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罪と咎と、償いと 【3】

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 ――風のが、変わった。

 眼前に広がる大河、ユーフラテス。緩やかに蛇行し、流れゆくその水面みなもに吹きつける風の音が甲高いものに変わってきた。

 時折、水面を強く撫でつける風によって広い川幅全体が大きく波立ち、川辺に立つ兵士たちが捧げ持つ軍旗を大きくはためかせるようになった。

 肌に吹きつけるその温度が覚えのあるものに変わりつつあることを、少々の苛立ちとともに実感する。いや、全ては私の目算違いのせいなのだが……。

「風が、冷たくなってきましたね」

「あぁ、戻っていたのか。そうだな。まさか、これほど長引くとは。私の目算違いで、皆には苦労をかけてしまった」

 各所への伝令のために傍を離れていたロキがいつの間にか戻っており、当番兵が持ってきたスープをひと口飲んでから私に手渡してくる。毒味など必要ないと何度言っても聞かないのだ。この頑固者は。

「今回のこと、兵士の誰ひとりとしてシュギル様のせいだなどと思う者はおりませんよ。ユーフラテス下流域への侵攻に東方の遊牧民までもが加わるようになったなど、誰にも予想することはできはしなかったでしょう」

 だがな、それを予測するのが私の役目なのだよ。だから、このように悔やんでいる。

 山岳民と遊牧民が手を結び、どれだけ蹴散らしても入れ替わり立ち替わり小競り合いを繰り返してくるのを相手にしているうちに季節が移り変わろうとしている。

 王都を離れ、ユーフラテス下流に進軍してから、既にふた月めの半ばにさしかかっていた。





「――兄上、お呼びですか?」

「来たか。ここまで呼び立てて済まない」

 ロキと簡単な朝食を済ませた頃、天幕にカルスが入ってきた。その背後には、カルス付きの側近、トールの姿も見える。

 父上のめいで、今回カルスも一軍を率い、私とともに出陣していたのだが、なにしろ初陣だ。激戦地となる下流域を避け、中流寄りに軍を布陣させておいたのだ。

「いえ、兄上の御用なら、いつでも駆けつけます。ところで、物見ものみからの報告があったとか」

「そうだ。敵の動向を探らせていた物見からの報告によれば、山岳民、遊牧民ともども、この地から完全に撤退したことが確認できたそうだ」

「……っ、兄上。それは、僕たちの勝利ということですかっ?」

「あぁ。ふた月、よく頑張ったな」

「わぁ、嬉しいです! 戦場で敵を蹴散らした時も達成感がありましたけど、こうして勝利を実感できるのも、すごく嬉しいことなんですね!」

 三日前、山岳民と遊牧民をそれぞれ別におびき出すことに成功し、一斉に挟み撃ちにした。その後、散り散りに逃亡していた敵だが、山岳民は北へ、遊牧民は東へと撤退し、戻ってくる気配は皆無という報告を今朝、ようやく手にできたのだ。

「兄上。僕、兄上のおかげで本当に良い勉強になりました。兄上は、武勇だけではなく情報操作でも我が軍を勝利に導いていたなんて、今まで知らなかったです!」

「いや、お前の働きあってこそだった。よくやってくれた。ありがとう」

 よほど嬉しかったのだろう。満面の笑みで、カルスが飛びついてきた。小柄なその身を抱きとめ、柔らかな髪を梳いてやりながら、肩の荷がひとつ下りたような気がしていた。

 かなり手間取ってしまったが、これで、まずひとつめの“償い”になっただろうか……。

「僕たちが勝ったよ、トール!」

「おめでとうございます。王子様方」

 初陣での勝利は、格別だ。

 側近のトールとともに勝利を喜び合っている姿を、ロキと目線を交わしながら微笑ましく見守っていたが、そろそろこれを伝えておかねば。

「カルス。勝利を確認できたことであるし、私は午後にでも王都に向けて発とうかと思う」

「え……」

「出発までに、各師団長に指示は出しておく。後は、お前が……」

「じゃあ、僕も一緒に王都に戻ります!」

 カルスに軍の引き上げを任せるつもりで話していた言葉が途中でさえぎられた。

「何を言っている。私は、お前に軍を率いて凱旋してもらうつもりで話していたのだ。此度こたびはブランダル将軍が居ないことでもあるし、初陣で勝利をおさめたお前にふさわしい役目だぞ」

