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微睡む夢に、愛執の影

Ancient Egypt. At Thebes.【2】

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 未明。王妃が、花池を訪れた。
 身に纏うは純白の薄衣カラシリス。祈祷の際に身につける装束だ。だが、祈りを開始するには、常よりも随分と早い時刻である。

「……トゥト、様?」
 小鳥のように軽やかな響きは鳴りを潜め、夫の名を呼ぶ妃の声はひどく掠れている。優美なその手にあるのは、青き睡蓮。
 朝に花開き、夕になればねむるように閉じていく、高雅な花。死と来世の象徴として、冥界への供とするべく死者へ手向けられる青紫せいしの花を胸に捧げ持ち、妃はまた口を開く。
 トゥト様。私の、トゥト様。この世でたったひとり、私が心から愛する御方。本当に、亡くなられてしまわれたのですか?

「……っ、あの男」
 嗄れた妃の声音が、憎々しげに場に響く。清浄な睡蓮の花香が満つる空間には不釣り合いな、怨嗟の呟きだ。
「あの男がっ」
 青みを帯びた茶瞳に、憎悪とともに黒い輪郭が浮かび上がる。それは、出来ることなら忘れたかった、忌まわしい過去の記憶。

『あの脆弱な王では、駄目だ。我を選べ。さすれば、この王国をさらに繁栄させることが出来る』
 妃に、夫を裏切れと迫り、脅していた神官の幻覚が彼女の眼前でゆらゆらと揺れている。
『我も王族だ。神官ではあるが、王位の継承は可能な血筋。さらに、先王の娘である其方を妻に迎えれば、我が王朝の行く末は盤石のものとなる』
「あの卑怯者。あの男が、トゥト様を……」
『我のもとにくだれ。実の父親の妻にされていた其方を神殿に匿い、助けてやった我の恩を忘れたか?』
「やめて!   それを、思い出させないで!」
 泣きすぎて掠れてしまった声が、花池に吹く風を切り裂く。けれど、黒く滲んだ神官の幻覚は消えることなく場にとどまり、妃を見おろしてくる。

「あの頃を……何の希望も無く、ただ時間が過ぎていただけのあの日々を思い出させないでっ。お前に会えば、それを思い出すから。だから、神殿には行きたくなかったのに!」
 妃が神殿に足を向けなかったのは、そこに神官がいたから。
 彼女とて、一国の王妃。睡蓮を好み、その再生力にすがって崇めるためだけに、神殿での祈祷という王妃の務めを切り捨てて花池にこもっていたわけではない。神殿を避けなければいけない理由があった。
 そして、その理由こそ、愛する夫にだけは告げられなかった。ただ、睡蓮が好きなのだと笑って誤魔化すしかなかった。

『あぁ、そうか。我が与えた救済を恩だと思っていなかったか。其方は、自身の運命に流されるだけの愚かな女。父の手を拒まず、その子を産んだ女であった』
「黙れ……黙れっ」
『だから、神殿に祈りを捧げに来たついでに其方を攫っていった少年王。異母弟の妻に、平然とおさまることが出来たのだったな』
「お前が、トゥト様の名を口にするな。私を蔑むだけなら構わない。いくらでも貶め、侮蔑の言葉を吐き捨てればよい」
『あの出来損ないの若造。杖が無ければ、まともに歩くことも出来ぬ名ばかりの王のしとねに侍るくらいなら、神殿の統率者として人望も財も持つ我に媚びを売ったほうが何倍も有益だぞ』
「黙れ。私のトゥト様への侮辱は許さない。足が不自由でも、それを補うために身体を鍛えていらした。あの御方が駆る戦馬車チャリオットは、誰よりも速かった!」

