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しおりを挟む夕暮れ時。まだこの街は人通りが少なくて、日の明るさの中では寒々しく殺風景に見える。これから夜になるほどに賑やかになるはずの街の、奥まった場所で凪瑚はぼんやりと看板を見つめていた。
見つけた。
見つけたけれど。
そんな風にしていたら、涼しげな声が耳に入り、それまで気づきもしなかった気配に振り返った。
「看板、読めない?」
中性的な雰囲気の細身のその人が示すのが、ぼんやりと見つめていた看板だと言うことはすぐにわかって、その、洒落た字体のアルファベットで書かれた看板を読む。
「ヒュッゲ」
「そっちじゃないよ」
そこまで言われて、ああ、と言わんとすることをようやく察した。
Gay Only
「入れないなって、思って」
「そんなとこに突っ立ってたら、営業妨害だよ」
言われてようやく、ああ、そうだな、とぼんやりとした頭でも察する。このお店を、見つけたいと、見つけたら何か変わるかもしれないと思って、思い詰めて。本当はないのかもしれないと思いもして。
見つけたら、自分は踏み入れられない場所だった。
確かに、邪魔な話だ。入りにくかろう。こんなところに自分みたいなのが立っていたら。たとえ、取り立てて評する場所もないような平凡な女でも。
「すみません。入れないから、どうしたらいいんだろうって思ったら、頭回らなくて。すみませんでした」
きちんと目も合わずにただ謝る凪瑚に、やれやれ、とため息をつく。
「なんなの、あんたは。元男ってわけでもないし、男になりたい女ってわけでもないでしょ。こんなところに入りたがるのは、興味本位、とも見えないんだけど」
「…そういうの、わかるものなんですか?」
「まあ、何かしらコンプレックスは抱えてそうだけど、あんたからはそういう意味でのマイノリティの匂いはしないからね」
「匂い…」
自分で言ったとおり、頭の回らない様子で鸚鵡返しに呟く凪瑚に、深くため息をついた。
仕方ない。こういう性分だから、こういう商売をやっているのだと、自分に言い聞かせる。言い聞かせて、久利生薫音は「Hygge」のドアを開けた。すんなりと、このバーの名前を読んで見せた女。
「酒は飲める?」
「え、はい?」
きょとんとした顔に、ついに絆されてそれまでの無表情が崩れ苦笑いが浮かんだ。
「客が来る前だから、入れてあげる」
「飲みたいお酒は?」
「…ギムレット」
「……」
薫音はじっと見つめてから、手を動かす。凪瑚の言葉の意味を探るように。
着替えもせずにカクテルを作った薫音は、凪瑚の前にそれを置いて、一度離れる。奥のスペースで身支度をして戻れば、じっとグラスを見つめている目が揺らいでいるように見えて、目を細めた。
「どこかで、この店のこと聞いたの?わざわざ探してたって様子だったけど」
手が焼けるな、と思うが暇ではある。それに、思い詰めた様子が気にかかるのも事実だった。
「この商売は信用商売だから。その辺の壁にでも話してるつもりで話してごらん。少しは楽になるかもよ」
またも、きょとん、と、ぽかん、と見つめる凪瑚に、今度はにっこりと笑いかけた。中性的な薫音の笑顔は思わず周囲をどきっとさせる。
「守秘義務なんて大それたものはないけどね。暇つぶしに耳を貸してあげるから、話したら?なんの関係もない相手に話せばすっきりすることもあるでしょ」
まだ、話始められない凪瑚に、薫音は視線をそのグラスに向ける。
「誰かと、お別れした?」
ギムレット。長いお別れ。そんな言葉を思い浮かべると、凪瑚の目が揺らいだ。
「ケーブルグラム・ハイボール」
あなたに会いたい、か。
そんな風に薫音は、言われたままにカクテルを出す。
凪瑚の揺らいだ目が和らぐ。
「美味しいです、とっても…この二つだけ、カクテル言葉、調べたんです。バーに入れたら、これ頼んで。何回も通って、毎回頼んでいたら、ゲイバーだというこのお店には不釣り合いなわたしにも、どうしたのって、誰か声かけてくれるんじゃないかって。気配消してれば、女でも入れてもらえるかなって、甘く考えてました」
一気にそう言うと、凪瑚はじっと薫音を見上げる。話したい、と思ったことは、一度もない。でも、もうそのことを話す相手はいなくなった。抱え続けることは嫌ではない。でも、どうにもならない思いがずっと胸の中で渦巻いている。
「壁だなんて思いません。女のわたしの相手でも、してもらえますか?」
「今の時間なら、いいよ」
