溺婚

明日葉

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女除けのため、洗礼を受ける 8

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 危なげなく絢佳を抱きとめた天羽は、しかしかなり焦って走ってきたようで、珍しく額に汗が滲んでいる。それは冷や汗も混じっていて。
 ただ、絢佳にかける声はいつもと変わらない。揶揄うような調子。絢佳が怯えないように。
 そのせいか、このような状況なのに絢佳の方も驚いた顔のまま、ぽかんと呟く。


既視感デジャビュ…」


 そうそう階段で落ちてくる人間に出くわすことも少ない。しかもちょうど助けられる距離でなんて。
 そう考えれば、ある意味運命的だと思うが。だが。


 天羽は絢佳に向けていた安堵と宥めるような視線を、絢佳から外して階段の上に向けた途端、逃げ出したいのに足が竦んで動けないほどの怒気に染める。



 まずは、絢佳が落ちた原因に。
 いや、絢佳を落とした女に。

「なぜ、お前がまだいる」

 スタッフの…いや、スタッフ女。来いとも言っていないのに待ち構えていたあの時、すでに見限っていた。

「どうして、その人なんですかっ」


 同情を引くような表情で涙を浮かべるが、嫌悪感しか湧いてこない。しかも、会話すら成立しない。

「いつも、わたしを伴って出席していたじゃないですか」
「お前が勝手に、秘書だからとついてきていただけだ。来るなと何度も言ったはずだ」

 冷え切った声に、なおも何か言おうとするのを徹底的に無視して、天羽はその目を浅葱に向ける。浅葱が掴んでいる女の手には、何かが握られている。あれを、投げつけようとしたのか。

「随分と、出席者の行儀が悪いな。しかも、自分の父親たちにオレの足止めをさせてその間に妻を取り囲んで。怖がって逃げ出すように仕向けようとしたのか?」


 地を這うような声に、誰も声も出せない。
 騒ぎを聞きつけて集まってきたホテルの人間たちも、天羽の放つ空気に遠巻きにしてしまう。

「浅葱、そんなのは放って、あの女、とっ捕まえて警察に突き出せ」
「そんなっ」

 引きつった声を上げる女を、天羽は温度のない目で見つめる。自分が何をしたのかも理解していないのか、と。

 浅葱の方は、あからさまに嫌な顔をした。それが必要だとはわかるのだけれど。


「気持ち悪くて、触りたくもねぇんだけど?まあ、この女も嫌だから、離していいってのはありがたいけど」


 ぽい、と本当に放り捨てるように離しながら、浅葱はその目を、遠巻きにしているスタッフたちに向ける。
 慌てたように近づいてきた彼らは、その場にいた女性たちをまとめて別室に連れて行く。誰が何をしたのか、この場にいた誰1人、彼らの判断で解放するわけにはいかない状況だということは、わかる。








 人がいなくなって、天羽に抱えられて階段の上に立たされて、絢佳は深呼吸をする。肩で息をしてしまうのは、恐怖心が残っているからか、先ほどの興奮が残っているからか。両方だな、と思いながら、宥めるように背中を撫でる大きい手がありがたくて見上げれば、先ほどまでの怒り狂った挙句に冷徹なまでの冷えた目をしていた男が、気遣わしげに覗き込んでくる。
 最後にもう一度、天羽の肩に額を当てて大きく息を吐き出して、なんとか笑顔を作る。


「また、助けられちゃいました」
「阿呆」


 食い気味に叱る声で言われ、心配かけたなぁ、と実感する。
 離れようとしたのに、そのまま頭を抱え込まれて天羽の体に押し付けられてしまい、じたばたしてみたのだが、一向に構う様子もなく、天羽はその目を浅葱と、居合わせた女性に向ける。

「なんでここにいるんですか、剣城つるぎ先輩」


 先輩?と、強引にもがいて首だけ振り向かせてもらう。先ほど、浅葱とほぼ同時に助けに入ってくれた人。ベリーショートの髪がよく似合う、小顔でスレンダーな美人。楽しげに天羽と絢佳の様子を眺めている。

「天羽が身を固めたって噂を聞いたところに、そういえばこの招待状が来ていたと思い出してね。見物に来て面白いものが見れたよ」



 たまたま、化粧室にいたらしい。
 聞き苦しい言葉の数々に辟易して、あんな男に関わったばかりに気の毒にと助けようかと思ったところで、自ら反撃したその内容が気に入ったらしく、至ってご機嫌なその女性に、天羽は目に見えて嫌な顔をする。
 見物、という響きがまず気に入らない上に、あなたに気に入られなくていいと絢佳を抱える腕に力が籠るから、腕ごと抑えられて自由のきかない腕で触れられる天羽の腰あたりを叩いて絢佳は抗議の意思を伝える。

「どこからそんな情報が」
「ゼミの教授に、報告しただろう?もう釣書の用意はするなと」


 そこから広まるって、と憮然とする天羽の様子を剣城は楽しげに見ている。男前なかっこいい人だなあと見つめていれば、不満げに天羽の方に顔を強引に戻されてしまう。

「浅葱、お前」
「手洗いまでついていけないって。というか絢ちゃん、わざと離れたろ」

 流石に少し怒った声の浅葱に話すときは、諦めたように天羽も浅葱の方に向き直らせてくれる。浅葱より剣城の方を嫌がるのが謎だが、先輩と呼んでいたし、かなわないのかもしれないな、と少し面白くなる。


「いや、接してみないとどんな人たちが天羽さんの周りにいるのか分からないから、ちょっと試しにと思ったら」
「呼び方。というか、ちょっとじゃ済まないから」
「あー。済まないタイプの方たちだって承知してたから、あんなに浅葱さん、厳重だったんですね」
「嫁さん、犯罪を誘発しちゃいけないよ?」

 笑いを含んだ声で割って入って剣城に窘められれば、殊勝に絢佳もうなずくしかない。そんなつもりはなかったのだけれど、結果的にはそういうことになってしまった。


「でもまあ、とーやがなんで面倒がったり嫌がったりするのかは、わたしなりに理解しました。というか、ああいうタイプを遠ざけたいタイプの人でよかった」
「あれを喜ぶ奴はいないだろう」
 呆れ声で言われれば、それもそうか、と今度は自然に笑いが浮かぶ。
「ちゃんと、多少なりともかなわないと思ってもらえるような嫁を演じてやろうと思ったのに、普通にかっとしてしまったのです」


 はは、と、剣城が笑う。カッコよかったぞーと。聞いていたのは彼女だけだ。

 困った顔で、天羽は浅葱と剣城の方を向いたままの絢佳を背中からしっかりと抱きしめた。



「うん。怒ってくれたのは、ありがたい。なんとなく、オレのことで怒ってくれた気がする」

「自惚れ…」

「でも」

 抱きしめていた手が顎に添えられ、強引に振り向かされる。


「オレと一緒にいる姿を見せるだけで女除けになる。お前はこれに関しては能動的に動くな」





 至近距離にキャパオーバー寸前で、慌てて首を縦に振る絢佳と。
 天羽の言いたいことを正確に理解しながら、絢佳には伝わっていないぞと呆れる浅葱。また、女除けの上塗りしたな、ばか、と、目を逸らしてため息をついた。





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