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しおりを挟む約1週間、仕事を休んだツケが、ようやく払い終わった。復帰した後の職場は居心地の悪さもなく、問題を綺麗に片付けて呼び戻してくれたのだとわかった。
ただ、溜まりに溜まった仕事を、締め切りが早いものから片っ端から片付けていくにしても、ツケを払うのに1ヶ月近くかかるのは、日々さらに、新たに仕事が積まれていくからだ。自分で言うのもなんだ、とは思うが、事務仕事はできる方、だと凪瑚自身も思っている。うっかりした性格は自覚してしまえば、確認作業を増やせば作業の処理スピードでカバーできる。
復帰を迎えた上司も同僚も、とても良い笑顔で、ま、頑張れよ、と。
そんなこんなで、琥太狼の誘いも断り続けて、ただその間に避けられるはずのない姉の命日がやってきて、義兄の墓参の間の子守をして。別れた東海と顔を合わせて、今さらのように、ああ、別れたんだな、と胸にすとん、と落ちてきた。別に、実感がなかったわけではない。ただ、その一連の出来事があまりに嵐のように通り過ぎてしまっていた。
断ったはずの琥太狼に会って、小さな頃、顔を合わせたことはあっただろうけれど今となっては同席することがあると思えなかった顔ぶれでテーブルを囲んで。
そして、なんとなく答えを出せず、意図がわからず、あやふやなままにしていた琥太狼の言葉の真意を聞かされて。
そこからまた、はっきりと答えを出せないまま、とにかく仕事に追われることで心の平安を保っていたのだけれど。
(忙しいって…ありがたいことだったなぁ)
ぼんやりとデスクで水筒に口をつけて一息つくと、小林が気づいて歩み寄ってくる。営業職の小林はいつも安定して上位の営業成績をおさめている。業務の方に顔を出すということは、何か書類かな、と、今は仕事を大歓迎、という気分の凪瑚はむしろ欲しがっているような顔で小林を迎えた。
が、言われたのは期待した言葉ではなく。
「羽佐美、暇そうだな」
「…まあ、手は空きましたから、仕事あるならできますよ」
「よし、飲みに行くぞ」
「は?」
「ずっと残業続きだっただろう。帰れるときは早く帰る。いっすよね、課長」
小林に許可を求められた凪瑚の上司は、一瞥だけをくれて、ひらひらと手を振って寄越す。
「そいつ、せっかく仕事ためておいたのにきっちり片付けちまうから…連れ帰ってくれ」
「課長っ」
「なんだ、仕事好きだな。来週また、仕事ためといてやるから」
いや、それはそれで、嬉しくなからいらない、と反射的に首を横に振っている間に、小林に引っ張り出される。
どこかの居酒屋かな、と思っていたのに。
凪瑚は何度目かな、このカウンター、と落ち着いた店内で諦めて一息つく。
「小林さん…ここ」
「ああ、羽佐美は入店許可出したって聞いてたから」
「はあ」
居心地の悪そうな凪瑚を、迎えた薫音は愉快そうに眺める。時間制限はありますよ、と薫音が釘を刺すと、小林は平然と肩を竦めている。
「そしたら他の店に連れてくよ。ここで一緒に飲んで見たかったんだよな」
「…ここでわたしと飲んでるって、小林さんにはあまり良いことじゃないんじゃ」
「いいとか、悪いとか、ないから。まあ、女の子の君に詳しく説明してもだけど、ここに相手を探す目的で入店する奴は、ほとんどいないかなぁ」
「はあ…」
居心地悪そうに凪瑚はうなずいて、小林に倣って薫音に飲み物を頼む。遅い時間帯だと、食べ物もあるんだけどね、と小林に言われて首を傾げる凪瑚に、調理ができるスタッフが来る時間はもう少し遅いのだ、と初めて聞かされた。
「小林さん、薫音さんからどの程度、わたしがここに来た経緯って聞いてます?」
「経緯…君のことだからてっきり迷い込んだのかと思ってたけど」
「どういうイメージですか」
軽く言われて、凪瑚は笑ってしまう。この先輩は、居心地がいい。面倒見も良くて、誰と接していても人当たりも良いし誰かを悪く言うところも見たことがない。
「相手を探す目的で来る人がいないお店に、わたし、人探しで来たんですよ」
