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第1章 カウントダウン
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しおりを挟む じゃあ早速、と尋人が気安げな表情の奥に鋭さを隠して翔に目を向けた。
「なんで、あんな突拍子もない話、引き受けた?何か魂胆が?」
「魂胆…ねぇ」
ないと言えば嘘だしなぁと腹の中で思う。向こうから近づいてくるこんな機会、逃すわけがない。しかも、この上なく望ましい立場で側にいろと言うのだから。それを利用してこの関係を進めようとしているのが、魂胆だと言うのなら。
「ここに来たのがオレだっていうのには、驚かないんですね」
土師の両親に目を向けてまず言えば、揃って微かに笑う。先に花音から話を聞いているのかと言う意味を含んだ問いを正確に受け止めたらしい。
「子どもの頃、一度遊んだことがあるから、ダメ元でお願いをしてみたと聞いていますよ」
土師の母が言うのに頷いて、翔も小さく笑みを浮かべた。笑顔が苦手な翔の顔に浮かんだそれは、決して作られたものではなく、自然に浮かんだもの。きちんと話してあるあたりに、花音とこの家族の関係性がうかがえる。自分の家族には、どこまで話してあるのだか怪しいものだというのに。
「だから、引き受けたんです」
「だから、とは?」
「子どもの頃に一度会っただけの彼女が、ずっと大事だったんですよ」
不思議そうな顔をする彼らにどう言えばその意味が伝わるだろう。弟妹たちでさえ、ヤバいものを見るような目で、この話をするときの自分を見るというのに。納得のいかないことがあるとすれば、仕事で留守にしている間に、なぜか弟妹たちと花音が距離を縮めており、まるで昔からの友人のようになっていることだろうか。
「まあいいや。悪意は、ないんだね」
「悪意?」
土師の父の穏やかな声が、あまり穏やかではないことを口にしたため、思わず聞き返してしまう。
「あの子は、そういう契約をしたと話していたから。きちんと報酬も支払うと。それよりも、もともと関係があって、頼みごとを聞きたいと思ったと言われる方が、まだ理解できるからね」
「まだそんなことを…」
思わずため息と一緒に漏れた声に、尋人が楽しそうに笑った。
「ものすごく、はっきりストレートに言わないと、伝わらないよ。鈍感な上に、今は防御に入っているから」
「防御?」
「そ。傷つきたくないっていう防御。信じて傷つくのが嫌だって。もともとそういうところあるけど、まああの状況じゃ仕方ないけど、今はそれがかなりひどい感じ」
「随分詳しいな」
「あの人が元彼とデートに行くときは、だいたい隼人と留守番してましたから。必然的に様子も見てたしね」
「え?」
思わず眉間に皺が寄るのがわかった。再会する前に起きたことにいちいち引っかかっていても仕方ない。そう思っているが、聞き捨てならなかった。
「泊まってたってこと?」
翔の様子を敏感に感じ取って、尋人は軽く両手を上げてみせる。
「泊まったこともあるし、帰ってきてから家に帰ってる。別に何もしてないよ」
「できないわよね。だってこの子、ふられてるから」
「母さん!」
怒った声を出す息子を、二人揃って笑って眺めているのをみて、翔はすっかり毒気を抜かれた思いでため息をつく。嫌な感じは正解だったにしても、この微笑ましい状態に落ち着いているのが解せない。
「あれは、お前が悪い」
「親父まで」
「一体どういう振られ方を…」
聞かずにいられなくなり翔が聞けば、諦めたように尋人がふて腐れたような目を向けてきた。人から面白可笑しく話されるよりは、自分の口で言うことを選んだらしい。
「まだ学生の頃。一緒に飯食ってて、付き合ってって言ったら、『いいよ、どこに?』て言われたの」
「……」
絶句し、さすがに気の毒になる。が、肩が震えるのが抑えられなかった。同情する。同情しているからそれは演技ではないのだけれど、同情している顔が作れないのだ。翔はまだまだ役者として修行が足りないと思いながらも笑いの発作がとまらない。これが、役者としてではなく、個人としているからこその結果なのだとは気づかない。自然な表情がその笑いだった。
そうなるよなぁ、と諦めた顔を向ける尋人に、ごめんと謝りながら、なんとか息をついて笑いをおさめようとする。
「それは、つらいわ…」
ようやくそう言ってから、あれ?と翔が首をかしげる。
「兄貴の彼女にそれ言ったの?」