 王妃以外、誰もいない花池。彼女の後悔と怨みが作り出した神官の幻覚が、醜い嘲笑を浮かべて揺らめいている。が、その姿は妃にしか見えない。
 射しめた曙光が池の水面をあまねく照らす中、ぽつりぽつりと妃が語りかける。彼女の記憶がかたどった、黒い憎悪に向けて。
 私を真の意味で救ってくださったのは、たったひとり。トゥト様だけ。

 異母弟おとうとの妻になって、何が悪いというの? ここは、そういう国でしょう?   王朝を繋ぐために、王家の者、皆がそうやって血筋を守ってきたのではないの?
 王女としての義務しか知らなかった。王家の系譜を繋ぐ一端として、無理矢理に実父の妻のひとりにさせられ、その娘を産んだ。
 何の意思も持たない、中身は空っぽだった私をトゥト様が連れ出してくださり、たくさんのものを与えてくださった。
 蕩けるような熱情と、心震える愛の言葉。日々、惜しみなく与えられるそれが傷ついた私の身と心をどれほど癒やし、女としての歓びで満たしてくれたことか。どれだけ幸福だったことか。
 その大切な夫を、お前が奪った。神官にあるまじき汚い策略で。
 だから、お前は許さない。

『さぁ、我の妻となれ。我とともに、この王朝を引き継ぐのだ』
 異母弟であるトゥト様を心から愛した私を愚かと蔑んだ、お前。老いた身で玉座を狙い、王妃である私を妻にと望む驕慢な神官。私を恩知らずとなじったけれど、お前も忘れているのではないの?
 私が、お前の孫だということを……。

 夫を奪われた妃が、空に向けて両手を掲げた。
 太陽神アメンが与える光の恩恵が、等しく大地に降り注ぐ。神の寵児まなごと称えられた国王を喪った翌朝だというのに、そんな悲劇など無かったかのように今日も陽は昇り、輝いている。
 空に伸ばした妃の手の中で、澄んだ蒼天に溶けゆくように重なるのは青い睡蓮だ。
「この花から生まれたとされる天空神ホルスのごとき尊いひと。私のトゥト様に、聖なる花を捧げます」
 再生の象徴、睡蓮に、妃は想いを込める。今は見えぬ来世に向け、誓いの言葉を紡ぐ。
「どうぞ安らかに。そして、待っていてください。私があなたの仇を討つ日を」

 立ちのぼる高雅な花香に女の情念が絡み、重苦しい妖しさが場に満ちる。
 もう既に、王の遺体は祭壇室に運ばれている。かつて、敵国からも美貌を讃えられた少年王は数十日をかけてミイラへと姿を変え、死者の国で冥界神アヌビスの審判を受ける。はなむけは、青睡蓮と黄金のマスクだ。
 夫のひつぎに捧げるため、最も美しく開花した花を妻は手ずから掬い上げた。聖花の芳香に満ちた雫が、青い花弁からポタポタと滴り落ちる。
 花池の水に濡れて尚、王妃の手指にこびりついた血は落ちない。凶刃に倒れた夫に駆け寄り、抱きしめた時に付いたものだ。

「幾星霜の時を経ようとも、私の愛は変わらずにあなただけのものです。必ずこの手で、あの呪われた老神官アイの身に刃を突き立ててみせます」
 愛する人の血にまみれた手で鎮魂を願い、果たすべき復讐を王妃は誓う。
「時代がどれほど変わろうと、連綿と生の営みを繋ぐ、美しき睡蓮たち。清浄なこの花が人々から愛され続けるように。同じように、私の想いもずっと生き続けていくでしょう」

 薄幸の王女、アンケセナーメン。小さき乙女の魂は今、生きながらにして輪廻の狭間へと旅立つ。
 無機質だった彼女に自由と平穏を与え、慈愛と激情を教えた美しき少年王、トゥト・アンク・アメンTut-ankh-amenとともに。

 ——たとえ、この身は滅びようとも、魂に刻んだ想いは決して色褪せない。
 永遠の愛を、あなただけに。





【第一部・完】
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