2 / 8
壱
鹿の鳴く丘で 【一】
しおりを挟む――きゅいんっ、きゅうぃーん
独特な甲高い鳴き声を聞かせてくれる鹿の群れが、今日も丘に集まってくる。
風に乗って薫るのは、辺り一面に咲き誇る萩の花が放つ芳香。
紅紫に白。鹿の全身を隠すほどに鬱蒼と咲き揃った花々を、その頭を振ってかき分けて進み、軽快に跳ねる鹿たちのなんと愛らしいことだろう。
ともに駆けたり、角を突き合わせたり。互いの鳴き声を共鳴させ合ったり。どれだけ見ていても飽きない。
「うふふっ。本当に可愛らしい子たちですねぇ」
微笑ましいその様子を、丘の頂上に根を張る大きな楡(にれ)の木にもたれ、のんびりと眺めるのが、私の毎朝の日課。
「さて、今日はどうしましょう。そろそろ冬支度の染め物もしなくてはいけませんが……では、柘榴(ざくろ)でも採りに行きましょうか」
「――そこの御方」
――びくんっ
誰も居ない、他人が訪れるはずのない丘の上で、すっかり気を緩めて放っていた独り言の最中。突然掛けられた声に、ぴんっと背筋が伸びる。
「どなた、ですか?」
張りのある良く通る声が飛んできた元を驚きとともに辿れば、鹿の群れとは逆の坂から萩をかき分け、進みいでる人物が見えた。
「……あっ……」
知らず、口元に手が伸びる。
ひんやりと残る、白き朝靄の中。朧げに滲む曙光を浴びた姿の凛々しさに、思わず息をのんだ。
なんて、麗しいお方なの――?
「済まないが、この近くに泉はないだろうか。こいつに水を飲ませてやりたいのだが」
清澄な朝の空気の中、向けられた涼やかな笑み。『こいつ』と、引き連れた馬を指しながら近づいてくる姿に、慌てて立ち上がる。
「あ、はい。それなら、あちらの小径(こみち)を抜けたところに……きゃっ!」
「危ないっ!」
慌てたせいで、地にはみ出していた木の根に気づかず、つまずいてしまった。
「大丈夫か?」
傾いだ身を支え、転ぶ寸前で助けてくれた人の声に、思わず顔を上げれば。
「はい……あ、ありが……」
思っていたよりも近く、すぐ目の前に相手の顔が迫っていたために、驚きのあまり御礼の声が小さくしぼんでいく。
驚いたのは、相手との近さだけではない。今まで、こんなに美しい男性を見たことがなかったから。
「どうされた? どこか怪我でも?」
「あ、いえ……申し訳、ありません」
気がつけば、相手の腕にすがったまま、至近距離で見つめ合っていた。
意志の強さが見てとれる、きりりとした眉に、切れ長の瞳。
力強い光を放つその瞳に捕らわれ、刹那、呼吸が止まる。
目が、離せない。
――とくんっ
胸の奥で、鼓動が甘く軋んだ。
けれど、見知らぬ御方にいつまでもすがりついているのは、大変な非礼。
「ありがとう、ございました」
目線を外せないまま小声で御礼を述べ、すがっていた指の力をそっと抜く。これで、これ以上失礼にならずに離れられると、ほっとした。
「え?」
それなのに、顔の近さは変わらない。
「あの、お手を……」
互いの距離が近いままなのは、相手が自分の肩と背中に添えた手をそのままにしているからだと、ようやく気づいた。
「あのっ……」
再び声をかけるけれど、目の前の人物は、まるで何も聞こえていないかのように微動だにしない。
それどころか、肩を掴まれた指に力が込められ、さらに相手の顔が眼前にまで迫ってきた。
じっと覗き込まれ、視線が絡まり合う。
「あ、あの……あのっ」
その瞳に宿る強い光に、鼓動が速まる。
身体を引き、こちらから離れなければいけないとわかっているのに、告げるべき言葉も上手く出てこない。
ど、どうしましょう。私、どうしましょう。
どうしたことか、頬まで熱くなってきているのです。いったい、どうしたら……。
――ひひぃぃーんっ!
「……っ! きゃあっ!」
突然、真横で大きな嘶(いなな)きを上げた馬に驚き、困惑は一気に消え去る。
「あぁ、済まない」
びくんっと背筋を伸ばし、叫んだ私に謝罪した人の指は、すぐに離れていった。
「こいつめ。喉が乾いて我慢できなくなったようだ。では、泉への案内を頼めるだろうか」
先程までの強い光から一転、柔らかく包み込むような笑みが向けられる。
「あ、はい。あちらでございます」
肩から指は離れたけれど、背中に回された手はそのままに、ともに歩き出すように促された。
……この御方の手、とても温かいわ。
少し強引な素振りにも関わらず、背に感じる温もりには、嫌悪感など微塵も湧いてこない。
手だけではない。この御方、纏う空気がとても温かいのだもの。
そっと見上げた端整な横顔に、知らず、口元を綻ばせている自分が居た。
10
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
私のことを愛していなかった貴方へ
矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。
でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。
でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。
だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。
夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。
*設定はゆるいです。
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる