端木 子恭

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幽霊

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 初夏。
 勇与ゆうやは房総半島の方へ向かう船を見ていた。
 ばっさりと足を前に投げ出して座る。
 昼下がりの潮風は、あまり快適ではなかった。
 
 傍らには杖が置かれている。

 漆のように黒い瞳にはおよそ意識はなかった。
 憂うでも喜ぶでもなくただ目の前の湾をゆく船を見ている。

徳地とくじ

 名前を呼ばれると、彼はそのままばたんと地べたに転がった。
 地に頭を擦り付けて、後ろから近寄る者を見遣る。

「木原さん」

 近所で育った年上の知人だ。
 勇与は目に少しだけ喜色が乗る。

「家の方に行ったら散歩中というので探していたんだよ」

 はかま姿の男性は、そう言うと彼の右足を気遣った。

「怪我したって聞いたんだが、具合はどうなんだい?」
「だめですね」

 さっぱりとした返事をする。

「右足はもう一生動かないそうです。
 手で持って曲げたりはできるんですが、自力では動きません」

 両手で右膝を折って見せた。
 木原は慌ててそれを制止する。

「無理に動かすなよ。怪我自体がひどかったそうじゃないか」

 勇与は数か月前まで海軍にいた。
 急な任務で上陸した先で負傷した。

 障害の程度がはっきりするまで、予備役となって実家に戻っている。
 医者からは先刻言った通りもう自力では動かないと告げられた。
 遠からず完全に退役するかもしれない。

 機械で動く船が好きだったが、もはや乗れない可能性が高い。

「木原さんは今何してらっしゃるんですか。
 …何かの役職に就かれたとうかがいましたが」

 昨年あたりに新しい職の口を得てから姿を見ていなかった。
 今日、久しぶりに顔を合わせている。

「そうなんだよ。今山あいの村で工場長をしている。
 雇われなんだがな」

 雇われ城主、というところに小恥ずかしさがあるのか彼は頭を掻いた。

「主に生糸を生産していて、稼ぎは順調だ。
 しかしひとつ問題が起こっていてね」
「へえ?」

 自分とはあまり関係のなさそうな話である。
 勇与は再び岸から離れていく船を目で追った。
 貨物の蒸気船が横切るのを、手漕ぎの小舟が控えて待つ。
 遠くに軍艦が霞んでいた。

「実は徳地にその困りごとを収めてほしくて話を持ってきたんだ」
「おれに?」

 暇だからか。

 そんな心が漏れ出して、勇与の眉が歪む。

「先にご両親には相談して承諾されている。
 その頼み事っていうのは…」

 木原は言いにくそうに言を紡いだ。

「幽霊退治なんだよ」
「はあ?」

 寸の間息を止め、この年長者に対する罵詈雑言を風に乗せて流す。

「ああ…、まあ…。聞きますよ、お話」

 もう近所の兄さんではない。
 工場長という立場ながらわざわざ胡散臭い頼み事をしに足を運んだのだ。
 無下にしてはかわいそうである。

「今、持ち主の人が工場の拡充を計画していてね。
 機械産業へ転換しようというんだ。
 そこで、新しく従業員寮を建てようと考えた。
 頃合いの屋敷を買い取ったんだが」

 木原は勇与の眼光鋭いのを察して額に汗をかいていた。
 幼いころからこの子はずけずけ言ってくる。

「そこに幽霊が出るとわかったんだ。
 地元の人が工事に入ってくれないまま数か月すぎた。

 無論、お祓いや供養や、いろいろしたさ。
 徳地のような軍経験者にも来てもらってなんとか話をつけようともしたんだが」
「幽霊相手にですか。
 話もクソもねえ、とっとと取っ潰して何も祟らねえと示してやればいいんではないですかね」
「そう乱暴な話に持っていっちゃいけないよ。
 地域の人の心ってもんがあるじゃないか」

 そう言われると、謝るしかないが。
 勇与は小声ですみません、と呟いた。

「で、乱暴なおれに幽霊の無念を聞けと」

 胡乱な顔で木原を見上げる。
 汗顔のまま彼は頷いた。

「徳地のようにな、立場のある者から大丈夫と聞けば、住民も抵抗なく協力してくれるだろう?
 頼まれてくれ。中尉殿」

 木原は顔の前で手を合わせる。

 きっと両親がこの話を承諾したのは、無為に過ごす勇与を心配してのことだ。
 幽霊でも妖でも、なんでもいいから取り組んでこい。

「そこで、おれの衣食住は世話してもらえるんですか」

 その言葉に木原の顔がぱっと明るくなった。

「衣と住は大丈夫だ。
 その屋敷には当主の衣類が残っているし、寝泊りはその屋敷で」
「幽霊さんの持ち物勝手に使ったら怒られるのではありませんか。
 それにおれは背丈が六尺あるんですよ。ご当主はそんなに大柄でしたか」
「ああ。背が高い方のかたである。
 年かさも徳地と同じ頃だ」

 他人事として、木原はその辺をあいまいにしてきたようである。

 幽霊退治…。

 だいたいどうやって退治するのか。
 その道の専門職たちでも無理だったのだろう。

 いろいろ言いたい事はあった。

 しかし、ここにいてもする事はない。
 年頃の近いその幽霊と、話だけでもしてみようか。
 何日か旅に行くつもりでおれば、木原の顔も立つのか。

「どこなんですか、そこ」

 長い指で木原の腹のあたりを指して尋ねる。

「県境なんだ。山に完全に囲まれている。
 徳地の好きな海は見られないが、空気はいいぞ。
 夏でも暑くならないから過ごしやすい。
 車の人もごくごくわずかだから、杖をついていても安全だ」

 彼は一所懸命いい所のように言った。
 
 足が不自由な勇与にとっては難儀な場所であるらしい。
 行く、帰るが軽々しくできない所なのだ。
 何をすればいいのかは分からないが、口のきける幽霊なら解決の道もあろう。

 勇与は鼻から息を吐いた。

 木原の推薦を受けることにする。

「食は世話してもらえるんですか。
 おれは煮炊きが苦手です。それと毎日水物がほしい」

 譲れない条件として勇与はそれを挙げた。

「酒か?それとも水菓子の事かい?」
「両方です」

 木原はホッとして肩から力を抜く。

「それは保証するよ。毎日届けるよう、わたしから手配しよう。
 煮炊きもうちの工場の者を交代で遣るから心配ない」
「…よろしく」

 そう答えておいて、勇与は湾の方を向いた。

 海のない所へ行く。
 未練たらしく船を追わずに済む方が、良いのかもしれなかった。

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