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森の小屋で。背中の傷をようやく検めたアダンの纏う空気がものすごく低くなった気がして、悪寒に体が震えた。
「まさか、傷のせいで熱が?」
と焦った口調で言うから、すぐに否定する。あなたのせい、とは言えなかったけれど。擦り傷だろうとは思うけれど、出血はしていたようで、乾いた血が張り付いてしまって、服を脱ぐのが少し…だいぶ痛かった。見てくれるのがアダンしかいないから、そこはもう、申し訳ないけれど肌を見てもらう。服を脱ぐ前に大きなタオルを見つけてきたアダンが掛けてくれたので、必要最低限しか見えていないはずだけれど。
前ボタンを全部外して、肩脱ぎにしているけれど袖は抜いていないから腰回りにはシャツがまとわりついている。
「アダン?」
あまりに反応がなくて思わず声をかける。
「あの、ごめんね。こんなことさせて。見たくはないと思うんだけど。言葉に甘えてしまって」
「は?」
ちょっと、素が出たアダンの声に一旦口をつぐむ。何に気を取られているのか知らないけれど、柔らかい口調で物腰も同じく柔らかで麗しい従者、の仮面、はずれてるわよ、とは言わないでおく。今ここには自分しかいないから、君子危うきに近寄らず。
「やはり責任…いや、あいつの言っていたあれは、詫びではなく褒美になる」
何か背後でぶつぶつと言いながら、おそらく傷の周辺に指をそわせている。おそらく、と言うのは、触れられている感覚はあるけれど、傷に触れられたと言う痛みとかはないから。まあ、痛みを感じない程度の軽傷、なのだろうけれど多少なりとも出血のある他人の傷など不浄なものに触れはしないだろう。それも、わたしのだ。
ただ、さすがにその時間があまり長いと居心地も悪くなる。
「あの、アダン。見苦しいものをそろそろ隠したいんだけど?」
「見苦しいですって?」
言葉は丁寧に戻っているけれど。声音が孕んだ何か危険な感じは変わらないから、思わずすみません、と言ってしまう。
無意識に体を縮こまらせていると、背後で深いため息がして、アダンが少し動いた気配がある。
沸かしていた湯を桶に入れて持ってきて、柔らかい布を浸している。絞って、心地よい温度を彼の頬で測る様を思わず振り返ったまま眺めていると、やけに艶っぽい笑みを浮かべた。世馴れていないから、揶揄うのをやめてと何度も言っているのに。
この人はいつの間に、そう言うことを覚えたのか。彼ほどの美貌であればいくらでもお誘いはあるだろうから、学ぶ機会なんて、まあ聞くほうが野暮。
触れますよ、と断りを入れてから、アダンの大きな手が左の二の腕を掴んで、右手に持った布を傷口に持ってくる。
「以前から何度か聞きましたが。お屋敷を出たので改めてお聞きしますよシア様、本気で、言ってます?」
「本気で…っつ」
血を拭ってくれるその動作が滲みて、思わず声をつまらせると、宥めるように腕を支える手がやわやわと二の腕を揉む。
昔は、ぽっちゃりしていて。醜いと言われた。義母が菓子をくれて、甘いものは好きなので嬉しかったのだけれど。多くて食べきれないと、わたしの与えたものを食べないと父に訴えるから。甘いものが好きにしても、甘すぎて、一口で十分なものを与えられるままに食べていたらそんな体型になった。
そのうち、家のことをやるようになって、食事も家族といつの間にか別にするようになって。家のことをやるようになったあたりから食べるよりも動く量が増えたのかぽっちゃりだった体型は戻ってきたけれど、兄がいなくなったあたりで食事が別になったところで、少し自分でも、もう少し太らないとみっともないと思うようになった。
その、みっともない、のままの二の腕を触ったところで多分、何の楽しさもないだろう。ご褒美にもならずごめんね、と思っていると、答えを返していないことを促されて気づいた。
「貴女の容貌のことですよ」
「ああ…そういえば、聞かれたわね。別に、あの家だからって返答を変える必要はないわ。事実だもの。子どもの頃からわたしは家族にも外に出したくないと思われる容貌だったのよ?」
社交の場に出ることもなかったから、ドレスも宝飾品も持っていない。その分、妹にたくさん買ってあげられたようだ。ただ…まあ、ちょっと買いすぎだけれど。どんなに切り詰めても家計が火の車になる原因は、義母と妹の贅沢なのだけれど、父は言われるままだから。諌めれば叱責を受けた。手をあげられこそしなかったけれど、思わず身を竦めて体を庇ってしまうほどの剣幕だったことは、何度かある。
