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しおりを挟む琥太狼は奏真に凪瑚が離乳食を食べさせているのを横目に眺めてから、その目を加瀬に移した。小さい頃から、自分から凪瑚を取り上げていた男。
遊んでいれば迎えに来るし、この男が来ると、凪瑚は満面の笑顔で、安心しきった様子で懐いていってしまう。大人になって、今は同じように守れる力を持っていると思うけれど、長年の感覚はまた別だろう。幼い頃から、歳の離れた兄のような存在、というずるい立ち位置を維持し続けた男のアドバンテージは大きい。
「料理、手慣れてんすね」
「ああ…もともと器用貧乏なんでね。何かするのに困ったことはないかな」
聞き様によっては嫌味な内容をさらりと言ってのける。事実そうなのだろう。凪瑚が来る頻度を落としてもこの家の中は荒れた様子はない。きちんと、この男は子供の面倒も見ているし家事もこなしているのだ。そうは言っても、琥太狼からしたらまだ行き過ぎだ、と言いたくなるほどに凪瑚は来ている。今は一緒に来るようにしてくれているからまだ、それを飲み込んでいるのだ。そして、子供たちから、凪瑚を取り上げられない。あの、凪瑚から預かったデータを見てしまえばなおさら。
「お義兄さん、わたしが小さい頃は兄さんよりもわたしの面倒見てくれてましたもんね」
「あいつは妹を放任しすぎだ」
「お義兄さんが過保護なんだと思うけど」
聞こえていた凪瑚の横槍に、加瀬の表情が和らぐのを眺めて、琥太狼の眉間に皺がよる。
3回の結婚を経ている男は、きっと、その妻のいずれも、愛してなんかいなかっただろう。
ここに凪瑚と来るようになって、凪瑚が子供達を風呂に入れるからと外している時に聞いたことがあった。それが頭から離れない。
あんたさ、3番目の奥さんは多少、自分の中に入れてたのかもしれないけど、その前の2人ってどうだったんだ?
そう尋ねた琥太狼に、加瀬はしばらく沈黙を寄越してから口の端を歪めるような笑いを浮かべた。凪瑚には見せないだろうニヒルな表情に、琥太狼はやっぱりこいつは油断できないと答えを待った。
確かに、と加瀬は静かな声で認めたのだ。
紬は、ずっと、凪瑚を大事にしていたから。だから、あれが望んだから離れた。一緒にいた方が、凪瑚が仕事を頼まなくても遊びにきたし、紬と楽しそうに過ごしているのを眺められたのだけど。面白くない気分になることもあったけどね。
つくづく、歪んでいると思うのだが、そこに至るまでもこの男の中の感情の動きを想像すると、ただ否定はできない、と思ってしまう。
自分だって、凪瑚を手に入れるために、囲い込むためになりふりは構わなかった。体に馴染みのない快感を与えて認めさせたようなものだ。歳の離れたこの男は、凪瑚の兄と親友のこの男は、そのために逡巡する時間を過ごしたのだろう。琥太狼とは違って、成長していく幼かった妹のような子をずっと近くで見守りながら。
ずっと、時間を飛ばすことなく共に過ごした記憶が、思い出があることは羨ましくて仕方ないが、こんな歪んだ選択をするに至った何があったのかと思ってしまう。きっとこの男が、自分の口で話すことはありえないのだけれど。
「1人目の妻、乃笑は凪瑚との関係を明瞭にしてくれた、というか、今後名乗りやすくしてくれたという意味しかなかったな。君に取り繕っても無駄なのは承知しているから言ってしまうけどね。あれは、あの形を受け入れなければ何をしでかすかわからない女だった。僕から見たら理不尽に、妹を爪弾きにしていた」
何を思い浮かべているのか、加瀬の目に昏い光が宿ったように見えて、琥太狼はゾッとした。全てはその女のせいなんじゃないか、と。見たことはある、凪瑚の姉。
幼い琥太狼も記憶にあるほどに、評判の良い少女だった。清楚で整った外見は、幼い少女の頃からで人当たりもよく大人たちがいつも褒めていた。キモチワルイ、と思っていたけれど。あんな嘘つきに、大人はどうして簡単に騙されるんだろう、と。
凪瑚と過ごしていた頃の琥太狼は太っていて、内向的で、いつもからかわれていた。そんなこと言っちゃだめよ、とその年上の女の子はいうけれど。大人たちが「本当にいい子ね」とそれを聞いてまた褒めるけれど。
その綺麗な笑顔で、優しげな声で、自分にしか聞こえないように…いや、凪瑚にも聞こえるように、白豚、と、片親だからそんななのね、と何度も言われた。あんたのせいで片親になったうちが大丈夫なのは、わたしと兄さんのおかげなのよ、とその口で凪瑚に言う声は、耳から離れない。
凪瑚は姉のその空気に怯えてはいたけれど、本当に不思議そうに、琥太狼君のお母さんは優しくて綺麗だよねぇ、と言うのだ。「そんななのね」てなんだろう、と首を傾げるのだ。
あのままの時間を、ずっと過ごして凪瑚が成長していくのを横で眺めていたとしたら、それを逸らすために必要だと感じたなら、婚姻という形くらい平気で差し出すだろうと妙に納得した。
そして本当に、形だけの夫婦だったのだろう、と。姉妹が一緒にいるのを見つけると、血相を変えて近づいてきていた加瀬を、琥太狼は幼い頃その時だけは、頼りにしていたのだ。大人たちとは違う。こいつはちゃんと気づいている。気づいているのはきっと、自分と同じだからだ、と。
「2人目は、すぐに終わったよ」
加瀬はそれしか言わなかった。なんの仕事してる人だったんだ、と聞くと、編集者、と。
琥太狼が嫌な顔をしたから、加瀬は続けたのだろう。何かあったと察した琥太狼の勘を褒めてご褒美を与えるように。
「凪瑚を遠ざけようとするから、思い通りにさせてあげただけだ。同じ作品を2人に見せて、片方はいつも通りに、片方は好きに編集させて、別の出版社から出させた。あの女の仕事が今どうなっているのかは知らないな」
「…凪瑚に何か言ったのか」
「口にしたくもないよ」
怒らせるだけの、何かをやらかしたのだろうな、と想像しているところで、ほかほかと温まった佳都と奏真を連れて凪瑚が戻ってきた。
ふと思いついて、琥太狼が尋ねたのは気まぐれでしかなかった。
どう考えても女運の悪いこのハイスペックな男が、この間までいた恋人をもう近づけることはないとわかっていたから。
「お前ら、ママはもう、いらないのか?」
牽制しようとしたわけではない。パパと凪瑚が結婚すればいいとか、チビに言われたら最悪だなと思っていたのについ、聞いてしまっただけだ。
「パパは、いいけど、ママは、なこちゃんいるのにいらないよ?」
家事に手慣れた様子の加瀬は、今まで何度結婚したところで「妻」と言う立場を与えた女に期待したことも何かをさせたこともなかったんじゃないだろうか。いや、唯一、紬を除いて。
そして。
あのやりとりのデータで薄々感じていた。
子供たちにとって、紬は父親だった。凪瑚がきっと、母親だった。
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