「まさか。その時にはもう隼人がいたし、兄貴は亡くなってた。ねばろうかなと思ったけど、このままの関係がいいんだなって分かったから」
むしろ、自分は二人が一緒にいた頃をあまり知らないのだと尋人は寂しそうに言う。高校時代に留学をしていて、その間の話だった。兄の具合が悪いことさえ、知らせてもらえなかった。
「ある日突然、連絡が来るんだ。お兄ちゃんが結婚して子供が生まれました。あと、お兄ちゃんの具合が悪いから、近いうちに一度帰っておいで、って」
それが希望だったのだろうとは分かっても、それはキツいな、と翔も顔を曇らせた。
「千隼…隼人の父親と花音ちゃんの話を少しだけしましょうか」
聞きたい翔の気持ちを察したように土師の母が穏やかに口を開いた。亡くなった息子の話は辛い話ではなく楽しい話のようで、その口元には笑みが浮かんでいる。
千隼から聞いた話がほとんどだけどと前置いた母親に、男二人が驚いた顔をする。千隼がそんな話、するのか?と。
最初に会ったのは、花音が大学を受験していたその会場だった。学生がバイトで試験官に入っており、千隼がいる教室に花音がいた。大半の受験生がそうだが、周りに知り合いもおらず不安そうな様子だった。そして、休憩の時にペットボトルが開けられずにいるのを見つけた。固くて回らない様子だが、知り合いもおらず誰にも頼めない。諦めようとしている様子に、手を出していた。
その日はただそれだけで終わっていた。
次は、入学式の日。サークルの関係で大学にいた千隼は、親と一緒に入学式の会場に向かう流れの中に、一人で歩いている花音を見つけた。受験の日の子だというのはすぐに気づいて、
「受かったんだ?」
と、思わず声をかけていた。そうしないと、人混みに慣れない様子で歩いていたその子は、踵を返して帰ってしまいそうに見えた。
最初訝しげに向けられた目が、すぐに気づいたようにほっとした様子の笑顔になった。
「受験の日の。ありがとうございました」
「良かった、覚えててくれて。じゃなかったら、完全にただのナンパだったよな」
「ナンパする人に見えないですけど…するんですか?」
「したことは、ないかな」
屈託なく笑った顔が、印象的だったと千隼は言っていた。
花音は、携帯を持っておらず、未成年だから自分だけで買うこともできない。その上、一人暮らしよりも通う方がお金がかからないからと、通える大学を選ぶように言われ片道2時間半かけて通っていた。大学近辺は、学生なんだから歩けとそこの区間の交通費はもらえず、地下鉄1駅分は普段は歩いていた。その状態なところに、さらにせっかくなのだからサークルにでも入れと言われ、気にいるサークルがとりあえず見つかったからと入ったところは、練習も厳しい大規模なサークルで。諸々に見兼ねて、気にかけるようになった。
花音の存在を千隼の両親が知ったのは、千隼が倒れて病院に運ばれた時だった。付き添ってきていたのが、花音だった。
「うちの息子、つきあおうじゃなくて、大学卒業したら結婚してって、いきなり言ったらしいのよね」
「……」
「だから、まあ、結婚の約束をしたカップルだったわけなんだけど。まだ先の話だからゆっくりお互いの家族にはって思っていたところにそんなことがあって。わたしが花音ちゃんの親の立場だったら同じことを言うと思うから責められないことなんだけど、向こうのご家族からは、別れなさいって、言われたって」
きっと、頭ごなしに言ったのだろうなと翔が思えば、そんな話なのに土師家の顔に浮かんでいるのは揃って苦笑いだ。
「もともと、ずっと聞き分けの良いお嬢さんだったらしいんだけど。まあ、頭のいい子だから、言いたい事を我慢して溜め込んでいたのかしらね」
『すぐにでも、結婚する。ここで言うことなんか聞いたら、後悔するのが分かってるから。しかも、取り返しのつかない後悔。だから、好きにさせてもらう。反対するなら好きにすればいい。でも、邪魔しないで』
千隼の方も、花音のことを思えば別れるつもりでいたのに、そう言ってきたと言われ。自分が考えていたことを言えば、本気で怒られた。大手を振って一緒にいるんだから、後悔しないで生きたいから、もしそれが本心じゃないなら、二度と言わないでと。本心から、一緒にいたくないからって言うなら、また考えると。
それを聞いて、思わず翔は声を出さずに笑ってしまった。
子どもの頃、似ていると思った。寂しい顔をしている女の子。家庭環境に恵まれていなかったからなのか…それを恵まれていないと言ってしまえば、本人がそう感じていない場合には失礼になるけれど。
