溺婚

明日葉

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私事ではありますが 1

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 月曜日。
 エレベーターを降りると、綾部が待っている。絢佳は小走りに駆け寄って、一緒に歩き始めた。こうしていると、傍目には待ち合わせでもしていたように見えるのだろうな、と。それをぶつくさ言っていた人、いたなぁと思い浮かべながらため息をつく。

「昨日あの後、どうしたの?」
「はあ、別にこれと言って。…あの広い部屋に、元々のわたしの荷物なんて大したことないから片付けもすぐに終わったし、天羽さんに、ピアノ弾いてもらったりしてました」
「!弾いてくれたんだ」
「?はい」
 意外そうな反応がむしろ意外で、絢佳はきょとんとする。だって、グランドピアノをあんなに堂々とおいて、しかもスクエアピアノまで。
 ふーん、と、絢佳を見下ろしていた綾部は、とりあえず、完全に流されたな、と絢佳を見ている。まあ、少なくとも、嫌悪感、はないのだろう。好意は…怪しいところだけれど、スキンシップを拒否しないということは、まあ、あるのだろうなと。
「初夜は?」
「…は!?」
 ああ、まだね、と、反応で察して綾部はふむふむ、と勝手に何かを納得しているけれど。
 そもそも、知り合って何日よ、と絢佳は言いたいのだ。いや、それを言ったら、なんで結婚と話が堂々巡りになるのだけれど。
「無理です、恥ずかしすぎて、死ぬ」
「ぷはっ」
 観念したような絢佳の呟きに、綾部は耐えきれずに吹き出した。
 いやそもそも、あの男がまだ手を出せてないとか、そっちも笑うしかない。











 そしてなぜか、保護者のように心配をしている綾部を、絢佳は困った人だなぁと見ている。
 これ、確実に誤解されるやつ。
 でも、ちゃんと報告したか、下手したら確認しろとか、言われてそうとも思う。まあ実際、そうなのだけれど。
 部署の違う絢佳と綾部。まあ、出勤が一緒になるのは、どこか途中で偶然会ったから、で済むけれど、なぜここまでついてくる。そして、上司への報告を見守っている。保護者か?と思いながら。


「あの、課長」


 飄々とした、でも実は切れ物の課長は絢佳が声をかけると、ん~?、と気のない返事をして顔を上げ、そして、少し離れたところにいる綾部に気づく。
「なんだ、保護者付きか?」
 ああ、やっぱりそう思いますよねぇ。そして今、確実に誤解をされた気しかしないですよ。
 と思いながら、もう、さっさと義務を果たしたい。



「私事なんですが、結婚しました」








「はぁ!?」





 頓狂な声が響き、絢佳が慌てるのを、課長の方は驚きでしばらく二の句が告げずに見上げている。



「します、じゃなくて?」


「しました」


「綾部と?」


「いえ」



 じゃあなんであいつがいるんだよ、という視線を受け止めれば、わたしが聞きたいです、としか、絢佳にも言えない。
 課長への報告を済ませたのを確認して、後でまたくるから、と綾部は気にした様子もなく自分の部署に行ってしまったから。この職場、何気に事実を無視して噂が一人歩きするから、ちょっとこの先怖いんだけど、と、絢佳は思っているのだけれど。
 綾部の方は、それはそれでちょうどいいとしか思っていない。面倒なこなもかけられなくなるだろうし。絢佳に変に構おうとする男も減ることだろう。


 朝礼でも、渋々。

「私事ではありますが」



 と、定型句の報告を済ませ、聞きたがる女性の同僚と聞き耳を立てる男性陣をかわし続けている間に、予告どおりお迎えがくる。
 相手を伝えていなかったのに、なぜか、やっぱり綾部さんかっ、という声が聞こえて、絢佳は首を傾げるけれど。いや、新しい名前、伝えましたよね?伝えたよな…忘れたかな。
 と、首を捻りながら、綾部に人事課に連行されて手続きをする。別に名前が変わっただけだし扶養が増えるわけじゃなしと思っていれば、名前変わっただけでも保険証とかいろいろやることあるし、そもそも住所変わっただろうと綾部に突っ込まれるのを眺めていれば、人事課でもなぜか綾部と結婚したと誤解され。

「なんかいちいち否定するの、めんど」

 漏れた呟きに、綾部が実に楽しそうに、笑った。










 一日、仕事をこなしつつ慣れない噂の渦中に放り込まれ、ようやく若干の残業で切り上げて職場を出て。
 追いついてきた綾部に帰る?と問いかけられて見上げ、この人、確信犯だ、とようやく察した。
「なんでです?」
「虫除け」
「既婚者にそれ、必要ですか?」
 そう言われても、見張ってろって、おっかないんだよなぁと綾部はぼやく。ただその結果、綾部と絢佳がまとまったと噂になっているなんて、知られちゃいけない。


 まあいいや、と疲れた顔で絢佳はため息をつき、綾部を見上げた。


「今朝、天羽さん、仕事で遅くなるって言ってたので、夕飯は柏木さんのところで済ませて帰るって言ってあるんです。なので、寄り道です」
「…じゃあ、オレはまっすぐ帰るか」
 浅葱が待ってるしなぁ、と言われれば、そう言えばと思いだし、つくづく、面倒見のいい人だなぁ、とぼんやりとした感想を抱く。決して面倒見がいいわけではない。面白いと思えば手を貸すだけで。その結果、手を貸してもらうことの多い絢佳にとっては、面倒見の良い先輩になっていただけのこと。つまり、目を離した隙に何か面白いことをしでかしそうで目の離せない面白い後輩である絢佳の方に、意味があるだけだったのだけど。








 あっさりと綾部と別れ、慣れた柏木のいる店の、柏木の立つカウンターの隅に腰掛ければ、あったかいお手拭きをすぐに渡されて、柏木がやんわりと微笑む。
「週末は、大丈夫でした?」
「ああ…」
 そう、あれ、ほんと数日前の週末の話じゃん、と改めて絢佳はため息をつく。
 適当なカクテルと、簡単につまめるものだけを頼んで絢佳は複雑な顔で柏木を見上げた。店に入って少しして、天羽からスマホにメッセージが入っていた。仕事が終わったらまた連絡するから、その時にこの間の店にまだいるようなら迎えに行く、と。そんな風に連絡されたら、なんとなく待っちゃうし、食べにくいじゃないか、と思いつつ、今日何度目かの、あの定型句を口にしようとした時、隣の椅子が引かれる。



 え。と。
 連絡きてないし、早くない?と振り返った絢佳は、ぽかんとした。



「三藤さん?」



 珍しく、女の子とか、友達とか、誰とも一緒じゃない三藤が、隣に腰掛けようとしていた。







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