素っ気なく聞こえるけれど、声音は穏やかで。だから、そこからは喉の奥につかえていたものが取れたように、言葉が流れ出た。
「先日、親友が亡くなったんです。だから、ギムレット」
「…会いたいのもそのお友達?」
「会いたいのは…その親友から聞いた言葉、そのままですよ。失礼な言い回しですけど。恋人もセフレすらつくらない、男も女もありのヤリチンがいて、一晩限りの相手を許されれば、気が向けば望むように抱いてもらえる」
「……」
誰のことか、は薫音にはすぐに分かった。ただそう言う相手を求めているようにはとても見えない。
「顔も名前も知らないので、まあ、こうやって誰かが声かけてくれた時に話して、教えてもらえたらラッキーと」
「会ってどうするの?」
男も女もあり。バイ…とは言ってもあの男は、と薫音は思い浮かべる。男でも女でもいい、のではない。誰もが、どうでもいいのだ。体は貸しているだけ。性欲は処理する必要があるから利害の一致。でも女は厄介だからと、まず抱かない。適当なことを言って、子供ができたと言い寄られたあの男が、とりあえず生まれたらDNA鑑定しろと冷たく言い放ち、親子関係証明されたらその時にまた話し合いはしてやると堂々と言い切ったのは爽快だった。
「親友が、何年も前ですけど。その人を探していて。その時に、この街のどこかにあるこのバーに出入りしているって噂を聞いて探していたんです」
「…親友って、女の子?」
そこで、それまで滑らかだった凪瑚の口がはたと止まった。戸惑うように視線が泳ぎ、どこかを見つめる。何かを決めかねる様子に、薫音はしばらくじっと待った。
仕方なしに店内に招き入れて、少し飲ませてもう来るな、と追い払うはずだったのに。
「生まれてきた体は、女、でした」
「…うん?」
「性同一性障害、で」
それなら、ここにも出入りできる。ただ、それなら恋愛対象はと疑問になって、そこで嫌な答えを思いついて流石に顔が歪んだ。薫音が察したことに気付いて、凪瑚は小さく笑う。
「性同一性障害だって言っても、恋愛対象が男だったら、性同一性障害だと言う方が思い込みじゃないのか、って、周りは思うんですよね。親とか、特に。思春期のなんか、そう言う流行病、みたいな。でも、違うんですよ。本気で、悩んでた。体と心は、チグハグだし、でも、恋愛対象として、性的な意味で見る相手は、男で。女の体でいれば、恋愛は苦労しないんです。でも、それは、違う、んですよ」
セクシャリティが大渋滞だな、と、茶化すことではないがそんな風に感じてしまう。
一番言いにくいところを言ったのだろう。凪瑚は、聞きたくないかもですけど、とさらに深くそのことに触れる。
「女の子相手じゃ、ダメなのか、試したんですよ。とりあえず、わたしとエッチなことしてみて、どうかな、って。わたし相手じゃ、嫌悪感はないけど、違うって。せめて、入れて欲しい方の感情だったらいいのに、よりによって、入れたい方だったんですよ。でも、それでも、男として、抱かれる方でいいから、扱ってもらいたくて、その…一夜限りの相手の人、探してたんです」
「なるほど」
さらっとわたしで試した、と言ったこの子は、とまじまじと見つめてしまった。女性を恋愛対象としているわけではないのはわかるから、純粋にその親友を、男として扱っていたのだろう。お試し、は随分と勇気のあることをしたものだが。
「で、会えたの?」
「はい。願いは叶ったからって、その後、結婚しました。結婚前提に付き合おう、って話があって。その前にって、そんな冒険してたんです。それで、結婚して、子供できて、離婚して…先日、亡くなりました」
「子供!?」
男だと感じている人間が、妊娠するとは、どう言う感情なのか。想像ができない。薫音の驚きが伝わった凪瑚は残っていたカクテルを一気に開ける。
「精神的に、すごく、不安定でした。ずっと、お腹の子供ごと抱きしめてる時間がどんどん長くなって。でも、強いんですよ。ちゃんと生んで、自分の性認識なんてこの子には関係なく親なんだからって、ちゃんと、親でした。自殺じゃ、ないですよ」
最後の一言に、ほっとする。
「自分が男だと感じてるから、婦人系の検診なんて、受けなかったんですよね。気がついた時には、もうどうしようもなかったんです」
どうしようもなく沈黙が落ちて。
静かな店内にドアが開く音が微かにする。顔を上げた薫音は、滅多に顔を見せない、目の前のカウンターに座る人物の尋ね人の姿に反射的に目を逸らした。
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