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しおりを挟む本当なら、凪瑚と加瀬と夕食を摂って1日を終えるはずだったが、思いがけない闖入者に凪瑚を持っていかれ、不愉快そうな加瀬に任せることもできずに佳都と奏真を寝かしつけ、晴季はやれやれ、と加瀬家を後にした。
加瀬が、乃笑と結婚する、と聞かされた時は信じられなかった。加瀬が乃笑に温度のある感情を向けたところを一度も見たことがなかったから。自分のいないところでは、と邪推することもできないくらいに。むしろ、兄である自分も親も気付いていなかった乃笑の歪さを見抜いていた加瀬は、冷徹過ぎるほどに乃笑を近づけなかった。
そうは見せなかったけれどある時から垣間見えてきた乃笑のプライドの高さは、加瀬との結婚生活が幸せなものであるとことさらに周囲には見せていたけれど、きっと、変わらずそこには、何の温度もなかったのだろう。加瀬があの短い結婚生活で手に入れたのは多分、凪瑚の義兄、と言う普遍の立場。
つくづく、加瀬も歪だと思う。ただ、あの男の職業には、それすらも良い方向に働いているのだろう。
加瀬と乃笑は離婚ではなく死別に結果的にはなったが、状況としては離婚の話は成立していた。いつの間に手を回していたのか、家族も知らなかった乃笑の男関係を証拠に出され、ただそれすらも怒りを見せることすらなくただの事実確認のように告げた加瀬に、乃笑はその悔しさと怒りに染めた眼差しを妹に向けたのを、晴季は見ていた。いつもタイミングの悪い凪瑚は、いない間にするはずだった話の途中で帰宅をした。何も知らない凪瑚が入ってくるなり向けられた視線を遮るように、立ち上がって凪瑚を「おかえり」と迎えたのは、加瀬だった。
加瀬が原因で、乃笑の凪瑚に向ける感情が歪になったわけではないのは、わかっている。もともと、乃笑は両親が不仲になり別居を始めた原因も、凪瑚だと思い込んでいた。そこに、加瀬、と言う要素が加わっただけだ。家族をばらばらにした悪い子を可愛がる人がいるのが、きっと許せないとか、そんな子どもの単純な感情がそのまま育ってしまったのだと、晴季はせめて解釈しようとしてきた。
乃笑は、あとは乃笑が記入するだけ、と言う状態の離婚届を渡され、この日までには提出する、と約束させられていた。
仕事中に受けた、加瀬からの電話。いつものように静かな声からは、やっぱり感情は見えなかった。
腹いせのように、旅行に行った乃笑は、事故で亡くなった。学生時代から乃笑の「取り巻き」のようなことをしていた男が、一緒だった。荷物にあった離婚届は記入はされていて、旅先の役所にでも提出するつもりだったのか、事故現場の周辺に役所があった。
記入されていても、受理されていない以上離婚は成立しておらず、乃笑と婚姻状態のまま死別した加瀬は、「身内」の立場のままでいる。
乃笑の事故の後処理の間、悲しい、と言う感情は一番強いのに、おそらく関係の微妙だった姉の突然の不在をどう受け止めて良いのか整理がつかない凪瑚の不安定な状態に寄り添っていた加瀬は、妻であったはずの乃笑のそばにいた時よりも温度を感じた。
命日だったからか、そんなことを思いながら歩いていた晴季は、あのファミレスの前でふと立ち止まる。
かなりの時間が経っているはずなのに、通り沿いの窓際に見たことのある顔を見つけて顔をしかめた。ただ、凪瑚から落ち込み始めると落ち込み切るまで落ちて、でもまあ、そのうち浮上してくる人、と言う評価を聞いているその青年に気付いてしまって放っておけずにため息をついた。
不意に気配を感じて顔をあげた東海は、首を傾げる。細身の男性に見覚えはあるような気がするが、思い出せない。