「まあ、屋敷の人間は、旦那様たちの言葉に逆らう方たちは辞めていきましたし。何も言いませんね。外に出ることもなかった貴女の認識がそうなるのは、仕方ないことなのでしょうが。わたしや兄君が言う言葉は、それほど信じられませんか?」
二人は、ブレずに可愛いと言い続けてくれた。最近では、アダンは美しいとまで。口が曲がるわよ、と窘めていたけれど。
「二人とも、わたしに甘いもの。身内の欲目って、恥をかかないようにって、釘をさされたし、自分でもそう思うわ」
「釘を?奥様ですか?」
「あと、フレア」
妹の名前を出すと、とても嫌そうな顔をする。彼を自分の侍従にと言うのを諦めても、事あるごとに妹がアダンを手に入れようとしていたことは気づいていた。助けてあげられなかったし、その必要もなさそうだった。
何度かお湯に浸されて、そっと触れていた布がそのまま湯に落とされる音を聞いて、目を落とした。思いの外、湯が赤く染まっていて、少し驚く。
「シア様、今後、貴女は外に出ることが増えるでしょう。今までのような生活を続けさせる気はありませんので、顔を隠して歩くことをさせるつもりもありません」
まあ、追手がある間はフードをかぶって移動になるでしょうが。と付け加えるアダン。
街に買い物に出されるときは、その顔を晒すなと言われ続けていた。まあ、顔を晒したところで社交の場に出てもいないからどこの家の誰とも、それこそ伯爵家の娘が使用人よりもみすぼらしい形でうろうろしているなんて噂が立つ心配もないから、面倒で無視していたことも多いが。どうせ、命じた後は気にされることもないから、目撃されない限り、バレない。デビュタントが済んでいるはずの歳なのに外にも出てこない深層の令嬢が、実は醜くて外に出せないらしい、というのは有名な話だったし。フレアが「お姉さまはかわいそうな方で」と枕詞に話しているのを、家の茶会で給仕をしながら聞いたので、原因はそこかな、とは思っている。恥なんだから晒さなければいいのに。
「どうも、ぼんやりしてますね」
ふと額に手を当てられて、顔を上げる。くん、と上向くと、背後から心配げに覗き込むアダンの顔があった。
もともと、他所ごとを考えてぼんやりしがちな性格なのだ。それで何度も義母をイライラさせた。そんな性格だから、言われていることをたくさん聞き逃して、気にせず生活してこれた気もするから、良いのではなかろうか。
「シア様、いえ、シア」
「はい?」
「貴女は、わたしや…そうですね、兄君。あの馬車に轢かれそうになった迷惑な王子など、外見をどう思います?」
「みんな、素敵ね。眩しくて直視できないくらい」
「はい。わたしや兄君を見慣れている割に、真っ当な感覚で安心しました。他人に対しての美的感覚が一般的である以上、自己評価の低さが不思議でならないのですが」
「?何を言っているの?兄様とアダン以外、褒める人はいないわ。兄様は、傾国とも言われた母様に似た美しい人なのに、同じ人から生まれたとは思えない、とは何度も言われたけれど」
そう。そんな母を。義母が姿を見せた頃から父が蔑むようになったのだけは不思議だった。内面の醜さが外にまで出ていた、なんて言うのを後年聞いたけれど。外面と同じく、内面も美しい方だったと、辞めていった使用人たちは間違えないようにと言い聞かせて行ったその言葉を、信じている。
「少し、わたしに集中していただきましょうか」
不意に、背後の声のトーンが下がって焦ったが、手遅れだった。
柔らかい感触が肩口に触れて、驚きで体を震わせるけれど、左腕を掴む手はそのままで、動けない。なんとか首を捻ると、傷口に唇を当て、あろうことか舐めようとしているアダンの姿を目にする。
「ちょっ。アダン!」
悲鳴のような声を上げるけれど、そんな娘らしい声、似つかわしくないと慌てて飲み込む。
途端に、不機嫌な目がこちらを向いて、遠慮なく傷口を舐められた。
侍女が面倒をみてくれることはなく、一人ではどうにもならない身支度や何かがあったとしても、手を貸してくれるのはアダンだけだった。異性に頼むことではないからと黙っていても、アダンは先回りして手を差し伸べてくれた。
でも、これは違う。
