溺婚

明日葉

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週末でどこまで歩み寄れるか 3

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「坊主」


 低い声に絢佳が驚いて肩を揺らすと、天羽が宥めるように二の腕を撫でながら不機嫌に気難しそうなおじさんを睨む。


「あんた怖いんだから、自覚して接客しろよ」
「俺が怒っているのはお前だ、クソ坊主。どう見ても合意に至っていないだろう、お前ら。何先走ってんだ」
「合意ならしている。今、婚姻届も出してきた」
 耳から入ってくるだめ押しの情報に絢佳の顔がげんなりとするのをしっかりと確認して。




 雷が落ちた。



「お前みたいなのに、くれてやる指輪はない!!」




 さすがの天羽も驚いてそれまで一瞬も逃さなかった絢佳から僅かに手が離れた。それを見逃さなかったジュエリー店のおじさんは、絢佳の腕を引いて天羽から引き離し、店の奥に連れて行ってしまった。






「おっさん、オレの嫁、早く返せ」
「何を焦っとるんだ。阿呆が」


 奥に隠したまま出てきた店主は仁王立ちの構えだ。
 長い付き合いの天羽がここまであからさまな執着心を見せるのを珍しいとは思うが、相手の気持ちを無視するのはいただけない。しかもその証となるものをここで与えるのはあり得ない。この後に及んで何を急いでいるのかと言いたいが、そもそもまずは、これまでそんな気のかけらもなかった男が、何をどうして相手の意思をまるっと無視したような婚姻を結ぶに至ったのか、なわけだが。


「そんなこと、わからん」
「は?」
「理屈がわかれば、こんなことにはなってない」


 憮然と言い返されれば、呆れるしかないわけで。
「最初を間違えると、後で苦労するぞ」
「縛りつけておけば、逃しはしないだろう」
 呆気に取られるような理由に唖然とした顔をするのを天羽は見つめ、それでも絢佳が連れて行かれたままだから落ち着かない思いで苛々と続ける。
「とにかく、新田さん。早くオレの嫁、返せ」
「それ以外言葉を知らんのかっ」
 当然反省するはずもなく。する必要があるとも全く伝わらないままの男に頭を抱える思いで、店主、新田は頑固な顔を緩めない。

 が、そこに奥の部屋がそっと開く音がする。
 反射的にそちらに目を向けた天羽の顔を見て、新田は、諦めるしかないのだな、と本能で悟った。彼女の方は気持ちが全くついていけていないが。傍若無人なこの男が、逃さないと全身で訴えるほどに惚れ込んでしまったようなのだから。そして、この男が決して逃してはくれない男だということを、新田は知っている。


「あの…」
「絢佳、早くこっちに来い」
 命じる口調は相手が逆らうなどつゆほども思わない口調で。だが、絢佳は気にも留めない。絢佳の目は、自分を奥に一度逃げさせてくれた新田に向けられたままだ。
 昨日からずっと、物理的にもほぼ離れることなく、考える時間など与えてもらえることもなく流されてきて、ぽかんと頭が回らない状態であってもようやく状況把握をする余裕を与えてもらえたのだ。天羽とどういう関係の人なのかは分からないが、何にせよ、非常にありがたかった。
 が、漏れ聞こえてくる2人の会話は見事なまでの平行線。申し訳なくなって顔も出そうというものだ。
「ありがとうございました。少し、頭整理できました」
「かまわん。そのまま裏から逃げてもいいぞ」
「逃げようにも届を出してしまったので、離婚届にでもサインをもらわないと逃げる意味、ないです」
「絢佳!」
 咎めるような天羽の声に一瞥を向けながら、絢佳はふい、と顔を逸らす。やや尖っている唇が天羽には腹立たしい。なんでそんな離れた場所にいるんだ。
「売り言葉に買い言葉でわたしにも非はあるので。とりあえずこうなってしまった状況をある程度受容するところから始めます。でないと精神衛生上よろしくなさそうなので」
「わたしにも非があるって、どっちにも非はないだろうが」
「天羽さん、基本的にそこ、認識が違うのでちょっと黙っててください。どれだけ自分の思うとおりに今まで生きてきたんですか」
 大体これで、こんなに偉そうで俺様で傍若無人な男が、年下。年下のわがままとか、可愛い台詞でごまかされてたまるものか。と、婚姻届を出したときに年齢が分かって驚いた絢佳に何かの拍子に口にしたこの男の意味不明な言葉を思い返す。この男にだけは、可愛いは当てはまらない。そもそもどこに可愛げがある。
「思う通りになるようにやるべきことはやっている」
「…とにかく、一旦黙ってくれます?」