自分が、凪瑚に向けた言葉を思い返して自己嫌悪に陥っていた。意味がわからない、と言う顔を凪瑚がして当たり前だ。凪瑚に聞きたかったのは、いや、話したかったのは、あんな言い捨てるような終わり方じゃなく、ちゃんと話したかっただけ。恋人、ではなくなっても、それで関係のない他人、になりたいわけではなかった。
そのはずなのに。
別れるとなったあの日から多少時間が経っているとはいえ、気に病む様子もなく穏やかな様子の凪瑚に、恵美香の言葉を思い出してしまった。そもそも、心移りしつつあった自分を棚に上げてとその時は思ったはずなのに、むくむくと、その言葉が存在感を増して。
そこに、小さな少女の世話をしながら楽しそうに笑顔を向けて、声をかけているのを見て。
そこに生まれた感情に、戻れた可能性を潰してしまった、ではなく、計画的に潰されたと暗に告げた恵美香の言葉がまた大きくなった。それで…。
「あの?」
そんな出口のない自己嫌悪の渦で立ち上がれなかった。あそこで、あの日の男がなんで凪瑚を連れていったのかなんて頭も回らなかった。
そうしていて現れた「誰か」が物言いたげで、困惑する。
「話すのは初めてですね。羽佐美凪瑚の兄です。ああ、実の、の方です」
義理の、の方の兄かと反射的にしかめた顔に気づいたような言葉に、東海は居心地悪くなる。
なぜここにいるのか。そう思う間に向かいに座ったその人は、確かに、兄だと言われてみれば目元がよく似ていた。付き合い始めてからは照れ屋が勝ってよくそらされてしまったけれど、友人関係だった頃いつも真っ直ぐに笑顔を向けていた目に。活発で、物言いもはっきりしている。その凪瑚が、こと恋愛となるとあんなに奥手でほとんど言いたいことを言わなくなると思わなかった。
「不思議そうですね」
「…ええ」
「ここを出たところで、もう時間は随分経っているけれど妹に会いましてね。話を聞いて、さっき別れたところなんです」
「あ」
怒っているのか、と思うのに、目の前の人から怒りを感じない。
「別れた詳しい事情は聞いていないんですが、妹はあなたにはもう、他に好きな人がいるからだ、と話していました。妹も知っている人、のような口ぶりでしたが」
気まずそうに告げられた名前に、晴季はため息をついた。
名前は、知っている。歳が離れているから妹の同級生をよく知っているわけではないが、地元で今も仲の良い顔ぶれはわかる。
妹が大学に進学し、地元の集まりに参加することが減った頃に、そこに顔を出すようになったと他の子が言っていた。凪瑚が来れるならいて当たり前なのに、なんでか不満そうにするんだよね、と話していたのを聞いて、乃笑に似ているな、と思ったのだ。
自分の居場所が欲しい子。自分の居場所だと確認するために、そこにいる誰かを弾き出すことでその欲求を満たす子。それが、加瀬の恋人を名乗っていたときには驚いたけれど。まさかこっちにも、と気が滅入る。偶然ならば、凪瑚にも彼女にも災難な話だし、故意ならば、なぜそこまでと言いたい。
「兄として、は、凪瑚をそっとしておいてやって欲しいです。ただ、まああなたの件ではないが口出しはするなと釘を刺されたところなので」
そもそも、加瀬に目をつけられているだろう時点で気の毒ではあるし、琥太狼が凪瑚を見つけた…そう、まさにあれは見つけた、なんだろうなと納得しながら、晴季はため息をつく。琥太狼はきっと、もう凪瑚を手放さないだろう。
「出ませんか。随分居座っているでしょう。店員の目が厳しい」
やんわりと笑って、晴季は東海を連れ出した。
そんな言動が、凪瑚に似ているな、と立ち上がりながらそっと目を閉じる。
あー、失敗したなぁ
と。
先ほどまでの自己嫌悪の渦とは違った感情で、ため息をついた。
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