ヒュゲリ

明日葉

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「ぬあっ」
 不意打ちのように両側から伸びてきた腕に、色気も何もない声をあげた凪瑚は、驚いたその反射のまま気配を振り仰いだ。頭がごつ、と、硬い胸板に当たって、額にじょり、と慣れない感触が当たる。
「ひげ…」
「…開口一番、それか」
 なんだか気を削がれたような様子で呟いたのは、琥太狼なのだけれど。顎髭があって、もともとの精悍な美青年にさらに色気というかワイルドさというか…いろいろなものが加わっていて凪瑚は目をそらそうとする。
 のに、振り仰いだ額にその、髭はえた顎を乗せられて完全に硬直した。

 そんな凪瑚には、呆れたような驚いたような顔で琥太狼を見ている薫音の顔も、ぎょっとしたように、凪瑚の頭を撫でていた腕の行き場を失って割って入られた小林の顔も見えていない。
 その姿勢のまま、琥太狼は凪瑚の前に置かれているカクテルに目を向ける。
「凪瑚、そのカクテル頼んだの?」
 アプリコットフィズ。意味を考えずに、凪瑚が頼んだのなら、いい。
「?グラスがあいてたから、薫音さんが作ってくれた」
 凪瑚の姿勢は苦しい。その上、琥太狼の顔も、実はよく見えない。
 聞いた瞬間の、琥太狼の視線に薫音は焦って首を横に振る。
 触るな、俺のだ、と全身で主張している様子の琥太狼の剣幕に、小林は思わず一つ、椅子を横に移動する。これはもう、逃げられないだろう、と凪瑚を伺い見ようとするのに、その視線すらも許さないというように大きな琥太狼の体に完全に覆い隠されている。
「ロウ君の話をしていて作ったんだよっ」
 慌てている薫音の言葉に、目を細めながら琥太狼は動きを封じている凪瑚の腰に、小林の側ではない腕を回す。凪瑚の背中にのしかかるようにして、ふー、と息を吐き出した。顎が外れてやっと上向いたままの状態から解放されても、これはこれで重いし苦しい。
 幼い頃から知っていた相手、とわかってから琥太狼の罰ゲームの餌食になるような呼び間違いや言葉遣いをすることは無くなったけれど、それとこの距離感は別だ。幼い頃のつもりで、とか、外国で暮らしていたせいで、と言われても、それは琥太狼の都合で、ここは日本だしもういい大人だ。
「ねえ、ちょ、苦しい」
「ああ、ごめんごめん」
 ギブ、というように腰に回された腕を軽く叩かれて、気がつかなかったような言い振りで琥太狼は当たり前のように、小林が開けた席に座る。
 それで小林が離れているのに気づいた凪瑚が首を傾げて小林を見ようとするのに、琥太狼の大きな体が邪魔で見えない。
「凪瑚、全然俺にはそっけないくせに、なんでここで飲んでるの?」
「ん?仕事がひと段落して、ご褒美に先輩が連れてきてくれた。ばったり会うなんて、奇遇だね」
 奇遇だね、じゃないよ、と頭を抱えたくなりながら、先輩と屈託ない様子で懐かれている小林の方に目を向ける。巻き込まれたくない、という様子が顔に出ている男に牽制する視線を向けると、降参、というように軽く手をあげている。
「やめてくれ、俺はゲイだ。口説いたりしない」
「ん?琥太狼くん、何の心配してるの?」
 呆れを含んだ視線で琥太狼は凪瑚を見つめ、ため息をつく。
「凪瑚、わかってないよな…」
 上背のある小林でも高いカウンターのスツールも、琥太狼には当たり前のように床に足がつく。長い足を凪瑚の方に体ごと向けて、少し強引に、凪瑚を自分の方に引き寄せた。腰が浮いて、不安定な態勢になった凪瑚が、反射的に琥太狼に捕まる。
「俺、ほんとに余裕ないんだよ。…傲慢なこと言うけど、YESって答えしか耳に入れる気はないし、でも、それを凪瑚の声で聞くまでは、どんどん余裕なくなってくと思う」
