38 / 79
肆
愛(いと)し恋し、重ぬる想いの牡丹(ふかみ草) 【六】
しおりを挟む「……っ……は、ぁ……っ」
声の限りに怒鳴り散らし、呼吸が荒い。
しまった。やってしまった。上役を怒鳴りつけてしまった。
たかだか六位の官位の私が、従四位下《じゅしいのげ》の頭《とうの》中将様を。
堪えるべきだと理性ではわかっていたのに、感情がそれを許さなかった。
しかし、これはいけない。幸い、周囲には誰も居ないとはいえ、早速お詫びをせねば……。
「――ほう、同じ意見か」
え?
「まさか、ここで光成と意見が合うとはな。ふふっ」
非礼な態度と物言いをお詫びしようとした、その時。目を細められた中将様が、くすりと微笑なされた。私の無礼を怒ってはおられないのだろうか。
「『建に乗り移ったほうは、体毛一本すら残させぬ』か。よく言った。光成」
しかも、お叱りを受けるどころか、褒められている。
そうして、わけがわからないまま立ちすくむ私の前で、とんっ、と扇の柄を手のひらで受けた相手が、にぃっと口角を上げる。
「私の可愛い部下を妖猫ごときに好《い》いようにされて、黙っていられるわけがないだろう? 建前は内裏《だいり》の安寧のためだが、これは蔵人頭《くろうどのとう》としての私怨でもある」
そこに浮かんだのは、真っ黒な笑み。
「中将様……」
それで、ようやく理解した。先ほど、中将様がおっしゃられたことの真意を。
『二匹ともを必ず仕留める』というのは、私と同じ怒りからのお言葉だったのだ。
「必ず取り戻すぞ。建を」
「はいっ!」
踵《きびす》を返し、再び歩み始められた御方に力強く同調し、付き従う。
はいっ、必ず!
相手が二匹に増えていようが、やることは何も変わらないのだ。
けれど中将様。ひとつだけ、大事なことを申し上げておきます。
建殿を最も心配し、取り戻したいと切望しているのは、この光成です。そこだけは、何があっても譲れません!
*
「あら、お兄様。桔梗の襲《かさね》をお召しなのですか? お珍しいですわね」
「撫子の君。まだ起きていたのか。もう遅いのだから、早く休みなさい」
弓を引いてから寝ようと狩衣に着替えたところに、もう休んでいるはずの撫子が部屋にやってきた。
後ろに控えている女房の礼都女《あやつめ》が枇杷《びわ》の入った盆を捧げ持っているところを見ると、夜食のつもりだろうか。
「二藍《ふたあい》と濃青《こきあお》の襲が、美しいお兄様に良くお似合いですこと。あっ、良いことを思いつきました。珠子《たまこ》も今から桔梗の襲にいたしますわっ」
「撫子の君、何度言えばわかるのだ。真名《まな》ではなく、『撫子』と名乗りなさ……」
「それでですね! お兄様と珠子がふたりで並んでいる姿を安芸《あき》に絵に残してもらうのです。ああぁ、なんて素敵な思いつきでしょう。礼都女! すぐに安芸を呼んでちょうだい! それから絵筆の用意と、私に桔梗の襲を! 急いで!」
「いや、だから、もう遅いのだから、絵など……おーい、撫子?」
駄目だ。全然、聞こえていない。全く、この妹には困ったものだ。
いつものことだが、撫子は自分の考えに夢中になると誰の言葉も耳に入らない。
父上は、近々、撫子を主上《おかみ》のもとに入内《じゅだい》させたいと目論んでいるようだが、このような自由奔放な気性で、果たして大丈夫なのだろうか。
「――失礼いたします。光成様。陰陽寮からのご使者の方がお見えでございますが、いかがいたしましょう。賀茂真守様と名乗られておいでです」
「真守殿が? わかった。武弥。南の廂《ひさし》が風通しが良いから、そこにお通ししてくれ。それから、私はしばらくご使者と話すゆえ、撫子には全てを中止して早く休みなさいと伝えておくように」
よし、これで良い。好都合とは、このこと。来訪者を理由に、夜更けの描画《びょうが》大会からの逃亡が可能になった。ご使者さまさまだ。
筆頭女房の安芸は、厳島神社に連なる佐伯《さえき》氏の者で、絵師としての嗜みも造詣も深く、大納言家自慢の女房なのだが。如何せん、撫子と私への忠誠と溺愛が凄まじい。
そんな安芸に絵筆を持たせたりしたら、もしかせずとも夜更けの描画大会どころか、夜明けまで続く描画我慢大会になってしまう可能性大。
妖猫絡みで心身ともに余裕のない今は、それだけは勘弁してほしい。切に願う!
