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しおりを挟む周囲に顔を向けるでもなく、扉が開く音に反応を示すわけでも表情に出すわけでもないけれど、ずっと人待ちの様子の琥太狼を、薫音は観察する。待っているのは、きっとあの子。でなければ、こんなに早い時間にこの男がここに現れるはずもない。
痺れを切らしたように、ジントニックのグラスに口をつけながら珍しく苛立っているとわかる口調で琥太狼がようやく水をむけた。どんな感情も、この男から窺い知ることなんてまずできないのに。
「薫音さん、あいつ、来てる?」
「…ここはゲイオンリーのバーだよ」
「いいって言ってたろ」
誰のこと、と茶化す気にはならず、それでもはぐらかすように答えを避ければ、むっとした声が返ってきた。
あの騒動は先週の話で、仕事に復帰していると聞いている。忙しいのだろう。
「先週、ロウ君がこの店に連れてきて連れて帰ったんだよ?」
「それっきり、か」
舌打ちしかねない様子に、やれやれ、と他の客のカクテルを作る。何があったか知らないが、ああやって会っていたのだから連絡先は知っているだろうに。
「連絡すれば?」
「…返事がない」
「へぇ」
あからさまに面白がっているのが声に出た。睨まれても気にすることはないが、近い席で気になる様子の客もいる。ロウは有名人なのだ。体の関係は持てても、誰もそばに近づけない。そんな男が誰かの話をしているのだから、聞き耳を立てる輩も出てくるだろう。
ただ、本人に気にしている様子がない。むしろ、もう一晩の相手もする気はないと素っ気なく断り続けているような状況だから、好都合なのかもしれない。
「忙しいんでしょう。休んでいた分の仕事もあるだろうし」
「休ませたのは向こうだろう」
「だからって、仕事放り出すような子には見えないけど。何をいらいらしてるんだ」
「…」
好きになってよ
やっとの思いで言った言葉に、凪瑚は何も言わなかった。何かを探るようにじっと見上げられた後、そこに触れることなく、帰ってしまった。そのまま、甘やかしたかったのに。
「何か用事でもあるの。そんなに焦るなんて珍しい」
「焦ると言うか、待ちくたびれたと言うか」
待ちくたびれる、と言うほどのことはないのかもしれない。それでも、待てない。答えなんて、すぐに出そうなものなのに。はい、か、いいえ、しかないんじゃないのか。
「あいつ、返事しないで帰ったままなんだ」
「…ロウ君、自分からまさか、付き合ってとか、そういうこと言った?」
意外すぎて、つい聞いてしまってから、薫音は周囲を気にする。ただ、この店は客層がいい。そもそもあからさまに琥太狼を狙っているようなのはこの店にはいない。再確認して安堵しながら琥太狼の顔を見ると、なぜか微妙な顔をしている。
「ロウ君?」
「付き合って、は言ってないな」
「まさか、好きとか?いや、想像できないな」
「まあ、そう伝わってるだろうけど。好きになれって言ったのに、返事しないんだ、あいつ」
「…は?」
客、と言うことを忘れたような反応になってしまったが。
だが、これは許されると薫音は思う。この男は何を言っているのか。追われる立場に慣れすぎて、色々感覚がおかしいとしか思えない。
「それだけ?」
「わかるだろう?好意もないやつに好きになられても仕方ない」
「……自分の気持ちも言わずに、相手に言わせようとしたってことでしょう。それは…」
あの子は多分、そういうのからは逃げるタイプに見えた。自分を出すのが苦手な子。
ああ、と、困惑して、そして見たこともないような不安そうな目をしている琥太狼を見て、薫音は不意に納得する。この青年は一体、どんな相手だったら恋をするんだろうと思ったことがあった。誰に対しても興味を示さないそんな様子で、踏み込んだ関係を築くことがあるんだろうかと。そうじゃない。
「ロウ君は、ずっとあの子の居場所しか自分の中に置いてなかったのか」
そう言われて、カッと、顔に血が上るのを感じて琥太狼は顔を伏せた。そんなこと、考えたこともなかった。
ただ、ことあるごとに思い出すのは幼いあの思い出の中の女の子。誰と話しても、誰に触れても、感情は動かない。いや、そこに、あの子はどう思うだろう、どう感じるだろう、そう思えば、苦しいくらいに感情が動くことはあった。
