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一番許せなかったこと
しおりを挟むどれだけ、どんなふうに伝えれば、橙子が天使と呼ぶ子と自分の間に関係を築けるんだろう。
実際に面と向かった時に、僕は彼に対してどんな感情を抱くんだろう。
人に触れることも、触れられることも、どちらも嫌悪感が、そしてそれ以上に恐怖が勝ってできないのに、子供とはいえ手を伸ばせるんだろうか。
そんなことをぐるぐると出もしない答えを求めて堂々巡りをしていたのに、それはあまりにもあっさりとしていて。
常磐の声に、橙子はいともあっさりと、いいよー、というのだ。
「蒼がそう呼んでいいっていうなら、呼んじゃえ呼んじゃえ」
軽い調子で。
同席している藍沢や光基が嫌な顔をするだろうと思ったのに、表情一つ変えていない。彼らにとって、橙子が決めたのならそれはいいも悪いもないんだと、わかった。
探り探りで近づいていた常磐が僕の膝の中に収まって体温の高い体を預けてきた頃、やっと、もう一つの問いを口にする決心がついた。うとうとと眠りに入っていくのを眺めていると、座ったまま体を倒して手を伸ばした藍沢が、勝手知ったる調子でタオルケットを掴んで僕の膝の上の常磐にかけてやっている。
その慣れた仕草に、少し、嫉妬して。
「橙子は?」
「ん?」
一瞬、こちらを見た橙子が、僕が続きを口にする前に、あー、と音を出してため息をついた。
あ。と。自分の心が身構える。長い付き合いだから、続く言葉は予想できすぎた。
「わたしと蒼は、親友でしょ?蒼、別にわたしのこと恋愛的な意味とか、それこそ性的な対象でとか、見たことないし見れないでしょ」
考えたことも、なかった。
ただ、恋愛的な意味でなら、ずっと誰かを想っていない。男とか、女とか、そういうことは関係なく、橙子、という存在だけが特別で。橙子と、それ以外でしかなくなって久しい。
「蒼が常磐の父親なのは、もう事実だし。勝手に産んだし、そもそもバレるまで話すつもりなかったし。でも、知った蒼が父親でありたいと思ったり、父親だって呼んで欲しいって思ったりするのはむしろ、ありがたいし。常磐喜ぶから。でも、それとこれとは、別」
「別、って…」
「まあ、違ったらごめんなんだけど。そんで勝手に分析するなって怒られそうだけど。蒼、5年前のあの後、人が出したもの口にできないとか、人に触れられるのが嫌とか、それ、原因は自分がされたことのせいじゃないでしょ」
「……」
無言が、肯定になってしまう。
そもそも、それは自業自得で。恋愛しないし二度目はない。そんなことをやっていれば、程度の差こそあれいずれ起こってもおかしくないことだった。
実際、普段の一度限りの関係で、どちらの役回りもする僕にとって、あの行為は、同時にされたことと同意がなかったこと、体の自由を奪われていたことは確かにあるけれど、トラウマになる程だったかというと、今となってはわからない。
撮影されていたことは、あの時は本当に、恐怖だった。カミングアウトしていないあの頃の僕にとって、それは「終わってしまう」ように感じてしまったから。中学の時のあの、異質な気持ち悪いものを見る残酷な視線にさらされるのを想像した。
隠すから弱みになるのだ、と。公にして、それを取り沙汰している方がおかしいと堂々としていれば、気にすることでもないのだと思える。確かに心ないことを言われもするし、陰口もある。だがそれは、こちらが敏感になっているだけで、内容が変われば誰もが言われているものと似たり寄ったりなんじゃないか、自分のその特徴が長年偏見にさらされてきているものだから、こちらが過敏になっているのもあるんじゃないか。
そう思ってみれば、流してしまえる。
あの時に、あれを弱みにしていなければ招かなかった事態。
僕が恐れたばかりに。
「わたしが巻き込まれたから、でしょ?」
「橙子…」
僕が、人から出されたものを不用意に口にしてあんな体の状態になったから。
僕の体に他人が触れて、勝手に思うように動かして、橙子の体を蹂躙させたから。
誰よりも傷つけたくない橙子を、僕に傷つけさせたから。
「わたしは、わたしが余計な手出しをしたから蒼がトラウマ抱えちゃったって、思って。蒼は、自分のせいでわたしが遭わなくていい性被害にあったって、思って。その関係って、そこスタートになっちゃって、ずっとそれに付き纏われそうで、やだ」
「や、やだって」
言い方…と思いながら、橙子らしいなと思う。
この橙子をもしそういう意味で手に入れるとしたら、相当本腰を入れて口説かないといけないし、本気で、そういう感情で橙子を想って、その上でそれを信じさせないといけない。
「面白いよねぇ」
僕の膝の中で寝息を立てている常磐の額を撫でて笑いながら、橙子は言う。
藍沢も、光基も、ずっと黙っている。2人にとってはきっと、橙子のこの考えはもう承知の話なんだろう。
「わたしも蒼も、自分のせいで互いが嫌な思いしたって言うのが、一番嫌なことなんだよ?なかなか、いい友情じゃない?」
「そっちにまとめようとしてるだろう」
「わたしのは偽善かも知んないけど、蒼なんて生活に支障が出るレベルで後遺症あるしねぇ。いいやつ」
「からかうな」
「からかってないよ」
へら、と橙子は気が抜ける顔で笑う。
それにね、と。橙子の目が藍沢に向くと、藍沢がすごく、嫌そうな顔をした。
「藍沢先生がずっと常磐のこと見てるのは、大事な人の子だから。蒼、藍沢先生と一回、関係持ったでしょ」
「おまっ」
あまりにもあっけんからんと言われて思わずこちらが尻込みする。
あの事件の前。
いつものバーに行こうとして、入り口で出会ったのが藍沢だった。バイだという彼は、仕事の関係で集中しすぎた後で興奮状態になることがあり、おさめるのに一晩の相手を見つけるのだと話していた。女性相手は後腐れがありすぎて、このところは男の方が多いかな、と。あの見た目で、そして少し後で自分に降りかかった事件のおかげで知った彼の職業を思えば、それは女性は放っておかないだろう。
興奮状態がと話した言葉どおりの激しい波がさった後、一度だけだと言うこちらの言葉を無視して、一晩だけだろう、と詭弁を弄して甘くねちこく、抱かれた。そんなことを許した相手は後にも先にもこの男だけでそのあとの再会のこともあって、忘れるわけがない。
「藍沢先生が蒼を口説く間もなく、そんな理由で蒼を独り占めしたら申し訳なくて。面白そうだけど」
「…怖くはないのか」
呆れたような藍沢の声に、橙子はまさか、と笑う。
藍沢は、橙子を狙っているのだと、勝手に思っていたのだけれど。
「藍沢先生、わたしが怖いと思うようなこと、わたしにするの?」
「できるか、阿呆」
女性を面倒だと冷たく言い放っていたあの男と同一人物とは思えない穏やかな口調で、柔らかく橙子を眺める藍沢は、確かに、橙子のことも愛しんでいるように見える。
僕に向けるその執着は、5年前のあいつらと似たような感情じゃないのか、と、思ってしまう。
それなのに、橙子は楽しそうに笑うのだ。
だからね、と。
みんな思い思いの感情のベクトルが好き勝手に動いてるから。後ろ向きな感情は、とりあえず優先しないと言うか、もう、捨て置いていいと思うのよね。
けろり、と言われた言葉に、なんだか憑物が落ちた気がした。
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