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氷塞城市

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 時々、夜の歩道の光景が浮かぶ。
 帰るよ、と誰かに言ってきた。

 その人はなんていうんだっけ。
 自分は何と呼ばれていたんだっけ。

 そこまで考えて、藍は飛び起きた。

「危ない! 思い出さなきゃ」

 すると誰かが「御用は」と聞いてくる。

「ありません。ごめんなさい」

 藍は早口でそう答えた。

「藍。私の名前。藍」

 自分の名前を忘れそうって、末期だろう。

 今日は思い出せることがほとんどない。

 自分はずっとこのまちで暮らしているのではなかったか。
 今はケガした吏王の世話をしている。
 それが与えられた仕事。
 吏王はこの楼閣の主人だが、不在にしていることも多い。
 姐さんがその間は住人をまとめるのだ。
 藍は吏王が訪れるこの家を守っていて。



「本当か」



 問う声。

 藍はああ、と呟いた。

「私は、海の近くで姐さんの船に乗ったんだっけ……」

 では、ここで暮らしていると思ったのは間違い。

「蜃気楼から出るには」

 誰かが教えてくれる。


「藍、忘れないでほしい」


 帰るよ。


 藍は着替えを探した。
 この部屋には荷物をしまうようなものがない。
 では誰かが持っている。

「最初に来ていた服を返してください」

 最初。
 なぜ自分はここに来た。
 いつ来た。
 誰と?

「藍。帰るのはここだ」

 砂浜の光景と共に声がする。
 寝ぼけている?


 ぱさりと音がして、枕元に藍の服が現れた。
 スマホが上に乗っている。
 冷たい水に濡れたのだと思い出した。
 
 姐さんと。
 ここに来た。

 急いで着替えて泉殿に向かう。
 吏王はクッションに寄りかかったまま眠っていた。
 テレビはついている。
 画面はタイトルで静止していた。
 手元に何枚か映画のディスクが散らばっている。

 起こしたくなくて、そばにそっと座った。
 
 ケガは治ったのかな。
 もう痛くはない?

 見えるところに傷跡はない。
 
 この人は、……何だ?

「蛟龍だ」

 誰かがきっぱりと教えてくれた。

「蛟龍という生き物だ」
 
 



