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鹿の鳴く丘で 【二】

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「まぁ、とても喉が乾いていたのですねぇ。こんなに美味しそうに飲んで」

「そのようだな。今朝は、いつもよりも遠出をしたいと思いついてしまったから、こいつには少々きつかったのかもしれない」

 案内した泉のほとりで、美味しそうに水を飲む馬をともに眺めながら、男性と言葉を交わす。

 初めて会う方なのに、とても話しやすいわ。

 ふと、乳姉妹の真古奈(まこな)が常々言っている、粗野な男性たちの話を思い出した。その男性たちは、言葉遣いも振る舞いも、とても荒々しいのだという。

「この辺りは、静かだな。それに、吹く風がなんとも心地良い」

 けれど、そよ風に目を細めて木々を見上げるこの御方には、そのような粗暴さは感じられない。

 木漏れ日を受けながら話す声は穏やかで、笑みは涼やかだ。

 そして、それは決してなよやかなものではなく。浴びる陽光の中で、尚、輝くような存在感に、失礼ながら、つい見惚れてしまうほど。

 言葉の端々に、人に命令し慣れている者独特のものを感じ取れるけれど、不快に思うほどではないもの。

 身に着けておられる衣服の布地も、ひと目で手の込んだ織りの高価な品だとわかる。

 この辺りには初めて来たとおっしゃっていらしたし、私には縁のない、中央のお血筋の御方なのでしょう。

 きっと、もう二度とお会いする事はない御方。

 水を飲み終えた馬に慈しみの目を向け、首筋を撫でているお姿を見ながら、『もう、会えない』と心中で呟く。

「……あ」

 その途端、きゅうっと胸が締めつけられた。

「さて、そろそろ戻らねば」

「……っ」

 胸の痛みに顔を強ばらせてしまったその時、男性がこちらを振り返った。

 ……もう、お別れなのですね。

 きゅっと、再びせつない音を奏でた胸の痛みに気づかないふりで、笑顔を浮かべる。

「お帰りの道のり、お気をつけられますよう」

 一瞬だけ目を合わせ、すぐに瞼を伏せる。左右の袖に交差させた手を入れて胸元に掲げ、貴人への礼節をもって深く頭を下げた。

 このまま、立ち去ってください。

 私が、この胸の痛みの意味に名前をつけてしまう前に。どうか、このまま――。

「名を――――あなたの名を、教えてもらえないだろうか」

 けれど、相手は立ち去るどころか、名前を尋ねてくる。

「私は、名をお伝えする程の者ではございません」

 どうか、このままお立ち去りを。

 続く言葉を飲み込み、頭(こうべ)を垂れたまま答えることを拒んだ。

「わかった」

 すぐに発せられた諾了の返答に、ほっと気を緩めた瞬間。

「……あっ」

 両の袖に入れていた手が、手首ごと掴まれた。

「女人(にょにん)に、先に尋ねてしまった私が悪かった」

 持ち上げられた袖から覗いた指先に、相手の指が絡む。

「私のほうから先に名乗るべきだった。気が利かず、済まない。私の名は――――だ」


 ――ぴくんっ

「……あ……」

 聞き間違い、でしょうか。今、聞かされた御名(みな)は、まさか……。

「さて、私は名乗ったぞ」

「……っ、あの……」

 どうしましょう。 絡めた指先の向こうから向けられる涼やかな目線に、どう答えれば良いのか。頭の中が整理できずに、唇だけが震えるばかり。

 まさか、私でも存じ上げている高貴な御方の御名を聞かされるとは、思ってもみなかったのです。

 たった今、聞かされた御名。それは、この国の大君(おおきみ)様に一番近いとされる尊きお血筋――――そこに名を連ねておられる皇子(みこ)の名、だった。

「あなたの名も、どうか聞かせてほしい」

「あ、あの。どうか、それだけは……名を名乗ることだけは、御容赦くださいませ」

 震える唇から、かろうじて紡いだ言葉も震えていた。

 私の名を、高貴なあなた様がご存知であるはずはないけれど。両親を亡くし、家人(けにん)に助けられることでようやく日々を暮らしている傍流の血筋の女だとは、どうしても知られたくないのです。

「なぜ? 何故、そのような表情をなさる?」

 つと、皇子様の手が、頬に触れた。

「泣くほどに……そのように、つらそうな表情をなさるほどに、私に名を知られたくないということか?」

 ……え? あ……私、いつの間に涙を流していたのでしょう。

 目元に触れる親指の優しい感触で、自分が泣いていたことに初めて気づいた。

「明日、また来る。先程の丘で待っていてくれ。あの楡(にれ)の木の前で」

「あ……」

 目尻に唇が押し当てられ、ちゅっと軽い感触を残して涙が吸い取られた。

「その時、気が変わったら私に名を教えてほしい。嫌なら、名乗らずとも構わぬ。が、笑顔だけは見せてくれ」

 しっとりと落ち着いた声色。精悍な眼差し。慈しみに溢れた笑み。

 無意識に身を預けたくなるような、居心地の良さ。

 向けられる全て、感じる全てに、どうしようもなく心が持っていかれる。

「あなたの笑顔を見るためだけに、明日また来る」

 別れ際に告げられたこの言葉が、揺れていた心に決定的なものを埋め込んだ。

 私も、お会いしたい。もう一度。

 皇子様。あなたに、会いたい!


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