後悔したくないから、好きにさせろとは、まさに今の自分の状況ではないかと。
「最初にも言いましたが、花音はああ言っていますが、本当の婚約者でいいとオレは思ってます。花音じゃないけど、ここは花音の意思は多少無視してでも好きにさせてもらおうかと」
「いや、そこは無視しちゃだめだろう?」
土師の父に窘められ、なんとなく笑いになるが、尋人が不意に立ち上がりながら面白くなさそうに言った。
「多分、花音はあんたのことは好きだよ。だから、今だったんだ。ふざけた元彼たちのおかげで落ち込むだけ落ち込んだから、今ならあんたにあって、覚えてないとか、なんか嫌なこと言われても中和されると思ったんだよ」
「元彼たち?」
違うところに思わず引っかかるが、そこは尋人は答えない。花音から聞かされていない何かがあるのを察しながらも、そこは諦めて、続きを待つ。
「今まで、知り合いだって聞いたことなかったから今回の話があった時に聞いたんだ。有名人が知り合いでも、すごいのはその本人で、自分がすごいわけじゃないし、無闇に話したくない大事な思い出だったんだと。兄貴には一回だけ話したことあるらしいけど。で、もう一度、会って聞いてみたかったって。自分のこと覚えてますか、って」
そこまで言った尋人が背を向ける。
「迎えに行ってくる。終わったみたいだから」
その背中を見送ってから、改めて土師の両親に翔は向き直った。今日、一番聞きたかったこと。言いたかったこと。
「オレが我を通していけば、それは隼人の父親にもなりたいってことになります。それを認めてもらえますか?」
「かまいません」
間もおかずに返ってきた答えに、翔は息を呑んだ。同時に、自分が知らないうちにひどく緊張していたことにも気づく。返事を聞いた瞬間の安堵感が大きすぎて涙が出そうになる。
「あの2人とあなた自身が幸せに、多くの時間を笑顔で過ごせるなら」
本当は、別れてしまった人が、そうなってくれるのかと思っていた時期もあったのだけれど。ただ、早い段階から尋人が、あれはない、と憮然としていたから、きっとそういうことだったのだろう。今の結果を見ても明らかだけれど。
「ああ、戻ってきた。よし、みんなで1日遊ぼう」
土師の父がそう促して立ち上がり、眉を片方だけ上げて翔を見やった。
「あの子は時々意地をはるから。必要なら頼ってください。それがあの子たちのためにならないことでなければ、手を貸しますよ」
「なんで、あんな突拍子もない話、引き受けた?何か魂胆が?」
「魂胆…ねぇ」
ないと言えば嘘だしなぁと腹の中で思う。向こうから近づいてくるこんな機会、逃すわけがない。しかも、この上なく望ましい立場で側にいろと言うのだから。それを利用してこの関係を進めようとしているのが、魂胆だと言うのなら。
「ここに来たのがオレだっていうのには、驚かないんですね」
土師の両親に目を向けてまず言えば、揃って微かに笑う。先に花音から話を聞いているのかと言う意味を含んだ問いを正確に受け止めたらしい。
「子どもの頃、一度遊んだことがあるから、ダメ元でお願いをしてみたと聞いていますよ」
土師の母が言うのに頷いて、翔も小さく笑みを浮かべた。笑顔が苦手な翔の顔に浮かんだそれは、決して作られたものではなく、自然に浮かんだもの。きちんと話してあるあたりに、花音とこの家族の関係性がうかがえる。自分の家族には、どこまで話してあるのだか怪しいものだというのに。
「だから、引き受けたんです」
「だから、とは?」
「子どもの頃に一度会っただけの彼女が、ずっと大事だったんですよ」
不思議そうな顔をする彼らにどう言えばその意味が伝わるだろう。弟妹たちでさえ、ヤバいものを見るような目で、この話をするときの自分を見るというのに。納得のいかないことがあるとすれば、仕事で留守にしている間に、なぜか弟妹たちと花音が距離を縮めており、まるで昔からの友人のようになっていることだろうか。
「まあいいや。悪意は、ないんだね」
「悪意?」
土師の父の穏やかな声が、あまり穏やかではないことを口にしたため、思わず聞き返してしまう。
「あの子は、そういう契約をしたと話していたから。きちんと報酬も支払うと。それよりも、もともと関係があって、頼みごとを聞きたいと思ったと言われる方が、まだ理解できるからね」
「まだそんなことを…」
思わずため息と一緒に漏れた声に、尋人が楽しそうに笑った。
「ものすごく、はっきりストレートに言わないと、伝わらないよ。鈍感な上に、今は防御に入っているから」
「防御?」