肩に口を寄せながら、アダンはその作業を止めることなく、合間に言葉を紡ぐ。
「セシリア、自覚してください。貴女は、あの兄君と同じご両親から生まれた女性です。貴女の肌を見れば、このようにしたいと、男は望みます。貴女と目が合えば、微笑んでもらいたいと、言葉をかけられれば、その唇に触れたいと。そのつもりでいていただかなければ、表に出せません。自覚していただいても、外になど出したくないと言うのに」
「え、あの。アダン」
「わかりませんか?」
消毒は終わりにしましょう、と丁寧に傷薬を塗ったアダンはシャツを上げてはだけた肩に戻し、背後から手を回してボタンを止めていく。
自分で、と止めようとする手は、やんわりと、けれど抵抗しようもなく押さえ込まれる。
「貴女に自覚してもらえるように、教えるのはなかなか。骨が折れそうですね」
器用に肌に触れずにボタンを止め終えたアダンが、微笑んだ気配がする。
「怪我、だいぶ酷かったですよ。これ、痕が残るかもしれません」
それは構わないけれどと平然と答えようとした言葉は、答える前に目にしたアダンの顔で不自然に飲み込んだ。めちゃくちゃ、怒っている。
「なぜ、言わなかったのです」
「え、いや。ひどいと、本当に思わなかったのよ?」
まあ、ものすごく譲って、信じてあげましょう、と言いながら抱き上げられる。
「気づかなかったお詫びに、寝台までお運びします。明日からの移動は、わたしに任せていただきますよ」
「え、いや。あの、寝台は一つしかないの。だからアダンが」
使って、と、最後まで言えなかった。
目、怖い。使用人じゃない、と言いはしたけれど、もともとこうやってものすごく怖いことがある。
でも、体の大きなアダンよりも、自分の方が眠る場所は確保しやすいのだ。撤回もできずに黙っていると、何かを思いついたようにアダンはそうですね、と頷いた。
「ひとつしかないのでしたら、もうお嬢様と使用人ではないとお許しをいただきましたし。分け合いましょうか」
「え」
長い足が大股に小さな家の中を数歩で移動していく間に理解して、さすがに身を捩る。
「えぇぇえ!?」
「大人しくしないなら、男の力が抵抗できないものだと、早速お教えしましょうか」
「…お隣、お邪魔シマス」
「まさか、傷のせいで熱が?」
と焦った口調で言うから、すぐに否定する。あなたのせい、とは言えなかったけれど。擦り傷だろうとは思うけれど、出血はしていたようで、乾いた血が張り付いてしまって、服を脱ぐのが少し…だいぶ痛かった。見てくれるのがアダンしかいないから、そこはもう、申し訳ないけれど肌を見てもらう。服を脱ぐ前に大きなタオルを見つけてきたアダンが掛けてくれたので、必要最低限しか見えていないはずだけれど。
前ボタンを全部外して、肩脱ぎにしているけれど袖は抜いていないから腰回りにはシャツがまとわりついている。
「アダン?」
あまりに反応がなくて思わず声をかける。
「あの、ごめんね。こんなことさせて。見たくはないと思うんだけど。言葉に甘えてしまって」
「は?」
ちょっと、素が出たアダンの声に一旦口をつぐむ。何に気を取られているのか知らないけれど、柔らかい口調で物腰も同じく柔らかで麗しい従者、の仮面、はずれてるわよ、とは言わないでおく。今ここには自分しかいないから、君子危うきに近寄らず。
「やはり責任…いや、あいつの言っていたあれは、詫びではなく褒美になる」
何か背後でぶつぶつと言いながら、おそらく傷の周辺に指をそわせている。おそらく、と言うのは、触れられている感覚はあるけれど、傷に触れられたと言う痛みとかはないから。まあ、痛みを感じない程度の軽傷、なのだろうけれど多少なりとも出血のある他人の傷など不浄なものに触れはしないだろう。それも、わたしのだ。
ただ、さすがにその時間があまり長いと居心地も悪くなる。
「あの、アダン。見苦しいものをそろそろ隠したいんだけど?」
「見苦しいですって?」
言葉は丁寧に戻っているけれど。声音が孕んだ何か危険な感じは変わらないから、思わずすみません、と言ってしまう。
無意識に体を縮こまらせていると、背後で深いため息がして、アダンが少し動いた気配がある。
沸かしていた湯を桶に入れて持ってきて、柔らかい布を浸している。絞って、心地よい温度を彼の頬で測る様を思わず振り返ったまま眺めていると、やけに艶っぽい笑みを浮かべた。世馴れていないから、揶揄うのをやめてと何度も言っているのに。