そういえば昼間、頭《とうの》中将様と陰陽寮へ出向いた時は、真守殿とは会えなかった。
陰陽博士《おんみょうはかせ》である賀茂護生《かものもりお》様のご子息である真守殿が使者になられているということは、昼間に打ち合わせた案件が変更になったのだろうか。
「お待たせしました。まもり……」
「光成様、申し訳ありませんでしたっ!」
え?
顔を合わせるなり、頭を下げての謝罪をされた。
どうしたことだろう。謝罪なら、私のほうこそしなければならないのに。
なぜなら、この南の庇《ひさし》に来るのが、少し遅くなってしまった。
こっそりと逃げようとしたところを撫子に見つかり、ここにもついてくる勢いだったのを宥め、次に必ずふたりの絵姿を安芸に描かせることを約束していたから。
「俺、反省したんです。源《げんの》蔵人様への暴言のこと」
「あっ」
そうか。あのことか!
『源《げん》の蔵人様には、ほとほと困らされました』
『あの方さえ出しゃばらなければ、妖を捕らえることが出来ていたのに、本当に残念です』
「光成様のおっしゃられた通りでした。俺は、ひどく驕ってました」
“あの時”のことか。
「妖《あやかし》を自分ひとりで退治することで、父や叔父……そ、それから光成様に、一人前だと認めてもらおうとしてました。そんな焦りと驕りの結果、源の蔵人様を目前で攫われた。そのことを、あの方のせいにしました。俺に、蔵人様を助ける能力がなかっただけなのに!」
反省したから、わざわざ謝罪にきたのか。なんと律儀な。
「光成様からの“きついお叱り”のおかげで、やっとそのことに気づけました。そして、心から反省しました。光成様。俺、源の蔵人様にきちんと謝罪するためにも、あの方の奪還を本気で頑張ります!」
「真守殿……」
ありがとうございます。ともに建殿の奪還を頑張りましょう。
しかし、『きついお叱り』の部分を強調するところも律儀な性格のゆえ、ですか?
「ところで、光成様。光成様も猫を飼っておられるのですね。ここに案内していただく時、俺の足元に、二匹寄ってきました」
「あぁ、珊瑚《さんご》と瑠璃《るり》ですね。妹の飼い猫なのですが、人懐っこいのですよ」
武弥が持ってきた枇杷をつまみながら、ふと思い出したような真守殿の言葉に、微笑んで頷く。
飼い主に似るというのは本当なのか、撫子が可愛がっている二匹の子猫は、どちらも好奇心旺盛で活動的だ。
三毛猫の珊瑚、黒猫の瑠璃。二匹とも、邸に初めて訪れた相手にも、警戒することなく近寄っていく。
手を差し出して引っかかれたという客人は今までひとりも居ない。
……ん? いや、居た。ひとりだけ。
『なぁ、光成ぃ。なぜ、この子猫たちは私を見ると毛を逆立てて威嚇したり、爪を立ててくるのかなぁ。可愛らしいから抱っこしてみたいだけなのに。おー、痛い。あちこち引っかかれてしまった。いててててっ』
なぜか、建殿にだけは二匹とも懐かない。理由は皆目わからないのだけれど……。
「それに、源《げんの》蔵人様はとても高貴なお血筋なのだということも、父から聞きました。そのような方を、ちょうど良いから光成様の盾にしようとか……あ、いえいえ、足手まといのぼんくらだと上から目線で見下し……いえいえ、ただの迂闊者扱いして、本当に申し訳ありませんでした。俺、そのことも蔵人様にきちんとお詫びしたいんです」
「あぁ、護生《もりお》様なら、ご存知でしょうね。そうですよ。建殿のお母君は、先々代の帝の内親王で、斎宮《さいくう》にもなられた御方。つまり建殿は、主上《おかみ》や清賀院《せいかいん》様、それに帥《そち》の宮様とは叔父と甥の関係なのです」
「主上や院と……」
「ええ。ですが、建殿ご本人がそれを自慢げに口にすることはないので、お気楽に接するのが良いと思いますよ。何せ、『いつも迷惑をかけてくれる迂闊者』ですからね。ふふっ」
私の言葉に破顔した真守殿とふたり、くすくすと笑い合う。夜も遅いというのに、枇杷をつまむ手も進む。
もう建殿を奪還したつもりで話しているのがおかしいが、構わない。
それはもう、私にとって決定事項だからだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる