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しおりを挟む不機嫌を綺麗に隠して、加瀬は不機嫌の元から目を逸らし、ダイニングのテーブルで原稿を読んでいる凪瑚に目を戻す。
職業として文筆家になる前から、凪瑚が読むのを眺めていた。もともと本が好きな加瀬のところに、幼い凪瑚は遊びに来ては加瀬が昔読んだ本を楽しそうに読んでいた。その表情が羨ましくて、書き始めた。たった1人の読者は、何よりも楽しそうに、自分が書いたものを読んでくれた。
その、読んでいる表情を見るだけで、凪瑚が気に入った場面や、少し物足りなく感じている場所などがわかった。いくらでも、読んでいる凪瑚を眺めていられた。音もない、静かな時間がどれだけ流れても苦痛ではなく、むしろ心地よい時間。
それは、デビューしてからも変わらず、誰よりも先に凪瑚が目を通す。凪瑚の表情から読み取ったものをもう一度見直す。感想を、凪瑚が話したい時だけ、自由に話してもらう。聞いても、凪瑚は言い出さないから。うまく表現できないから、と。
そのうち、本をよく読む凪瑚は、校正のようなことを多少するようになった。ほとんど、加瀬の文章は誤字などないけれど、凪瑚の指摘はわかりやすい。
だから、編集の手に渡った後には修正はない。編集の指摘で内容を変えることはないし、校正から返ってきた原稿に修正が必要なこともあまりない。
凪瑚が就職するような歳には、各社狙っていたようだが、凪瑚はその業界自体を受けなかった。聞くと、笑って向いてない、という。楽しんで読むしかできないから、と。それに、万が一他の人の本をそういう目で読むようになったら、加瀬の本を楽しめない、と。
少し、凪瑚が原稿から目を離した様子に、加瀬は静かに声をかけた。いつも変わらない。凪瑚がどこを読んでいるのかわかる距離。
「なんであいつ?」
凪瑚が来るときは、必ず琥太狼がついてくるようになった。目障りでならない。なのに、なぜか子どもたちが受け入れているから、拒否しきれない。今も、凪瑚が原稿に集中できるように、琥太狼が子どもたちの様子を見ている。子供の扱いに慣れている様子はないのに、嫌がられる様子もない。自分とよりもよほど仲が良いのではないかと、思うくらいに。
「ん?ここに来るときは、一緒に行くって言われたから、連絡してるだけだよ?」
「言われたから、言うこと聞いてるの?」
「……」
じっと、佳都と少し言葉を交わしている琥太狼に目を向けていた凪瑚が、目を細めてそのまま、加瀬に顔を戻す。穏やかな顔。
「お義兄さんでも、男のところに行くんだから、1人で行っちゃだめだって」
大袈裟だよね、と笑う凪瑚に、加瀬は目を逸らす。
賢明な男だ。昔から、見抜かれていた。加瀬が大事にしているのは、凪瑚だけだ。
こちらの声に気づいた琥太狼が立ち上がってやってくる。当たり前のように、凪瑚の背後に立って肩に手を置く様子に、ざわつく胸を押し込める。そうなるだろうと、思っていた。凪瑚を大事にする様子は、義兄、として眺めるには、安堵できるものなのだろう。
こんな、物語に登場させれば出来すぎていて、実在しないと思われるほどの男は、わかりやすく凪瑚を溺愛している。
「凪瑚、休憩?」
「うん?けいちゃん置いてきたの?」
「奏真が目、開けてるよ」
昼寝をしていた息子が起きたと言われて加瀬が立とうとすると、たまにはいいよ、と凪瑚がすぐに立ち上がった。凪瑚がここに来る回数は減っている。意図的に、減らしている。凪瑚がいなくても、生活していけるようにならないといけない、と。凪瑚に呆れられたくなくて、だめだと思われたくなくて面倒の見方も覚えた。琥太狼ほどではないけれど小器用な加瀬は、覚えてしまえば小さな子の面倒も問題なく見ることができる。
布団で眠っていた奏真を覗き込んだ凪瑚は、小さく声をかけてから笑って、抱き上げる。そこに佳都が膝立ちで近づいていって抱きついて甘える様子に、加瀬は胸が痛む。
紬が死んだ、と連絡を受けて。佳都を引き取ろうとすぐに思った。もう1人いたことを、知らずにいた。離婚して佳都を紬が引き取って、そのまま無関心でいた証拠だ。離れても娘を気にかけていれば交流は続いていて、妊娠や病気に気づかずにいられたはずがないのだ。
そのことを凪瑚は一度も責めたことはない。ただ、あの3人がああして一緒にいると、自分が勝手に反省して自分を責めるだけだ。あまりにも身勝手に、あまりにも薄情だった、と。
紬のセクシャリティの話は、加瀬も知らなかった。
なんでそんな、手遅れになるまで気づかなかったのかと思わずこぼれた言葉に、凪瑚が教えてくれて初めて知った。いや、言われてみれば、思い当たる節はあって。気づかないふりをしていた部分は全くないとは、言い切れない。
死んだ後なら、言ってもいいよ。黙ってて、騙してごめんって、言っといて。恋愛対象が男だからさ、肝心なところは嘘じゃないんだけどね
そう言っていたから、と教えてくれた凪瑚は、穏やかな顔をしていた。全部覚悟して、納得して過ごしてきたのだろう。
凪瑚との、不思議な距離感も、全部すとん、と納得した。
「お義兄さん、そうちゃん起きたし、お昼ご飯にしない?離乳食、用意しちゃうよ」
「ああ…じゃあ、僕がご飯は用意しようか」
最初の結婚をするまでのように、幼なじみ、という関係だった頃のようには、凪瑚は呼ばない。
乃笑がいなくても、義兄妹なのは変わらない、ずっと、と言ったから。どっちがいいのか、正直もう、わからない。兄、という不変の立場を手に入れた気になってきたけれど。
その後結婚しても、妹と交流があることの何に問題があるのだと、気にも留めなかったけれど。
今までも凪瑚に、恋人がいたことはあった。
ただ、大丈夫なのか、そいつで、と兄として心配を口にしたくなるような相手だったから、きっと、触れずにいた。
今度は、違う。
奏真を凪瑚から受け取って抱いている大柄な琥太狼を一瞥して、加瀬は佳都を手招いた。
できることだけ、簡単なことだけ、手伝ってもらっている。凪瑚が、していたように。
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