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覚悟の重さ 【9】
しおりを挟む鉛色の空を覆っていた雲が割れ、まるで閉じていた瞼が開くように、そこから青空が顔を見せてきた。
その隙間から筋のように真っ直ぐに降り注ぐ陽射しが、新たに景色に加わった貯水池の水面を白く光らせている。それを神殿長室の窓から眩しく眺める。
この日のことは、多頭竜が起こした奇跡として、きっと長く語り継がれることだろう。
「ワインをどうぞ。香草で漬けたものです。月桂樹の効用でお身体も温まりますし、疲労回復にもなります」
「あぁ、ありがとう」
私と話がしたいというザライアの意を受け、神殿長の居室へと、ともにやってきた。
ロキはあれからすぐに意識を取り戻したが、大事をとって神殿の薬師にいったん預けることとした。
「シュギル様よりの御書簡、拝見いたしました」
勧められた椅子に腰をおろした私に、淡々とした嗄れ声が届く。
それに、同じ口調で言葉を返す。たった、ひと言。
「秘薬を」
ザライアには、これだけで通じる。
「その前に、少々、確認作業をさせていただきたく」
が、すぐに秘薬の受け取りの話になることはなく、逆に思いがけない返答が返ってきた。
「何だ。秘薬を求める理由か?」
「いいえ、シュギル様にではございません。かの乙女に、先に問う事柄がございます」
「彼女に、何を話すというのだ。その必要は……」
「もちろん、必要はございますでしょう? 何しろ、一国の王子が約束された未来と王位、それに五体満足の身体を捨てるのですよ。名誉ある生贄から、神殿の下女としての未来しかない立場になった娘のためだけに」
「……っ」
ルリーシェに何を問うつもりなのかと気色ばんだ私に、冷ややかで辛辣な言葉が飛んできた。
慇懃な態度を脱ぎ捨てた、ひやりとした口調。ザライアが経てきた長き歳月が作り出した老練な面が全面に押し出された本音が、ぐさりと突き刺さってきた。
「彼女を、侮辱するのか」
が、そのようなものには怯まぬ。
瞬時に燃え上がった焔を、眼力に込めて放った。
ルリーシェの尊厳を脅かす者は、例え恩ある薬師――――ザライアと言えど、許さない
「ふふ……そのように、触れる者全てを切り捨てるかのような殺気は必要ございませんよ。わざと不遜な物言いをいたしましたが、私はただ確認したいだけです。かの乙女の“覚悟”を」
「何?」
覚悟、だと?
「私が先ほど申し上げましたことは、シュギル様が秘薬を口にされた場合、それを知った全ての国民が等しく感じる、かの乙女への非難の一端なのですよ。国の英雄の命運に関わるということは、そういうことです」
ザライアの口調が、また変わった。
「覚悟が必要なのは、シュギル様だけではありません」
淡々とした嗄れ声は、教え子を導く師のような、深みのある厳しさをも孕んでいる。
「秘薬を飲むことを決めたあなた様の“覚悟の重さ”を受け止められるほどの“強い覚悟”が、かの乙女にも必要なのです」
覚悟……ルリーシェの。
ザライアの発した言葉。それは、私には考えもつかない言葉だった。
私が秘薬を飲むことは、私自身の覚悟と責任に於いて行えば良いのだと。それで済むことだと、思っていた。
だが、違うのか? ザライアは、そうすれば国民からの非難が彼女に向かうのだと言う。私が、この国の英雄だから……。
「それにしても、ひさしぶりに拝見いたしましたね。シュギル様の凍れる炎を」
思考の海に沈んでいた私の意識に、ザライアのこもった笑い声が届いてきた。
「凍れる……? 何だ、それは」
「ご存知ないのですか? あなた様が戦場で放つ気迫にそのような名称がつけられて、各国に噂話が流れているのですよ。『凍れる炎を纏いし黒き闘竜の英雄譚』というところでしょうか」
知らなかった。
しかし、『黒き闘竜』だけでも大層な呼び名だと思っていたのに、それに更に文言が上乗せされていたとは。いったい、誰がそのような恥ずかしい呼び名をつけたのだ。
「もともとは、カルス様が尊敬する兄上に捧げるために作られた詩の一節だったとのことですが。ブランダル将軍があまりにもシュギル様に当てはまっているからと、あちらこちらで口にされていたのが、やがて風聞となったとのことです」
カルスに、ブランダル将軍。まさか、あのふたりが……このような言い方はしたくないが元凶……。
「まぁ、風聞の話はこの辺でおさめるといたしましょう。シュギル様。では、そろそろ階下へどうぞ。かの乙女のもとへ」
「……何? 私が、か?」
ザライアの意外な誘いに、思わず問いかけ直していた。ルリーシェのもとへ、私を誘うというのか? 今から?
「もう、目を覚ましても良い頃合いです。それに、シュギル様もお知りになりたいのでは? かの乙女が、何故に嵐の中に飛び出し、あのような暴挙に出たのか。その理由を」
「……っ、そうだ。その疑問は、確かにあった。それを尋ねることができるのか?」
「お望みであれば」
ザライアの即答に、すぐさま椅子から立ち上がる。神殿に来たものの、ルリーシェに会うことは叶わないだろうと思っていた。
彼女の無事を知ることができただけで充分で。この後は、カルスのために父上の命である祭祀用の王笏の確認を済ませれば、早々に王宮へと戻るつもりでいたのだ。
が、会えるのなら。そうしても良いのなら、言葉を交わしたい。もう一度。
秘薬を飲む前に、もう一度。彼女が嵐の中に飛び出した理由もだが、ザライアが口にしたことについても確認せねばならない。
ザライアも、きっとそのつもりで、私たちに話す機会を与えてくれているに違いないのだから。
「こちらの部屋にて、休ませてございます。どうぞお入りください」
階下におり、下位の神官が衛士として立っている扉の前に案内された。
ギィと重い音を立てて開いた扉の中へ、ザライアとともに足を踏み入れる。気を引き締めて。
尋ねなければ、いけない。一度も、自身の思考には乗せることすらなかった、『彼女の覚悟』について。
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