「……」
「ゲイバーに女の子が人探しって、根性据わってるよね」
楽しそうに薫音が言うのを聞いて、凪瑚がきょとんとした顔になる。
「もしかして、店に入れてくれたのって、そう言う理由ですか?」
「まあそんなところかな。女の子がここに来るって、覚悟ないとできないだろうな、と思って、追い返すのもかわいそうかと思ったんだけど」
「…勢いだったので、覚悟とか、考えてなかった」
「君ね」
がく、と肩を落とす薫音を小林は珍しいものを見るような顔で眺めて、隣でカクテルを美味しそうに飲んでいる後輩に目を移す。ゲイだと知っても何も変わらなかったこの子なら、そういうこともあるだろうなぁ、と笑ってしまう。
「で、会えたのか?」
「会えたんですよ。薫音さんのおかげです」
「それは」
まあ、そう言ってもらえるならそれでいいか、と思いながら、ついでのように水を向ける。琥太狼がここで、凪瑚が答えをくれないと腐っていた時からだいぶ日数が経った。
「彼とはその後?」
言われた瞬間、凪瑚が緊張したように背筋を伸ばした。
これは何かあったな、と薫音は眺める。小林は、様子を見ながら、ここで騒ぎの話をしたときに飛び出していった、界隈で有名な男を思い出す。ハイスペック過ぎて、近づきになれると想像もしたこともない男。この店では、いつも1人で飲んでいて、街中で見かけるときはつまらなそうに、誰かと歩いていたり、1人で誘いを無視して歩いていたり。
「1回きり?」
薫音の言葉に、小林は目を見開く。
女は、相手にしないと言う噂の男。
「あー」
言いにくそうに目を泳がせた凪瑚が、恨めしげに薫音を見上げた。
「小林さん、一緒なのに意地悪」
「彼のテリトリーに連れてきてもらっているんだから、あなたも少し、彼に知られてもいいのでは?それに、話せる相手が近くにいるのは楽ですよ」
「別に」
もごもごと凪瑚は口籠る。秘密にしているわけでもない。話すことではないだけ。それに、話さないとやっていられないような状況なわけでは、と。
「…あれっきり、ですよ」
やっと聞こえる声で言われて、薫音は、へえ、と目を見開く。
手を出さずにいるんだというのが真っ先に頭に浮かんだ。あれっきり、のあれ、はどれを指すんだろう、とは思うけれど。
その反応をどう受け取ったのか、凪瑚は聞いてもいないのに目を逸らしながらさらにいう。
「シてませんよ」
「…聞いてないよ」
ふ、と笑ってしまう薫音の目に、複雑な顔をしている小林が映る。それはそうだろうな、と同情の目を向けた。連れてきてください、と軽く言ったことはあるけれど、本当に連れてきてみれば随分踏み込んだ話をしているのだから。
「君が答えてくれないって、言ってましたよ?」
「…薫音さん、仲良しですね」
「仲良しというか…」
薫音はふわりと笑って、あいた凪瑚のグラスを注文を聞かずに作ったカクテルと交換する。
「この店の名前、すんなり読んでましたよね」
「…デンマーク語ですよね。名前のとおりの、居心地の良いお店だな、と」
そこまで理解してましたか、と薫音は笑う。
「オーナーのお母様の国の言葉です。オーナーは、彼のお父様です」
「は…」
「オーナーはほとんど日本にいないので、まあ、実質彼が経営しているようなものですね」
ぽかんとした顔の凪瑚に、薫音は楽しそうに笑う。
凪瑚は、その笑顔に、ちゃんと、答えてあげてと言われているような気になる。
あの日。すっぽりと抱きこまれて、ドキドキして、恥ずかしくて、どうしていいかわからないのに。
でも、その包まれた腕の中は、同時にどうしようもなく居心地が良くて安心した。
やっと出てきた声は、待って、としか、言えなかった。
「わかっては…います。…だから、忙しいほうがよかったのに」
「正当な理由に、なるもんなぁ」
なんとなく状況を察して。帰り際に仕事を欲しそうに尻尾を振っていた凪瑚を思い出して、小林は苦笑いになって頭を撫でる。
ですね、と笑いながら、ドアの開く気配に薫音は目をあげた。
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