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しおりを挟む早い時間にドアが開く気配に、誰かを予想しながら顔を上げた薫音は、案の定、そこに琥太狼を見つけてそのまま目を手元に戻す。
送っていくと言って出たまま帰らなかったあの日から、早い時間に顔を出すようになった。
10日あまり経っているのにまだそんなことをしていると言うことは、その後会っていないのだろうと思いながら、薫音は揶揄う目を向ける。
「ロウ、あの子は特別?」
「…」
無言で睨むけれど、無視して続ける。
「お前の方から動くなんてまずないし。女の子だし、普通に。しかもお前に寄りついてくる派手なタイプとも違う。連絡先、聞けばよかったじゃないか」
「知ってる」
なら、と言いかけて、やめた。彼女の方から来るのを待っているのだろう。あの後の様子を知らずに口を出すことではない。
そんなことを思っていると、まだ人が入り始めるには早いのに珍しくまたドアが開く。
近くのオフィス街で働く常連が、カウンターに座りながらとりあえずビール、と居酒屋みたいな注文をするから苦笑いになる。
「喉が乾いてて、ごめんな、久利生君」
「いえ。お疲れのようですね。早い時間にお見えなのに」
「ちょっと、会社でトラブルがあってね。今日は早々にみんな帰ることになったんだよ」
「トラブル?なのに早上がり、ですか」
本当に喉が乾いていた様子で一気にビールを飲むと、いやそうな顔をしてため息をついた。
「ロウは知ってるでしょ、小林さん。あえて聞き耳立てないし、聞いてたって関係ないですよ」
「ああ…」
他の客がいない時間帯にきたのは、話したかったのだろうな、と察しながら水を向ければ、次を頼んでからよほど話したかったのだろう、すぐに話し始めた内容は、確かに嫌な気持ちになるようなトラブルだった。
「会社にさ、女が乗り込んできて騒いだんだよ」
「どなたか女性トラブルですか」
「だったらまだ良かったんだろうな。その女、警官まで連れてきて。同居している婚約者の家から彼の子供がいなくなった。この会社の人間が誘拐したって、騒ぎ立てたんだ」
「…誘拐、ですか」
聞くともなしに聞いていた琥太狼は、なんとなく、そこからしっかりと耳を向けてしまう。
先日、凪瑚の話の端々から想像したあの電話の向こう側。凪瑚の親友が産んだ子供たちは父親に引き取られて、父親は、女と同居している。似たような環境だ。
「子供を懐柔して、彼を奪おうとしてるって、まあ、確かに女性トラブルだよ、その男にしたら」
「でも、会社にとっては、女同士の喧嘩の延長が乗り込んできた、と」
「実際、誘拐だったら大問題なんだけどな。警官もしっかり確認してから動けばいいものを、子供に何かあったらどうするんだって騒がれて、とりあえず同行したらしい」
「その言い振りだと、誘拐ではなかった、と」
だからなおさら後味が悪いんだ、と、小林は何度目になるかのため息を吐く。
父親は仕事の関係で家にはおらず、連絡もなかなかつかなかった。確認作業を続けていた警察署の方でようやく確認が取れて同行していた警官に連絡が入った時には、騒ぎは大きくなって、人だかりができていた。
問題の女性社員は、たまたま所用で外に出ていたところを、逃げたのだなどと騒がれ、ようやく戻ってきたときには訳も分からないまま取り囲まれて口々にあれこれ言われ、同行していた警官が騒ぎを沈めた時には、ある意味、後の祭りだった。
「父親は泊まりがけの仕事で、その女には子供たちは懐いていないし、女も面倒を普段から見る様子がない。もともと子供たちが懐いていたそのうちの会社の子は、父親の身内だったみたいで、父親が預けて出かけていた。誘拐なんかじゃなかった。でも、うちの会社、オフィスビルに入っていて、他にも何社も入っている。それがみんな、今回の騒ぎを聞いていた」
「嫌な風向きですね」
「完全なとばっちりだし、むしろあんな騒ぎを起こされてうちの子の方が被害者だ。名誉毀損で訴えることだってできるだろうってくらいひどい言われようだった。ただ、騒ぎの火種はちょっと自宅で落ち着くまで休んでろって、まあ、言い回しは違うけど謹慎処分だ」
「それはまた…その話ぶりだと、小林さんは可愛がっている社員さんのようですけど」
「仕事、めちゃくちゃできるんだよ。とっつきにくいこともあるけど、慣れればよく話すし。ただ、よその会社なんて話の顛末知らないままのとこもあるだろうから、好奇の目に晒されるのもかわいそうだし…まあ、休んでる間に話を落ち着かせてやるくらいしかできないんだけど。腹たってな」
それで、冷却期間の意味も込めて退社が早かったんですね、と頷く薫音は、琥太狼の顔が険しくなっているのに気づく。
カウンターで横並びの小林は気づく気配もなく、忌々しげに続けた。
「何が腹立つって乗り込んできて騒いだ女。あいつは一緒に来た警官に守られて被害者ヅラして帰ったけど、その時にうちの羽佐美に言ったんだ。なんだ、クビじゃないんだ、って」
出てきた名前に薫音が引っ掛かりを覚えるより先に、ガタン、と音を立てて琥太狼が立ち上がった。
「ロウ…」
険しい顔をした琥太狼は、そのまま大股に店から出ていく。カウンターに置かれた札にため息をついて、薫音は小林に目配せをした。
「まあ、聞こえて愉快な話じゃなかったよなぁ」
申し訳なさそうな小林が言った少し的外れな言葉に、薫音はただ穏やかに笑う。
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