 目を開けて、吏王は一度、画面の方を見た。
 ゆっくり視線を巡らせて、藍のところで止める。

「起きるまで、待ってた……?」

 そんなことされたことがなかった。
 理由がわからずに不思議そうな面持ちになる。

 藍の用件が何か服装で察した。
 静かに身を起こす。
 促すように見つめた。

「吏王さん、私、帰りますよ」

 藍はそう告げる。



「どこへ帰るんですか?」



 そう聞いた時、空気が変わった。

「スタジアム近くの橋の上。
 砂浜の近く。
 そこからここに来た」

 藍は答える。

「ここはどこだか知っているんですか?」
「蛟龍の蜃気楼の中です。
 吏王さんの楼閣のまち。
 あなたは蛟龍という生き物」

 人間の姿の吏王は笑った。
 藍には記憶がほとんど残っていないことが分かる。
 何を捨てても覚えていなければいけないこと。
 それを手放さなかった。

 結んでおいたのは、おそらく。

「ここの出入り口はどこですか?」

 もやが部屋の中に入ってくる。

「楼閣のわきに桟橋があります。
 石の飾りのついた桟橋。
 姐さんと手を繋いでいなければ現れない。
 それが出入り口です」

 吏王はため息を吐いた。
 
「もうちょっと難しい出入り口にしよう」
「簡単じゃないですよ」

 藍は吹き出す。
 もやはどんどん濃くなってきていた。

「龍の姿を見せてください」

 お願いすると、白龍が姿を現す。
 古傷が多く刻まれた肢体。

「きれいでかっこいいです。龍の姿」

 厳しい環境を戦って生き抜いた。
 それはほんとうのこと。

「もう帰るんですね」

 吏王の声は静かに沈む。

「よく眠れたのに。残念です」
「静かに過ごしたいなら姐さんはこの家にずっと出禁です」

 白龍はちょっと牙を見せる。
 これは笑っている顔だと分かった。

 誰かはもっとはっきり笑う。
 かぱっと口を開けて。
 大きな声で笑う。

 誰だっけ。

「藍さん」

 その声と、元気な声が重なった。

「藍」



「邪魔しません。行って」

 静かな声が続く。

「自分がここを出た時は、昊とやり合う時です。
 どちらに転ぼうともう会えませんね」
「盗まない将来だって選べますよ」

 藍は言ったが、吏王はそうは思わなかった。

「この楼閣がある限り自分は盗賊です」
 
 生き物はままならない。

「もうすぐ時期が来ると分かるんです。
 自分にそれを果たす力が残っていないことも分かるんです。
 でもね、天にのぼらなきゃ、いけない」

 どうしようもなく絡まった人のために。
 てめえがいちばんの大間違いだったって、つきつけないために。

 吏王は龍になると決めた。

「盗ってでも」

 独白のような呟きは最後藍に向く。

「逆らえないんですよ」


 のぼりたいと切望する。
 叶えるために何でもする。
 倒れて落ちるまで。夢中で。

 
 吏王の目は哀れっぽくも弱くもなかった。
 もうその道に決めてしまった。
 だから突き通す。

「さようなら」

 藍は一言言い置いて家を出た。

 もやの中、楼閣の足元まで来て姐さんを呼びつける。
 上からひょいと顔を出してきた。

「姐さん、下りてきて」
「駄賃次第」

 くっそ。

「これは?」

 藍は胸元の石を取り出して首から外した。
 姐さんはすぐに降りてくる。

「くれんのかい?」
「見せるだけ」

 藍は彼女にそれを渡すと周りを見回した。
 冷たい風が顔に当たる。
 不自然な枯れ草の塊があった。

 そちらに歩き出すと、草むらの手前で手を掴まれる。

「そっちには何もないよ」

 姐さんだった。

「ここは蛟龍の楼閣」

 藍は姐さんの手を掴みかえす。

「私はスタジアム近くの橋の上で蜃気楼に入った。
 そこに帰る」

 ぐいっと引いて姐さんごと草むらに突っ込んだ。

「あんたとここが出入り口でしょ」
「うぉ……っ」

 姐さんが驚いて叫ぶ。
 思い切って飛ぶと、背中から船に落ちた。

 痛い、と悲鳴をあげたが、船が動き出したのに気づいて慌てて起きる。

「っし!」

 思わず拳を突き上げた。

「お嬢さん……」

 悔しそうな姐さんの頭の上から、また笑い声がする。
 今は分かった。
 これは吏王。

 負けだ。
 藍は自力で帰る。

 姐さんは舌打ちした。

 誰か待っている。
 行く手を見た。

 ここにいる。
 そう言って待ってくれている。

「昊」

 それが何なのかは思い出せなかった。
 なぜ帰るのかも忘れている。

 船底が擦るような音がし始めた。
 そこに手が伸びてきて、船を引く。

「藍、帰ってきた」

 大きな声が聞こえた。
 片腕で藍を受け取り、片手は姐さんから石を取り返す。

「お前になんかやらない。
 鱗一枚だって嫌だ」
 
 幼い子のように言った。
 そして蜃気楼の境目から飛び出した。



 目の前に霧が濃くかかっている。
 風に乗ってどんどん湾の方へと流れていった。

「昊だね」

 霧が晴れるにつれて記憶が戻ってくる。

「藍はすごいな」

 あははって、大きな声で笑った。
 去年はこの顔が不安になったけど、今日はこの顔で嬉しい。

 昊はひとしきり笑って。
 すぐにへたり込んでしまった。
 
「どうした、昊」

 藍もしゃがんで目線を合わせる。
 様子がおかしかった。
 顔つきが、……ぽやんと? している。

「風邪ひいた」

 この蛟龍はふわふわとそう言った。

「風邪?」
「うん。商店街のおばちゃんが、風邪じゃない? って」

 そんなわけあるか。
 そんなことあるのか??

「初めてきっちり人間として暮らしたんだ。
 いろいろと慣れなかったのかもしれない。
 藍がいない間はずっとこの姿だった」
「なぜ」

 藍は驚きすぎてほとんど睨むみたいになる。

「藍に店を守れって言われたから。
 人間としてしないといけないと思った」

 昊は。
 気ままなようで、ちゃんと見ている。

「藍がいなくてこわかった。
 帰ってくると信じてはいたんだ。
 同じくらい、全部を忘れて帰ってこなくなるかと思って。
 気が病んでいた」
「それで、風邪ひいたの?」
「たぶん」

 藍はきょろきょろと辺りを見回した。
 図鑑(小法師)はいない。

「帰ろう」

 そう言って、スマホが生きているか確認した。

 昊から毎日写真が届いている。
 ここに通って、藍を待っていた。

「風邪かもね」

 毎日日が暮れてから海風にさらされていたから。
 藍はぼーっとして緩んでいるような昊をひっぱった。
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