「そ。傷つきたくないっていう防御。信じて傷つくのが嫌だって。もともとそういうところあるけど、まああの状況じゃ仕方ないけど、今はそれがかなりひどい感じ」
「随分詳しいな」
「あの人が元彼とデートに行くときは、だいたい隼人と留守番してましたから。必然的に様子も見てたしね」
「え?」
思わず眉間に皺が寄るのがわかった。再会する前に起きたことにいちいち引っかかっていても仕方ない。そう思っているが、聞き捨てならなかった。
「泊まってたってこと?」
翔の様子を敏感に感じ取って、尋人は軽く両手を上げてみせる。
「泊まったこともあるし、帰ってきてから家に帰ってる。別に何もしてないよ」
「できないわよね。だってこの子、ふられてるから」
「母さん!」
怒った声を出す息子を、二人揃って笑って眺めているのをみて、翔はすっかり毒気を抜かれた思いでため息をつく。嫌な感じは正解だったにしても、この微笑ましい状態に落ち着いているのが解せない。
「あれは、お前が悪い」
「親父まで」
「一体どういう振られ方を…」
聞かずにいられなくなり翔が聞けば、諦めたように尋人がふて腐れたような目を向けてきた。人から面白可笑しく話されるよりは、自分の口で言うことを選んだらしい。
「まだ学生の頃。一緒に飯食ってて、付き合ってって言ったら、『いいよ、どこに?』て言われたの」
「……」
絶句し、さすがに気の毒になる。が、肩が震えるのが抑えられなかった。同情する。同情しているからそれは演技ではないのだけれど、同情している顔が作れないのだ。翔はまだまだ役者として修行が足りないと思いながらも笑いの発作がとまらない。これが、役者としてではなく、個人としているからこその結果なのだとは気づかない。自然な表情がその笑いだった。
そうなるよなぁ、と諦めた顔を向ける尋人に、ごめんと謝りながら、なんとか息をついて笑いをおさめようとする。
「それは、つらいわ…」
ようやくそう言ってから、あれ?と翔が首をかしげる。
「兄貴の彼女にそれ言ったの?」
「まさか。その時にはもう隼人がいたし、兄貴は亡くなってた。ねばろうかなと思ったけど、このままの関係がいいんだなって分かったから」
むしろ、自分は二人が一緒にいた頃をあまり知らないのだと尋人は寂しそうに言う。高校時代に留学をしていて、その間の話だった。兄の具合が悪いことさえ、知らせてもらえなかった。
「ある日突然、連絡が来るんだ。お兄ちゃんが結婚して子供が生まれました。あと、お兄ちゃんの具合が悪いから、近いうちに一度帰っておいで、って」
それが希望だったのだろうとは分かっても、それはキツいな、と翔も顔を曇らせた。
「千隼…隼人の父親と花音ちゃんの話を少しだけしましょうか」
聞きたい翔の気持ちを察したように土師の母が穏やかに口を開いた。亡くなった息子の話は辛い話ではなく楽しい話のようで、その口元には笑みが浮かんでいる。
千隼から聞いた話がほとんどだけどと前置いた母親に、男二人が驚いた顔をする。千隼がそんな話、するのか?と。
最初に会ったのは、花音が大学を受験していたその会場だった。学生がバイトで試験官に入っており、千隼がいる教室に花音がいた。大半の受験生がそうだが、周りに知り合いもおらず不安そうな様子だった。そして、休憩の時にペットボトルが開けられずにいるのを見つけた。固くて回らない様子だが、知り合いもおらず誰にも頼めない。諦めようとしている様子に、手を出していた。
その日はただそれだけで終わっていた。
次は、入学式の日。サークルの関係で大学にいた千隼は、親と一緒に入学式の会場に向かう流れの中に、一人で歩いている花音を見つけた。受験の日の子だというのはすぐに気づいて、
「受かったんだ?」
と、思わず声をかけていた。そうしないと、人混みに慣れない様子で歩いていたその子は、踵を返して帰ってしまいそうに見えた。
最初訝しげに向けられた目が、すぐに気づいたようにほっとした様子の笑顔になった。
「受験の日の。ありがとうございました」
「良かった、覚えててくれて。じゃなかったら、完全にただのナンパだったよな」
「ナンパする人に見えないですけど…するんですか?」
「したことは、ないかな」
屈託なく笑った顔が、印象的だったと千隼は言っていた。
花音は、携帯を持っておらず、未成年だから自分だけで買うこともできない。その上、一人暮らしよりも通う方がお金がかからないからと、通える大学を選ぶように言われ片道2時間半かけて通っていた。大学近辺は、学生なんだから歩けとそこの区間の交通費はもらえず、地下鉄1駅分は普段は歩いていた。その状態なところに、さらにせっかくなのだからサークルにでも入れと言われ、気にいるサークルがとりあえず見つかったからと入ったところは、練習も厳しい大規模なサークルで。諸々に見兼ねて、気にかけるようになった。
