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しおりを挟む早朝の、まだ眠っているような、活動を始めたような街を足早に歩き、そっと玄関のノブを回す。鍵はかけていなかったようで、そのまま開いた。手にしていた鍵は鞄に戻しながら、凪瑚は静かに靴を脱いで家に上がる。
防音のしっかりしているこの家は、子供の泣き声は外に漏れないだろう。ただ、中に入ってもしないと言うことは、まだ赤ん坊の奏真は眠っているのだろう。佳都は、と足音を忍ばせてリビングをのぞいて、すぐに見つけた。
大きなソファに膝を丸めて横になっているけれど、うっすらと目が開いているから、寝ていない。付かず離れず、の位置にあるダイニングテーブルに、加瀬がいた。すぐに気づいて目をあげた加瀬が口を開く前に、佳都がもぞもぞと起き上がる。
「なこちゃん」
「…けいちゃん、起きてたの?」
歩み寄って、ソファの足元の床に膝をつくと、ぷくぷくとした腕が伸びてきて、首にキュッとしがみつかれた。
母親がいなくなって、まだ日も経っていない。その前に、入院期間も長かったけれど、その間は加瀬のところにこの子たちはきていたわけではない。
(ぼくの病気のことは、誰にも知らせないでほしい)
耳に残る、らしくないか細い声。実家にも、加瀬にも知らせるな、と。凪瑚の負担が大きくなるから無理を言っているのは承知だけれど、と。いろいろなものを飲み込んで、乗り越えて産んだ子供たちを、外野に持っていかれるのなんて見たくない、と。
外野、と言ったのだ。むぎ君…紬は。親も、兄弟も、元夫も。
亡くなるまで、日中は保育園、仕事帰りに凪瑚が迎えに行って、お見舞いに行って、それまで暮らしていた家で子供たちは凪瑚と生活していた。
「僕と離れてだいぶ経つから、慣れないみたいだ」
少し寂しそうに、近くに来ていた加瀬が言う。その顔を見上げてから、凪瑚は佳都の頭を撫でてぽんぽんと背中を優しく叩いてやる。
「けいちゃん、ここで寝る?お部屋いく?」
「…寝るまで、なこちゃん一緒?」
「うん」
「起きても、いる?」
「今日はお仕事お休みの日だから、お寝坊してもいてあげていいかパパに聞いてみようか」
「いてくれ」
食い気味に言われて、凪瑚は苦笑いをする。子供の頃面倒見のいいお兄ちゃんだったのに、自分の子供を扱いかねているのがなんだかちぐはぐでおかしい。
「じゃあ、お部屋いく。そうちゃん、1人だから」
「うん。じゃあ特別に抱っこで連れて行ってあげよう」
「いいの?」
「この手を剥がす方が大変そう」
首に回っている、すべすべでぷくぷくの手を触ると、やっと佳都が笑った。
佳都がベッドに入るのを確認して、奏真の様子を見る。
おむつが汚れているのを確認して交換してやると、少しスッキリしたような顔になった気がして、ホッと息をついた。お腹が空いているかもしれないけれど、それは目が覚めてからでいい。
2人ともよく眠っているのを確認してからリビングに降りると、先ほどまで佳都がいたソファに、加瀬が座っていた。
「お義兄さん、彼女、一緒に住んでいるんでしょう?」
「ああ…昨日は帰れないと連絡が入っていたし。それに、あの子たちは懐いてないんだよ」
「結婚、するって言ってたよね」
「?そんな話したか?」
不思議そうに言われて、思い返す。
確かに、義兄の口から聞いたわけではなかった。仕事に集中すると周囲のことに気づかない義兄は、あの時聞いていなかったのかもしれない。義兄もいる場所で、彼女の方が、言ったのだ。
「凪瑚、同級生なんだよな?」
「ん?そうだよ。同じ学校だった」
友達、とは言わないんだよな、と凪瑚の顔を見ながら加瀬はため息をつく。
凪瑚の同級生であれば、凪瑚が出入りし続けるのも問題ないだろうと、凪瑚も遠慮しないだろうと思ったのだが、どうも違う。あの女は、凪瑚を遠ざける。
一番凪瑚をそばに寄せたのは、3番目の妻の紬で、子供ができればなおさら凪瑚はよく訪れるようになった。ただ、紬や子供との時間に凪瑚をとられて、次第に遠ざけた。自分のそんな感情が歪んでいて拗れ切っているのは承知している。それでももう、他にやりようが浮かばない。手放さずにそばに置き続けられれば、それに変えられるものはない。
「凪瑚、彼氏といたんだろう?帰ってこさせて大丈夫だったか?」
自分の家じゃないのに、いつも「帰ってくる」と表現する義兄に、凪瑚は苦笑いする。そんな風に、ここに居場所を作り続けてくれるのが申し訳ない。姉とは死別になっているけれど、離婚が決まった後、届を出す前に姉が事故で亡くなってしまっただけだ。その亡くなり方も、家族の誰もが加瀬に顔向けできないと感じるようなものだったのに、変わらずに妹のように可愛がってくれる。
「…別れた」
「…え?」
声が弾んでしまわないように、一度飲み込んだ。加瀬は説明を求めるように凪瑚を見るけれど、凪瑚はさっきの電話のせいだと加瀬が責任を感じているのだと思い、首を振る。
「電話のせいじゃないよ。その前に、別れて、たまたま居合わせた人…知り合いが、話を聞いてくれてたの」
彼じゃないのなら、と、電話の向こうで聞こえてきた声色を加瀬はありありと思い出す。
電話の相手を牽制するような、声。知り合い、なのか、と追及する言葉を飲み込む。別れたその場で次の相手を見繕うような器用な子ではないのはよく知っている。であればこそ、藪蛇を突く真似はしたくない。
「大丈夫か?」
いろいろなものを飲み込んだような声に、凪瑚はふわりと笑った。
あの人と別れたことよりも、ずっと胸に支えていた、親友が話していた人に会えたことがずっと重かった気分を浮上させてくれている。あの人に会ってお願いしてよかったと言っていた声が嘘ではないと思えたし、そっちじゃないっ、と言っていた意味も、理解できた気がする。
そこまで思い返して、顔が火照りそうになり、慌てて加瀬に背を向けた。
「何か飲み物、もらうね。お義兄さんは、寝直さなくて大丈夫?」
「ああ…少し休もうかな。凪瑚は?その話だと、ずっと起きてるんだろう?」
大丈夫、と、背を向けたまま答えた。腰が立たないほどだったのに、大丈夫なくらい、ぐっすりと眠った後だとは、言えないけれど、思い出してしまった。
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