 目の前の2人のやりとりに、新田は次第に目を細めた。確かに天羽にしてやられたようではあるが、このお嬢さんも、負けてはいない。これだけ威圧してくる天羽に平気で言い返しているのだ。

「絢佳さん」

 天羽が、呼ぶのを聞いて名前を知った新田は、自然にその名前を呼ぶ。向けられる眼差しの柔らかさに、彼女なら、という思いが湧く。
 この非常識な男を、少しはまともにしてくれるのではないか、と。



「あなたがこいつと添うのを試しても良いというのなら、リングを作らせてもらおう。デザインは希望に添わせてもらう」



「え?」


 我慢しきれなくなった天羽がいつの間にか店の奥に続く扉の方に近づいてきていて絢佳を強引に引っ張り出したそのタイミングでの言葉に絢佳が面食らう。
 同じくらい、天羽も驚いた。この気難しい男が、自分から作ると言い出すとは思わなかったのだ。


「あの、希望と言っても。リングなんて今までつけたこともないのでサイズも知らないですし。慣れていないのでほんと、シンプルなのじゃないとつけられないです」

「そういう理由で。承知いたしました」

 接客の顔になった新田をぽかんと眺める絢佳の耳許で、天羽が笑いを含んだ声で囁く。

「がんこ親父まで誑し込んだか。ジュエリーデザイナーで職人の新田だ。腕は一流だぞ」
「…呼び捨て」
「つくづく、お前の引っかかるところが意味がわからん」


 ファーストリングを作らせてもらえるとは、と新田が絢佳の指を採寸しながら言っていると、不意に不機嫌な空気が漂ったので新田は迷惑そうに顔を向ける。
 自分で注文しにきておいて不機嫌になられても迷惑な話だ。それをプレゼントするのはお前だろうが、と言いたいが、気づかない様子の絢佳が近いから睨むに留める。
 だが流石に面倒で、帰りがけの天羽にため息混じりに声をかけた。
「そんな顔をするなら、お前が久しぶりに作ったらどうだ」










 記念日だとかなんだとか、女はうるさいからとレストランを予約しようとしたら、それに気づいた絢佳が制止をかける。
「何しようとしてます?」
「夕飯、食って帰るだろ?」
「…どこか予約しようとしてますか?」
 警戒する口調に天羽は首を傾げる。
「食べて帰るのは良いですが、もう、今日はというか昨日から疲れました。気を張るお店は嫌です」
 きっぱりと告げられる。喜ぶだろうと思ったのだが、迷惑そうな口調に天羽が戸惑う顔になれば、珍しく気弱な色を読み取って、絢佳がスマホを操作して画面を出した。
「ラーメン、食べたいです」
「…分かった」
 なんとなく、この王様みたいな人が自分が喜びそうなことをやってくれようとしていることは、絢佳も流石に気付いている。やり方が強引なだけで。ただ、場合によってはそれも嬉しいけれど、違うときは違うと伝えないと、これは大変そうだということも、察した。
 連れて行ってもらったラーメン屋で、猫舌なので苦労しながらも美味しくラーメンを啜り、こっそりと絢佳は小さなテーブル席で向かい合い、呆れるほどの姿勢の良さでラーメンを食べる美丈夫を眺める。
 違和感がすごいけど、それでも絵になるって、意味わからないわ。


 その向かい側では、どうやら猫舌なのだな、と察しながらも、おいしそうに頬張る絢佳を天羽は愛でている。はふはふと熱さを逃がそうとする口元を見ながら、こちらにして良かったなとふと思う。こんな風な自然に寛いだ姿は、自分が行こうとしていた店では見られなかっただろう。




 会計を済ませ、まだこの車の助手席に乗るのに躊躇いを見せる絢佳を押し込んで、マンションに帰れば、すでに今日手配した絢佳の荷物は届いていた。
 途中綾部に連絡をして受け取って部屋の中に入れるまでを頼んでおいて良かったと、天羽は思う。リモートでセキュリティを解除すれば、事の成り行きにそもそも呆れながらも綾部はとりあえず引き受けてくれた。そうでないと可愛い後輩の荷物が宙に浮いてしまうのだから仕方なかったのだろうとは思うが。



 あまりの手早さにこちらも呆れながら、絢佳は荷物の大きさから当たりをつけて、一つを真っ先に開けていく。




 そこから出てきたものに、天羽は言葉を失った。





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