この人はいつの間に、そう言うことを覚えたのか。彼ほどの美貌であればいくらでもお誘いはあるだろうから、学ぶ機会なんて、まあ聞くほうが野暮。
触れますよ、と断りを入れてから、アダンの大きな手が左の二の腕を掴んで、右手に持った布を傷口に持ってくる。
「以前から何度か聞きましたが。お屋敷を出たので改めてお聞きしますよシア様、本気で、言ってます?」
「本気で…っつ」
血を拭ってくれるその動作が滲みて、思わず声をつまらせると、宥めるように腕を支える手がやわやわと二の腕を揉む。
昔は、ぽっちゃりしていて。醜いと言われた。義母が菓子をくれて、甘いものは好きなので嬉しかったのだけれど。多くて食べきれないと、わたしの与えたものを食べないと父に訴えるから。甘いものが好きにしても、甘すぎて、一口で十分なものを与えられるままに食べていたらそんな体型になった。
そのうち、家のことをやるようになって、食事も家族といつの間にか別にするようになって。家のことをやるようになったあたりから食べるよりも動く量が増えたのかぽっちゃりだった体型は戻ってきたけれど、兄がいなくなったあたりで食事が別になったところで、少し自分でも、もう少し太らないとみっともないと思うようになった。
その、みっともない、のままの二の腕を触ったところで多分、何の楽しさもないだろう。ご褒美にもならずごめんね、と思っていると、答えを返していないことを促されて気づいた。
「貴女の容貌のことですよ」
「ああ…そういえば、聞かれたわね。別に、あの家だからって返答を変える必要はないわ。事実だもの。子どもの頃からわたしは家族にも外に出したくないと思われる容貌だったのよ?」
社交の場に出ることもなかったから、ドレスも宝飾品も持っていない。その分、妹にたくさん買ってあげられたようだ。ただ…まあ、ちょっと買いすぎだけれど。どんなに切り詰めても家計が火の車になる原因は、義母と妹の贅沢なのだけれど、父は言われるままだから。諌めれば叱責を受けた。手をあげられこそしなかったけれど、思わず身を竦めて体を庇ってしまうほどの剣幕だったことは、何度かある。
「まあ、屋敷の人間は、旦那様たちの言葉に逆らう方たちは辞めていきましたし。何も言いませんね。外に出ることもなかった貴女の認識がそうなるのは、仕方ないことなのでしょうが。わたしや兄君が言う言葉は、それほど信じられませんか?」
二人は、ブレずに可愛いと言い続けてくれた。最近では、アダンは美しいとまで。口が曲がるわよ、と窘めていたけれど。
「二人とも、わたしに甘いもの。身内の欲目って、恥をかかないようにって、釘をさされたし、自分でもそう思うわ」
「釘を?奥様ですか?」
「あと、フレア」
妹の名前を出すと、とても嫌そうな顔をする。彼を自分の侍従にと言うのを諦めても、事あるごとに妹がアダンを手に入れようとしていたことは気づいていた。助けてあげられなかったし、その必要もなさそうだった。
何度かお湯に浸されて、そっと触れていた布がそのまま湯に落とされる音を聞いて、目を落とした。思いの外、湯が赤く染まっていて、少し驚く。
「シア様、今後、貴女は外に出ることが増えるでしょう。今までのような生活を続けさせる気はありませんので、顔を隠して歩くことをさせるつもりもありません」
まあ、追手がある間はフードをかぶって移動になるでしょうが。と付け加えるアダン。
街に買い物に出されるときは、その顔を晒すなと言われ続けていた。まあ、顔を晒したところで社交の場に出てもいないからどこの家の誰とも、それこそ伯爵家の娘が使用人よりもみすぼらしい形でうろうろしているなんて噂が立つ心配もないから、面倒で無視していたことも多いが。どうせ、命じた後は気にされることもないから、目撃されない限り、バレない。デビュタントが済んでいるはずの歳なのに外にも出てこない深層の令嬢が、実は醜くて外に出せないらしい、というのは有名な話だったし。フレアが「お姉さまはかわいそうな方で」と枕詞に話しているのを、家の茶会で給仕をしながら聞いたので、原因はそこかな、とは思っている。恥なんだから晒さなければいいのに。
「どうも、ぼんやりしてますね」
ふと額に手を当てられて、顔を上げる。くん、と上向くと、背後から心配げに覗き込むアダンの顔があった。
