう。

 それでも、今このときだけでもなんとか優の心を、文香への未練と執着に縋り付こうと文香は必死で纏まらない想いを伝えようとした。

「やめて……っ」

 文香の言葉を遮るように、志穂が悲鳴を上げる。
 拳を握りしめ、歯を食いしばりながら志穂は必死に優を

「もう、優君を惑わさないで……! 優君が、優君が、どんな気持ちでいたのか、今までずっと、文香さんへの贖罪のために独りで苦しんでいたのよ? どうして、どうして思いやってあげれないの……!?」
「っ、邪魔しないで! こっちにはこっちの事情があるの……! いちいち外野が口出ししないでよ!」

 志穂に好き勝手言われていたことと、それに反論できなかった自分自身の無能さに文香は相当苛立っていた。

(この女のどこが、だって言うのよ……!)

 他にも自己主張ができず、恥ずかしがり屋で人見知りだと散々聞かされた当時のことを思い出すだけで文香の苛立ちが上がって行く。
 いじらしくも文香を睨む志穂に文香は元から悪い目つきを更に険しくした。
 文香にとっては忌々しくも、もう振り返るつもりのない苦い過去の象徴。
 当時の生々しい感情が蘇りそうになり、口の中に苦い物が広がった。
 だからこそ余計にそわそわする。
 志穂の存在を恐れていた当時の文香にはできなかったことを今してやりたい。

(その鼻と前歯を折ってやろうか)

 今手に持っている荷物を円盤投げの要領で志穂の顔面にぶつけてやりたい。
 暴力的ながらも大変魅力的な妄想が文香の脳内に広がる。
 おかげで一瞬だけ気持ちが落ち着いた。

 しかし、今はそんな妄想をしている場合ではない。

 自分が突発的な事件に弱く、気が強い割に肝心なところで怖気づいてしまうなかなかのヘタレであることを文香は嫌でも理解している。
 三年前に気づいてしまった自身の脆さに、今の文香は必死に向き合おうとしているのだ。

(結局私は、一人じゃ何もできない)

 トラウマとなった目の前の二人を前にしても冷静に立ち回れるようになったと思った矢先の、この体たらくぶりに文香は泣きそうになった。
 それを誤魔化すようにより強く志穂を睨みつける。

……)

 一瞬でいいから、大事な人の声が聴きたかった。
 ありえないと思いつつも、不甲斐ない文香を叱って欲しい。

「関係ならあるわ……!」

 文香も志穂も頭に血が昇り、自分達が大声を上げている場所がどこだかすっかり失念していた。
 冷静であったはずの文香ですらそうなのだ。

「だって、私は…… 今でも優君のことを、愛しているから……!」

 ぶわっと涙を溢れさす志穂。
 顔を真っ赤にして、涙声で告白する。

「愛する人が不幸になるのを、黙って見ていられないわ! 優君は、私が…… 私が、まもるの……」

 その勢いと熱量に、文香は言葉を詰まらせた。
 ぴくぴくとその頬は引き攣り、優の反応を確かめる余裕すらなくなっている。

 よくもまあ、ぬけぬけと……

 というのが一番心境として近い。
 志穂という女は人の神経を逆撫でする天才なのではないかと文香は思った。
 それとも文香限定で苛立つのだろうか。
 分からない。

「だから、もう二度と…… お願いだから、二度と優君に近づかないで……!」
「……何を、勝手なことを」

 それができないから困っているのだと、文香が怒鳴り返そうとした瞬間。

「もう、やめてくれ」

 熱気が一気に冷めるような、温度の無い優の声が文香と志穂を貫いた。



* *


 優は不器用に笑っている。
 見る者の心が傷つくような、痛々しい笑みを浮かべたまま、優は何事もなかったかのように文香に視線を向けた。
 思わず後ずさりしそうになる文香に優は穏やかに語り掛ける。

「ごめんな、文香」

 静かな声だ。

「荷物、重かっただろう? 本当に悪い…… 勝手にいなくなって、支払いも任せっきりで……」
「……え」
「ほら、やっぱり俺が持つよ。文香の腕、もう赤くなってる」

 まるで何事もなかったかのように、優は文香の腕から荷物を優しく取り上げる。
 優の態度に困惑している文香は抵抗することも拒絶することもできなかった。
 あんなにも重かった段ボールや買い物袋を優は器用に軽々と担ぐ。
 週末のみの文香の頑張りが報われたのか、それとも元から力のあった優にとっては例え痩せてしまった今の状態でも大した重みになっていないのか。

「もう、帰ろう」

 学生の頃からよく知る、優の朗らかな笑顔。
 向けられた当の文香は何故か冷や汗をかいた。

「早く帰らないと、アイスがもう溶けちまうぞ?」

 悪戯っぽく文香に笑いかける優に、文香は頷くことしかできなかった。

「……そう、ね」

 無意識に二の腕を摩る文香を優はにこにこと促す。
 早く帰ろうな、と同じことを繰り返す優に文香はどう反応すればいいのか分からないでいた。

「……ま、待って!」

 文香にだけ話しかけ、そのまま立ち去ろうとする優に志穂は悲痛な声をかける。
 だが、優は反応しない。
 文香が驚くほど、優は志穂の存在をした。

「優君……? な、なんで……? ねぇ、優君、まって、どうして……ッ」

 志穂の顔は真っ白になっていた。
 あまりのショックに、その人形めいた顔に皹が入ったが、優は一瞥さえしなかった。

「帰ろっか、文香」

 何度も文香に帰ろうと促す優の危うさと、自分達が今どこにいるのかを思い出した文香は色々なものを一旦その場で呑み込んだ。
 優の言う通りにしなかった場合、どうなるのか分からないという警戒心もあった。
 何よりも、自分が浮かべた笑顔が所々で引き攣り、痛々しいものとなっていることにまったく気づく様子のない優が純粋に心配だった。
 今までならありえないと断言できる優の態度に文香は少なからずショックを受け、戸惑っている。

 文香とは別のベクトルで志穂はもっとショックを受けただろう。

「なんで……?」

 呆然と志穂の口から落ちた絶望にすら、優は無関心らしく。

「ほら、早く」

 急かすように、文香をその場から連れ出そうとする。
 いや、早く家に帰ろうとしているのだ。
 文香との家へ。

「文香」

 今の優の目には文香しか映っていなかった。

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