花音の存在を千隼の両親が知ったのは、千隼が倒れて病院に運ばれた時だった。付き添ってきていたのが、花音だった。
「うちの息子、つきあおうじゃなくて、大学卒業したら結婚してって、いきなり言ったらしいのよね」
「……」
「だから、まあ、結婚の約束をしたカップルだったわけなんだけど。まだ先の話だからゆっくりお互いの家族にはって思っていたところにそんなことがあって。わたしが花音ちゃんの親の立場だったら同じことを言うと思うから責められないことなんだけど、向こうのご家族からは、別れなさいって、言われたって」
きっと、頭ごなしに言ったのだろうなと翔が思えば、そんな話なのに土師家の顔に浮かんでいるのは揃って苦笑いだ。
「もともと、ずっと聞き分けの良いお嬢さんだったらしいんだけど。まあ、頭のいい子だから、言いたい事を我慢して溜め込んでいたのかしらね」
『すぐにでも、結婚する。ここで言うことなんか聞いたら、後悔するのが分かってるから。しかも、取り返しのつかない後悔。だから、好きにさせてもらう。反対するなら好きにすればいい。でも、邪魔しないで』
千隼の方も、花音のことを思えば別れるつもりでいたのに、そう言ってきたと言われ。自分が考えていたことを言えば、本気で怒られた。大手を振って一緒にいるんだから、後悔しないで生きたいから、もしそれが本心じゃないなら、二度と言わないでと。本心から、一緒にいたくないからって言うなら、また考えると。
それを聞いて、思わず翔は声を出さずに笑ってしまった。
子どもの頃、似ていると思った。寂しい顔をしている女の子。家庭環境に恵まれていなかったからなのか…それを恵まれていないと言ってしまえば、本人がそう感じていない場合には失礼になるけれど。
後悔したくないから、好きにさせろとは、まさに今の自分の状況ではないかと。
「最初にも言いましたが、花音はああ言っていますが、本当の婚約者でいいとオレは思ってます。花音じゃないけど、ここは花音の意思は多少無視してでも好きにさせてもらおうかと」
「いや、そこは無視しちゃだめだろう?」
土師の父に窘められ、なんとなく笑いになるが、尋人が不意に立ち上がりながら面白くなさそうに言った。
「多分、花音はあんたのことは好きだよ。だから、今だったんだ。ふざけた元彼たちのおかげで落ち込むだけ落ち込んだから、今ならあんたにあって、覚えてないとか、なんか嫌なこと言われても中和されると思ったんだよ」
「元彼たち?」
違うところに思わず引っかかるが、そこは尋人は答えない。花音から聞かされていない何かがあるのを察しながらも、そこは諦めて、続きを待つ。
「今まで、知り合いだって聞いたことなかったから今回の話があった時に聞いたんだ。有名人が知り合いでも、すごいのはその本人で、自分がすごいわけじゃないし、無闇に話したくない大事な思い出だったんだと。兄貴には一回だけ話したことあるらしいけど。で、もう一度、会って聞いてみたかったって。自分のこと覚えてますか、って」
そこまで言った尋人が背を向ける。
「迎えに行ってくる。終わったみたいだから」
その背中を見送ってから、改めて土師の両親に翔は向き直った。今日、一番聞きたかったこと。言いたかったこと。
「オレが我を通していけば、それは隼人の父親にもなりたいってことになります。それを認めてもらえますか?」
「かまいません」
間もおかずに返ってきた答えに、翔は息を呑んだ。同時に、自分が知らないうちにひどく緊張していたことにも気づく。返事を聞いた瞬間の安堵感が大きすぎて涙が出そうになる。
「あの2人とあなた自身が幸せに、多くの時間を笑顔で過ごせるなら」
本当は、別れてしまった人が、そうなってくれるのかと思っていた時期もあったのだけれど。ただ、早い段階から尋人が、あれはない、と憮然としていたから、きっとそういうことだったのだろう。今の結果を見ても明らかだけれど。
「ああ、戻ってきた。よし、みんなで1日遊ぼう」
土師の父がそう促して立ち上がり、眉を片方だけ上げて翔を見やった。
「あの子は時々意地をはるから。必要なら頼ってください。それがあの子たちのためにならないことでなければ、手を貸しますよ」
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