もともと、他所ごとを考えてぼんやりしがちな性格なのだ。それで何度も義母をイライラさせた。そんな性格だから、言われていることをたくさん聞き逃して、気にせず生活してこれた気もするから、良いのではなかろうか。
「シア様、いえ、シア」
「はい?」
「貴女は、わたしや…そうですね、兄君。あの馬車に轢かれそうになった迷惑な王子など、外見をどう思います?」
「みんな、素敵ね。眩しくて直視できないくらい」
「はい。わたしや兄君を見慣れている割に、真っ当な感覚で安心しました。他人に対しての美的感覚が一般的である以上、自己評価の低さが不思議でならないのですが」
「?何を言っているの?兄様とアダン以外、褒める人はいないわ。兄様は、傾国とも言われた母様に似た美しい人なのに、同じ人から生まれたとは思えない、とは何度も言われたけれど」
そう。そんな母を。義母が姿を見せた頃から父が蔑むようになったのだけは不思議だった。内面の醜さが外にまで出ていた、なんて言うのを後年聞いたけれど。外面と同じく、内面も美しい方だったと、辞めていった使用人たちは間違えないようにと言い聞かせて行ったその言葉を、信じている。
「少し、わたしに集中していただきましょうか」
不意に、背後の声のトーンが下がって焦ったが、手遅れだった。
柔らかい感触が肩口に触れて、驚きで体を震わせるけれど、左腕を掴む手はそのままで、動けない。なんとか首を捻ると、傷口に唇を当て、あろうことか舐めようとしているアダンの姿を目にする。
「ちょっ。アダン!」
悲鳴のような声を上げるけれど、そんな娘らしい声、似つかわしくないと慌てて飲み込む。
途端に、不機嫌な目がこちらを向いて、遠慮なく傷口を舐められた。
侍女が面倒をみてくれることはなく、一人ではどうにもならない身支度や何かがあったとしても、手を貸してくれるのはアダンだけだった。異性に頼むことではないからと黙っていても、アダンは先回りして手を差し伸べてくれた。
でも、これは違う。
肩に口を寄せながら、アダンはその作業を止めることなく、合間に言葉を紡ぐ。
「セシリア、自覚してください。貴女は、あの兄君と同じご両親から生まれた女性です。貴女の肌を見れば、このようにしたいと、男は望みます。貴女と目が合えば、微笑んでもらいたいと、言葉をかけられれば、その唇に触れたいと。そのつもりでいていただかなければ、表に出せません。自覚していただいても、外になど出したくないと言うのに」
「え、あの。アダン」
「わかりませんか?」
消毒は終わりにしましょう、と丁寧に傷薬を塗ったアダンはシャツを上げてはだけた肩に戻し、背後から手を回してボタンを止めていく。
自分で、と止めようとする手は、やんわりと、けれど抵抗しようもなく押さえ込まれる。
「貴女に自覚してもらえるように、教えるのはなかなか。骨が折れそうですね」
器用に肌に触れずにボタンを止め終えたアダンが、微笑んだ気配がする。
「怪我、だいぶ酷かったですよ。これ、痕が残るかもしれません」
それは構わないけれどと平然と答えようとした言葉は、答える前に目にしたアダンの顔で不自然に飲み込んだ。めちゃくちゃ、怒っている。
「なぜ、言わなかったのです」
「え、いや。ひどいと、本当に思わなかったのよ?」
まあ、ものすごく譲って、信じてあげましょう、と言いながら抱き上げられる。
「気づかなかったお詫びに、寝台までお運びします。明日からの移動は、わたしに任せていただきますよ」
「え、いや。あの、寝台は一つしかないの。だからアダンが」
使って、と、最後まで言えなかった。
目、怖い。使用人じゃない、と言いはしたけれど、もともとこうやってものすごく怖いことがある。
でも、体の大きなアダンよりも、自分の方が眠る場所は確保しやすいのだ。撤回もできずに黙っていると、何かを思いついたようにアダンはそうですね、と頷いた。
「ひとつしかないのでしたら、もうお嬢様と使用人ではないとお許しをいただきましたし。分け合いましょうか」
「え」
長い足が大股に小さな家の中を数歩で移動していく間に理解して、さすがに身を捩る。
「えぇぇえ!?」
「大人しくしないなら、男の力が抵抗できないものだと、早速お教えしましょうか」
「…お隣、お邪魔シマス」
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