顔を伏せてしまった琥太狼の明るい髪を見ながら、薫音は一つ小さく息をついた。器用になんでもできるくせに、そんなところだけ不器用とは。そんな魅力まで、持っていなくてもいいというのに。
「ロウ君、とりあえず君、わかったと思うけどやり直し」
「…わかってるよ」
初めて聞く、不貞腐れたような声はいつも年より落ち着いて大人びて見える青年を、年相応よりも幼く見せてくれて、つい薫音は笑ってしまった。
Hyggeでそんなやりとりを薫音としてから数日。それでもまだ、琥太狼は凪瑚と会えずにいた。少しでいいから、と言っても断られ、自分がアプローチを失敗した、しかもかなり凪瑚に嫌な思いをさせているかもしれない状況でと思うと、強引に会いに行くのも憚られた。押しかけてみよう、とも思うのに、それをやって、あの時ホテルから出てきた男女に向けた感情を殺したような目を向けられたら、などと想像すると、動けなかった。
一晩限りの誘いを断るのも気持ちがささくれて一瞥さえ反応を返さなくなり、薫音とのやり取りの翌週の週末も、子どもたちの面倒を見ないといけないので、と断られた。
なんとなく、それでもばったり会えないかと凪瑚の住む駅のある街をカメラを持って歩いていて、足がすくんだ。
吸い寄せられるようにそれは琥太狼の目を奪った。駅の近くのファミレス。通り沿いの窓際の席。
窓際に座った小さな女の子の口の周りを笑いながら拭っているのは、凪瑚。
そして。
その向かいには、一度見ただけの男。興味のない相手の顔は覚えない。それが覚えられれば、同じ相手と二度は寝ない、なんてことも容易にできる。覚える気がないから、二度目もあり得る。ただ、この男は別だ。
ほとんど反射的に、足は店内に向かっていた。店員の声を無視すれば、待ち合わせだろうとそれ以上かまわないのがファミレスらしい。
そして、耳は忌々しい言葉を拾う。身勝手な言葉。
自分が、凪瑚に向けた言葉と重なって、なおさら苛立ちが募って腑が煮え繰り返る。
何を言っているんだ、この男は。お前が望んで手放したんだ。もう、返すわけがない。
理解の及ばないことを耳にしたように、ぽかんとしている凪瑚に胸が痛んだ。でも、自分が凪瑚に言ったのは、状況や言葉が違っても、同じことだ。それでも、許せなかった。こんな男と、なんで一緒にいる?
俺のことは、断ったのに。
「凪瑚、なんでこんなやつと一緒にいるの」
頼めばなんでもしてくれるやつ。
この男は、そう言った。誰にでも、じゃない。どうでもいいのは一緒だけれど、気が乗らなければ何もしてやらない。これからは、なおさら。
数日前、凪瑚に会えなくて苛立つ琥太狼の前に現れた女の顔がよぎって、思わず凪瑚を引き寄せた腕に力がこもった。薫音に言われて自分に苛立っているところに、胸糞悪いものを見た。
「ねえ、一晩の相手ならしてくれるロウ、ってあなたでしょう?ちょうどそれであの子に頼まれているときに会ったのね。ちょうどよかった」
派手な顔立ちに、それを際立たせる化粧。耳障りだと感じるくらいの上滑りする大きめの声。
あの子に、あの人はもったいないと思っていたから。あの人も、自分だけが悪者じゃなく別れられて罪悪感減って喜んでいたし。
自分が起こした騒ぎのことなんて、気にもとめていない。そもそも、琥太狼が凪瑚といたのは、その場限りだと思っているのだから関係ないのだろう。
「でも、わたしまでとばっちりで婚約者が怒っているのよね。少し頭を冷やせばまだ平気だと思うんだけど…ねえ、癪だし、あの子よりよくしてあげる」
不躾に伸びてきた手を払うために触れることすら、嫌悪した。
琥太狼はただ、長い足で避けて通る。
なのに、通じない。せっかちね、と勘違いして追いかけてこようとする手を避け、一言だけ。
「目障りだ」
あの女は、何を考えているのか。
凪瑚の隣にいた子は、こんな不機嫌な大きな男に抱き上げられて、それでも抵抗はしない。怯えすぎているのかとも思ったが、凪瑚がじっとしているのを見つめているのを見て、ああ、そうか、と。この子は自分と一緒なのだ。凪瑚が大丈夫だから、大丈夫なのだ。
少しだけ、心が凪ぐ。
強引に凪瑚を連れ出して、そして、凪瑚の2人の「兄」に呼び止められた。
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