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参
散ずる桔梗に、宿る声 【十七】
しおりを挟む「建、殿っ」
けれど、風に翻る袖から立ちのぼる薫香《くんこう》は、建殿がいつも衣《きぬ》に焚《た》きしめているものと、全く同じ。
沈香《じんこう》と丁字香《ちょうじこう》、それに甲香《こうこう》。私が真似て焚きしめている配分そのままの薫りなのだ。
だから、名を呼んでしまう。首筋を撫で上げていく冷たい指に手を重ね、指を絡め、その身に身体を寄せ――。
「建殿。やっと、あなたを捕まえ……」
「光成様、離れてください! そいつは妖《あやかし》です!」
――どくんっ!
「あ……」
もう少しで、相手の身体にぴたりと寄り添う寸前、真守殿の声が響いた。
鋭い風撃の一閃が斜め上に向けて薙ぎ払われ、目の前にいた男が敏捷に跳ねる。
「おっと、危ない」
私たちから距離をとり、再び冷笑を向けてきた。
「おやおや。この男に会いたかろうと思い、わざわざ乗り移って出向いてやったというのに、つれないことだ」
「……っ」
深紅の虹彩を持つ男が、建殿の声で紡いだ言葉。その内容に、全身が固まった。
乗り移った? 建殿、に?
「……っ、お前っ! 建殿に何をした!」
しかし、一瞬ののち、弾けるように身体が動く。思考の全てが、怒りに支配される。
平坦な口調の持ち主が、最後にもうひと言、つけ加えたからだ。
「しかし、今のこの状態は、こやつ本人が望んだのだ。我《われ》に自らの身体を明け渡すことを、な」と。
そんなことは有り得ない。あの建殿が、そのようなことを望むはずがない。
「妖《あやかし》! 建殿を返せっ!」
太刀を抜き、走る。
「光成様!」
再び援護の突風を飛ばしてくれた真守殿からの連携を得て、妖の眼前まで、ひた走る。
「……っ……建、殿っ」
けれど、斬りかかることは出来なかった。目の前のこれは、建殿の身体なのだ。
「美と聡慧《そうけい》を兼ね備えた、稀なる蔵人。藤原光成よ。よく聞け」
唇を噛みしめた私に、暗澹《あんたん》さと妖気が入り混じった声音が、闇を縫って届いてくる。
「朔《さく》の夜だ」
――ざぁっ!
どろりと湿った夜風が、突如、舞い上がる。
同時に、深紅の閃光が火花のごとく辺り一面に広がった。
「あっ、待て!」
待ってくれ。私も、ともに!
目も眩むほどの光輝の中、むせかえる夏草の匂いとともに消えゆこうとする相手に、手を伸ばす。必死で。
「建殿っ!」
けれど、届かなかった。
「……っ、たけ、るっ……」
眼前に、人影はもうない。
愛しい人は、消えてしまった。その身にまとっていた薫香ごと。
たった、ひと言。『朔の夜』と。手がかりかもしれない、それだけを残して。
あれほどに眩かった灼光《しゃっこう》はなりを潜め、場は、もとの闇を取り戻している。
無言で、月影を仰ぎ見た。
ひらり。
ひらり。
紫紺《しこん》色の空から、同じ色の花弁が舞い降りる。
妖《あやかし》が疾風とともに巻き上げていった、薄い花弁。
愛しい人が身につけていた狩衣《かりぎぬ》の襲《かさね》と同じ、桔梗の花びらだ。
「……っ」
雲間に隠れゆく月を見つめ、立ち尽くす。
建殿……建殿……建殿っ。建殿っ!
ただ、その場に立ち尽くす。
散《さん》ずる桔梗に、声なき嗚咽を隠して――。
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