ヒュゲリ

明日葉

文字の大きさ
上 下
31 / 34

30

しおりを挟む
 
 
 
 月末月初は仕事が忙しくなる凪瑚の生活スタイルにも琥太狼が慣れてきて、繁忙期であってもなんとか時間を作って子供達の面倒を見る生活をやめた頃。
 繁忙期に時間をやりくりするのは大変だったけれど、その仕事のペースに慣れてしまうと結果的に全体的に残業も減って、繁忙期も以前ほどの遅い時間までかかることは無くなった。仕事量が減っているわけではないから、同僚たちは呆れていたけれど。
 そんな頃、ようやく、データができたと琥太狼が凪瑚に連絡をよこした。基本的に毎週末会っていて、平日も時間が合えば食事などはしていて。そのついでに言われるかと思っていた凪瑚は、わざわざ連絡をくれたことに少し驚きながら、それでも胸がざわざわする。
 紬とのやり取り。紬がいなくなった後、自分の感情が揺さぶられるのが怖くて、画面を開くこともできないくせに、それを失うのも怖くて、交換時期を過ぎたようなスマホをずっと使い続けていた。
 どう、返事をしよう。
 そんな逡巡を見透かすように、続けてメッセージが届く。


 週末だし、会社の前まで迎えにいくよ。


 やりとりを全て目にしているだろうに、琥太狼はそれについて何も触れてこなかった。聞きたいことや、言いたいことはあったろうに。
 さりげなく、いつもいつも、琥太狼は優しい。


 ありがとう。19時には終わらせるように頑張ります


 返事を打って、すぐに返ってきた言葉に、自然と顔が緩んだ。

 敬語(笑)


 文字のやりとりだと、敬語が増える。それでも、癖みたいなもんだねと笑いながらも突っ込んでくる琥太狼のおかげで、だいぶ減ったと思うのだけれど。



「羽佐美、もう終わったの?」
「今日中の分は終わりましたよ。お先失礼します」
「あ、薄情者。俺の見積もりやってけ」
 すれ違いざまに営業の先輩に揶揄われて、凪瑚は笑って手を振る。このやろ、と揶揄う人に、あ、と思い出して足を止める。
「小林さん、残ってます?」
「うん?あいつは今日は直帰だな」
 ボードを確認して教えてもらうと、じゃあいいです、と凪瑚は頷く。週末だし、Hyggeにでも行っているのかもしれない。最近、あのバーにも足を運んでいないから、ふと行きたくなった。なんだか居心地の良い不思議な空間。きっと薫音の雰囲気なのだろう。
「なんだよ、小林だったら手伝った?」
「そんな区別はしませんよ。頼まれていた原価表できたので机に置いておいたんですけど。まあ、週明けにまた確認します」
「そうしろそうしろ」
 薄情者、と言ったわりに、仕事の話をする凪瑚に苦笑いして先輩は追い払う仕草をする。忙殺されることも多いような仕事量を抱えることもあるけれど、可愛がってくれる人も多いから苦にならないで続けているのだと思っている。
 あの、あんなことがあっても、戻ってきて居心地が悪い、と感じたことはほとんどなかった。警察を連れて乗り込んでこられたあの日は、周囲の受け取り方や対応が違えば最悪の日だったはずなのに。



 そんなことを思いながらビルを出ると、広い歩道を挟んで街路樹の下に、背の高いシルエットがある。その立ち姿だけで遠目にもすぐ琥太狼だとわかる。行きすぎる人が振り返るのを眺めて、本当に、人目を引く人だなぁ、と小さく笑いが浮かぶ。
 すぐに気づいた様子で、人並みを縫って大股に歩み寄ってくる姿は、颯爽としていて姿勢がいい。
 などと感慨に浸っていると、あまりに自然な流れで肩を抱き寄せられた。そのままこめかみに唇があたり、凪瑚は完全に固まる。
 外国暮らしが長かったから、を免罪符のように使ってこう言うことをちょいちょい仕掛けてくるのだが、完全に面白がられているとしか思えない。むくれる凪瑚に、面白がるように顔を覗き込んで琥太狼は当たり前のように指を絡めて手を繋いだ。
「お疲れ様。おかえり」
「……ただいま」
 言いたいことはいろいろあるけれど、と思うのに。どれもこれも何度も言った言葉ばかりで、結果飲み込んでしまい、出てくるのはそんな言葉で。負けた、とため息をつく頃には凪瑚の表情も緩んでいた。
 慣らされた、と言うべきなのか、開き直った、と言うべきなのか。
 甘えるように琥太狼の引き締まった腕に額をすり寄せて、凪瑚は琥太狼の顔を見上げる。身長差のせいで媚びるのではなく自然と上目遣いになる楽しげな表情に、琥太狼はぐ、と衝動を飲み込み、涼しい顔でどうしたの、と言うような視線を向ける。
「会社の前にお迎えって、なんか恥ずかしいね。照れるね」
「…照れて饒舌だな、凪瑚」
「照れるんだよ、照れてるんだよ、って言わないと、琥太狼くんわからないんだもん」
「わかったところで、照れてるの可愛いからまたやってやろうとしか思わないよ?」
「な…」
 絶句した凪瑚は、それは結果、ご褒美なんだけど、と頭に浮かんでフルフルと頭を振る。照れている、のは嬉しい、が根底にあるからだと言う自覚はある。
「いつか負かすから」
「いつも負けてるんだけどなぁ」
 わかってないな、と苦笑いして、琥太狼はため息をつく。何を言っても何をしても、凪瑚にかなうはずがないのだ。と言うのに。
「凪瑚、ご飯は?」
「まだ」
「何か食ってく?うちで食べる?」
「ラーメン食べたい」
「了解」
 ふは、と笑って琥太狼は凪瑚の手を握りなおす。小洒落た店や、凝った料理を出す店にあえて行くことはしない。気楽に行ける場所の方が、凪瑚も琥太狼も好きだった。
 小さな定食屋やカウンターだけのラーメン屋などに琥太狼がいると違和感がすごい、と凪瑚は未だに毎回くすくす笑っているけれど。その楽しげな様子も琥太狼にとっては、食事が美味しくなるスパイスでしかない。
「飯食ったら、うちで一緒に見ような?」
「…1人で、見るよ?」
「お前、しまい込みそうだから。それに、加瀬さんじゃないけど、凪瑚の反応見てから渡すか決める。反応次第では、編集変えたいし」
「いいのに。やりとりの記録が残ればいいんだもん」
「見てから言えよ。記録だけのやつは、いつでも渡すから」
「ん」
 小さく頷く様子が、小さな子供のように不安そうで、琥太狼は握っている手に力を込める。仕方のないやつ。
 でも、やりとりをずっと追っていた琥太狼には、それも仕方ないんだろうと思えてしまう。失うには、大きすぎる存在。一瞬、琥太狼と接触を持っただけの人ではない、凪瑚と多くの時間を重ねていた人。


 ラーメン屋に入り、琥太狼は醤油ラーメンを、凪瑚は塩ラーメンを。2人で1枚の餃子をシェアして、琥太狼が頼んだチャーハンを数口、凪瑚がつまみ食いして。


 2人で琥太狼の家に帰り、先に風呂を済ませる。
 凪瑚が入っている間に準備をしながら、琥太狼は部屋を見回す。
 何度来ても、泊まっても、凪瑚はここに自分のものを置いて行かない。おこうとしない。自分の痕跡を残さないように。ある日突然、来なくなってもこの家に凪瑚のものは何も残らない。置いていいのに。琥太狼の生活を侵さないようにしている。琥太狼はそれを望んでいるのに。
 凪瑚に任せておくといい加減な、凪瑚の肌の手入れを琥太狼がする。化粧水を琥太狼の掌で温めてから凪瑚の顔にあて、その後もしっかりと念入りに。そうしてから凪瑚の髪をドライヤーで乾かして、そのまま、しっかりと膝の間に抱え込んだ。
 大きなテレビの前。
 腕の中の凪瑚が緊張している。触れ合っているからではない緊張に、宥めるように琥太狼は腕を撫でてやりながら、機械を操作した。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

続・上司に恋していいですか?

茜色
恋愛
営業課長、成瀬省吾(なるせ しょうご)が部下の椎名澪(しいな みお)と恋人同士になって早や半年。 会社ではコンビを組んで仕事に励み、休日はふたりきりで甘いひとときを過ごす。そんな充実した日々を送っているのだが、近ごろ澪の様子が少しおかしい。何も話そうとしない恋人の様子が気にかかる省吾だったが、そんな彼にも仕事上で大きな転機が訪れようとしていて・・・。 ☆『上司に恋していいですか?』の続編です。全6話です。前作ラストから半年後を描いた後日談となります。今回は男性側、省吾の視点となっています。 「ムーンライトノベルズ」様にも投稿しています。

なぜか水に好かれてしまいました

にいるず
恋愛
 滝村敦子28歳。OLしてます。  今空を飛んでいたところをお隣さんに見られてしまいました。  お隣さんはうちの会社が入っているビルでも有名なイケメンさんです。  でもかなりやばいです。今インターホンが鳴っています。  きっと彼に違いありません。どうしましょう。  会社の帰りに気まぐれに買ったネイルをつけたら、空を飛べるようになって平凡じゃなくなったOLさんのお話。   

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

そんな目で見ないで。

春密まつり
恋愛
職場の廊下で呼び止められ、無口な後輩の司に告白をされた真子。 勢いのまま承諾するが、口数の少ない彼との距離がなかなか縮まらない。 そのくせ、キスをする時は情熱的だった。 司の知らない一面を知ることによって惹かれ始め、身体を重ねるが、司の熱のこもった視線に真子は混乱し、怖くなった。 それから身体を重ねることを拒否し続けるが――。 ▼2019年2月発行のオリジナルTL小説のWEB再録です。 ▼全8話の短編連載 ▼Rシーンが含まれる話には「*」マークをつけています。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

元彼にハメ婚させられちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
元彼にハメ婚させられちゃいました

無表情いとこの隠れた欲望

春密まつり
恋愛
大学生で21歳の梓は、6歳年上のいとこの雪哉と一緒に暮らすことになった。 小さい頃よく遊んでくれたお兄さんは社会人になりかっこよく成長していて戸惑いがち。 緊張しながらも仲良く暮らせそうだと思った矢先、転んだ拍子にキスをしてしまう。 それから雪哉の態度が変わり――。

処理中です...