「な、は…」
 ぱくぱくと動揺してあいた口が塞がらない凪瑚を、琥太狼は困った顔で見ていたけれど、許容量を軽く超えたらしい凪瑚はなかなか戻ってこない。強制的に戻そうとするように耳に口元を寄せようとしたところで、蚊帳の外に追い出されていた薫音が静かな声で割って入る。
「ロウ君、この店でそこまで相手の同意なく触れるのは、やめてくれる?」
「……」
 このやろう、と歯噛みしているのがわかる顔で見られても、薫音は涼しい顔をしている。狼、と言う文字が入っている名前を表すように、唸り声がしても不思議はないような顔だけれど。
 ただ、余裕がない、と言うのが本当にその通りだということも承知している。扉を開けて、凪瑚がいないか確認して、中にも入らない日が続いていた。いたと思ったら、他の男にちょうど頭を撫でられていたらまあ…と、同情はする。ただ、自分が作ったカクテルにまで目くじらを立てるとは思わなかったけれど。自分がヘテロなのも、琥太狼の癇に障った一因なんだろうな、と思いながら、その目を小林に向けた。
「小林さん、なこちゃん、そろそろこの店出る時間なんだけど、送り狼するのロウ君に任せてあげてくれます?」
「は、何を。俺はそもそも送り狼しないってっ」
 じろり、と睨まれて焦る小林に、薫音は笑う。笑ったままの目を、琥太狼に据えた。
「小林さんはしなくても、彼は信用しないほうがいいよ。可愛い後輩、任せるかは小林さん次第かな」
「薫音」
 ぐる、と本当に唸り声が聞こえそうだな、と薫音はしれっとした顔は崩さない。呼び捨てにするのは本当に珍しい。
 小林は、そんな2人の様子を眺めてから、目を白黒させている凪瑚を見る。やっと、様子が見えたな、と思う。完全に、見えないように隠すって、どこまで独占欲強いんだと呆れを通り越して心配になる。凪瑚が万が一拒絶したら、この青年は大丈夫だろうか、と。
 困惑はしているけれど、凪瑚の様子に恐怖とか嫌悪とか、そういった負の感情は読み取れない。満更でもないのを自覚していないのか、認めかねているのか。さっさと観念したほうがいいだろうな、と苦笑いを自然と浮かべていた。
「羽佐美、週明けにまた、職場でな。俺はここでもうちょっと、飲んでくよ」
「え」
 は、とした様子で凪瑚が琥太狼の体を避けてこちらを覗こうとするのを、ほぼ無意識だろう、琥太狼が阻む。
 一緒に来た人を放置してそれは、と気にする様子に、むしろそうしてくれ、と懇願したいくらいの小林は、涼しい顔で笑ってやる。
「ここはあの業務量終わらせたご褒美におごりだ。もともとそのつもりだったしな」
「は、いや。凪瑚の分は俺が払います」
 いや、なおさら意味わからない、と凪瑚は驚いて琥太狼を見上げる。もうスツールからお尻は落ちてしまっていて、琥太狼の脇に立っているような状態だ。いつもより、視線の高さが近い。
 言っても無駄だな、と察して、凪瑚はさっさと自分の鞄を漁った。財布から適当なお札を出して、カウンターに置く。
「自分の分は、自分で出します。足りない分は、小林さん、ごちそうさまです」
「…おう」
 こういうところ、だよ、お前、と小林は苦笑いになる。変に男前で。だから時々、間違えそうになるのは、今は認めちゃいけないし顔に出しちゃいけない。

 琥太狼に連れられて出ていく姿も見慣れてきたな、と思いながら、薫音はドアのところで軽く頭を下げて振り返る凪瑚に笑いかける。
「また1人でおいで。君から聞くロウ君の話は、おもしろい」


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