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弐
濡れる朝顔の、儚さと… 【一】
しおりを挟む「……ふあぁぁ……」
ん? 今のは、もしや……?
清涼殿に近い階前。そこを通り過ぎる自分の耳に、聞き覚えのある声が届いてきた。
「あー、参ったなぁ……ふあぁ……」
やはり、この人の欠伸であったか。
立ち止まり、高欄下から覗いてみれば、とても良く見知った相手の大きく欠伸をしている姿が階の上に見てとれた。
呑気で迂闊な、蔵人所の同僚、源建殿だ。
だが、なぜこのような階に文机を移動させて仕事をしているのだろう。
「この青梅の糟漬け、本当に旨いなぁ。しかし、これを口にしているせいだろうか? どうにも眠い……ああぁ、駄目だぁ、眠い……ふあぁぁ……」
それに、眠いのだろうか? 先程から、何やら呟きながら、しきりに頭が前後に揺れている。
あっ、そんなに勢いよく硯に筆をつけては紙に飛んでしまうではないかっ。
あっ、あっ。墨が! 筆から墨の塊が、紙にっ……落ちるぅっ!
「建殿っ!」
「うわあぁっ!」
――ガタン、ガタンッ!
あ、遅かった。墨が落ちる前にと、声をかけたのに。
「うわわ、硯が! 墨がぁ!」
いや、むしろ被害が拡大してしまったのか?
しかし、ぼんやりと眺めている場合ではない。助けて差し上げねば。
「建殿! 大丈夫ですか?」
……ん? 何だ、これは!
階の上に慌ててのぼったが、そこに散乱している物に声を失ってしまった。
「あっ、光成。良いところに!」
そして建殿の顔を見た自分の口からは、冷たい声色が落ちていく。
「建殿? 何をしていらっしゃるのですか? あなたは」
「光成、お前も手伝ってくれ。 墨っ、墨が! 硯をひっくり返して大事な書に墨がこぼれてしまったのだ!」
「それは、ひと目見ればわかります。厳密には、『こぼれた』ではなく『こぼした』ですけどね。
そして、私がお尋ねしているのは、このように墨をこぼすことになった原因についてなのですが?」
「うわあぁ、駄目だ。真っ黒に染まってしまった。どうすればいいんだぁ!」
駄目なのは、あなたですよ。全く。
「あぁ、もう。落ち着いてください。
まずは、こちらを御覧ください。建殿が墨をこぼした紙は、こちらの書状の写しなのではないですか?
ならば、原本が無事なのですから、また書き写せば済むことでしょう?」
「あっ、そうだった。なんだぁ、無駄に慌ててしまったよー。あははっ」
「笑い事ではありません!」
「ひっ!」
「建殿。ここに散乱している物は何ですか。あなた、酒糟に漬けた青梅を食べてましたね? 執務中に!
そして酔っ払って居眠りしかけてましたね? 執務中に! 顔色を見れば分かるのですよっ?」
「ひいぃぃ……!」
「建殿。『ひい!』ばかり口にしていては、何もわかりません。言い訳でも良いので、何かおっしゃい!」
全くもう、この人はっ。
「すす、すまん。実はその青梅は、お前宛てに届けられた物なのだ。上の女房の近江の君からの品だと、持ってきた女童が申していた」
「え? 近江の君、ですか?」
建殿の口から出た『近江』という名に、少しばかり驚いた。
宮中にて、つい最近、主上に仕える『上の女房』となった近江は、我が大納言家の親戚筋の娘で、名を篤子という。
歳は、十七。柿本典侍様のもとで、女房としての経験を積み始めたところだ。
「近江の君が、これを私に?」
疑問しか浮かんでこない。篤子は、一体どういうつもりなのだろう。
年齢も近いことから、妹の撫子の君ともども、昔からよく顔を合わせており、私たち三人は仲の良い遊び相手であった。
が、いつの頃からか、篤子は撫子とのみ仲良くしたがるようになり、私には小憎たらしい態度しか取らない娘になっていたのに。
なぜ、急にこのような物を私宛てに……?
いや、それについては後で考えよう。今は、建殿だ。
「建殿? では、この青梅が私宛てなのだとして、なぜあなたが召し上がられていたのです? 執務中ですよ」
「うっ……そ、それは……ひどく美味しそうな匂いがしていたし、小腹もすいていたし。それから……」
「それから?」
「それから、『藤原光成様に必ず召し上がっていただきたいのです』と女童に何度も念押しされたし。
贈ってきた相手が可憐な容姿で評判の近江の君だったのが面白くなくて、もやもやしたから、だし。
だから、少しつまんでやろうかなーっと……」
「建殿。『それから』の後が、ひと言も聞き取れませんでしたよ。もっとはっきりと、説明してください」
「無理! お前にだけは、話せん!」
「なんですってっ?」
「とっ、とにかく、だ!
私は、あちらで仕事の続きをしてくる。光成、またな!」
「あっ、建殿!」
「追いかけてくるなよっ。絶対!」
は? 何なのです? いったい……。
がさがさと音を立てて辺りに散らばった紙を纏め、まるで逃げるように奥の室へと走り去っていく後ろ姿に、疑問の声と溜め息しか出てこない。
「ああぁ、あのように紙を鷲掴みにしてしまっては、文書としてはもう使えないというのに」
『仕事の続きをしてくる』と言っていたが、あれでは『最初からやり直し』になることは明白だ。
「全く、あの人ときたら、いつまで経っても迂闊で考えなしなのだから……」
源建殿。私より先に六位蔵人に任じられた、二つ年上のお方。
私が、ずっと想い続けている人。
その人のいつも通りのうっかりぶりを目の当たりにして、溜め息混じりの声が漏れていく。
けれど、ほんの少し、『いつも通り』ではなかった部分が気になる。
去り際に、私に向けてきた視線だ。
何かを言いたげな、強い意志を告げてくるような雄弁な視線、だった。
けれど、それを慌てて隠そうとするかのように大仰に首を振って去っていってしまった。
真っ赤に染まった顔のまま。
あんなに顔を赤くするほどに、青梅の糟漬けには酒が含まれていたのか?
「これは、早速追いかけてお説教をして差し上げなくてはいけませんね。ふふっ」
仮にも職を同じくする同僚に向かって『追いかけてくるな』とは、何事だろう。
まずは、そこからですね。ふふふふっ。
糟漬けが入っていたと思しき器を床から拾い上げ、蔵人所の殿舎へと向かった私の口元には、知らず、愉悦の笑みが浮かんでいた。
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