「それなら……いえ、そう思ってくださっているなら尚の事、兄上もともに凱旋してくださいませんか?
ねっ? そうしてください」

 どうしたのだろう。カルスの様子が急に変わった。

「カルス、どうした? お前らしくもない我が儘を言ったりして」

「兄上こそ、そんなに急いで王都に戻ろうとなさるなど、おかしいではないですか。もしかして僕をここに置き去りにして、あの者に会いに行かれるおつもりなのでは……あ、いえ、何でもありません」

「何? 『あの者』とは、誰のことだ」

 どう見ても様子のおかしいカルスの口から出た『あの者』という言葉。それが誰のことを指しているのか察しがつかないわけではなかったが、それを口にしたのがカルスだったことで、咄嗟に問いかけ直してしまっていた。

「あの、失言お許しください。僕、兄上を責めるようなことを言うつもりなんか、少しもなかったんです」

 いつも私の目を真っ直ぐに見て話すカルスが、私からの問いかけに答えることなく、俯いたまま言葉を紡いでいく。

「でも、兄上はあの生贄の少女のことを気にかけておられるから。だから、そんなに急いで戻ろうとなさってるんですよね? けど僕だって、ここで兄上とともに頑張ってきたのにっ……」

「カルス、待て。なぜそのように思ったのだ? なぜ、ここで生贄の少女の存在について口にする? 私には、それがわからないのだが」

 語気が荒くなったカルスの様子も気になるが、なぜカルスが突然ルリーシェのことを口にし出したのか。
どうしても、それが聞きたかった。

「母上が……」

 少しして、小さな声が告げてきたのは、意外な人の名だった。

「ミネア様? ミネア様がどうした?」

「母上からの手紙が、毎日のように届くんです。僕とこんなに長く離れて過ごすのは初めてだから手紙を書かずにはいられないらしくて……手紙の内容は、王宮で起こったことや女官たちから耳にした王都の噂話など、取り留めもないことばかりなんですけど。で、その中の一通に生贄の少女の話題が」

「……どんな、内容だった?」

 人の口のに上るほどの話題とは、いったい……。

「多頭竜の召喚に失敗した元凶ということで、神殿で下位の神官たちから酷い迫害を受けているようだ、という内容でした」

「……何?」

 迫害、だと? どういうことだ?

 神殿の下位の神官たちからということは、ザライアは知らないことなのか? それとも、ただの風聞か?

 いや、正妃であるミネア様の耳に入るほどの噂なのだ。真実か否か、早急に確かめなくては。

「ロキ」

「承りましてございます」

 名を呼んだだけで、ロキが足早に天幕を出ていった。本当に、理解が早くて助かる。

 さて、次はカルスだ。

「カルス」


――ぴくん

 静かに名を呼べば、小柄なその肩が怯えたかのように跳ねた。不安げに見上げてきた瞳に、安心させるように小さく笑みを返す。

「生贄の少女の噂のこと、教えてくれてありがとう。それと、どうやら勘違いさせているようだが、私は噂のことは何も知らなかったから、それが原因で王都に早く戻るわけではないのだ」

「兄上……」

「勝利が確定すれば、もう私の出る幕ではない。前に説明したことを覚えているか? 勝利というものは、私ひとりの戦功ではなく、兵士たちが勝ち得たもの。だから凱旋軍に私は必要ないのだと」 

「はい、覚えています」

「それに、いつもならブランダル将軍に後事こうじを託すところだが、今回はお前が居てくれる。さらに安心して、先に王都に戻れるというものだ。――カルス。軍の引き上げを、お前に任せても良いか?」

「わかりました。僕、兄上がびっくりされるくらい立派に務めあげてご覧に入れますっ」

「ん、頼んだぞ」

 頼りなげに揺れていた茶色の瞳が、頼もしい言葉とともに強い光を見せてきた。

 よし、これで良い。初陣での勝利と合わせて、カルスにとって良い経験になるはず。

 あとは、ルリーシェについての噂の真偽だ。


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